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『蝉廻り』‐012


【凛 】- その一文字そのものだった。

ブラウスに写るスラっとした腕。

真っすぐに下ろされた髪が、笑いで揺れる肩に合わせて踊る

透けるスズランの様な白い肌に、少し彩りを加える艶やかな唇

どこかはかなげなのに その立ち姿は凛としている野花の様だ。

三日月のように弧を描いた目は、暖かさで満ちている和らぎそのものだった。

風を受け、踊り舞いそうなふわりとした草みどり色のスカートに包み込まれ

彼女はそっと立ちドアの向こう側で真っすぐに優しく微笑んでいた。

 

雲の合間から射す光が 彼女の背を押すように流れ込む。微かに透けて すぅーっと写り見た彼女のシルエットにドキッとした。すらりと伸びた手足。緩やかに流れる肩。細く伸びる指先 。繊細と強さが同化したかのような その立ち姿から、僕は目をそらすことが出来なかっ た。

太陽が雲の後ろに隠れ行き、光がフェイドアウトしてゆくと同時に僕も我に返っていった。

 

 

”あっ…のぉ、変な所見られてしまったみたいで…” 少しばかりひきつった苦笑いが出てきて初めて恥ずかしさを確認する。

”あっ、すみません。私、思わずつられて笑ってしまって…。” これでは盗み見していたように思われてしまう。 ”あの、本当に私…笑ってしまったというか、微笑みが出てしまったというか…。” 言っているこっちが恥ずかしくなってしまい、頬が少し熱くなる。一瞬でも彼の姿に心が奪われてしまったなど 到底言えることはなく、自分でその事実を認めることにもまた動揺していた。心臓がトクっとなったが、今朝感じた様な刺すような感覚とは違っていた。

頬を少し赤らめながら左下に目線を落とす彼女にどう声をかけてよいのかも 焦りと恥ずかしさで分からなくなっていた。シルエットをなぞった彼女の姿にドキッとした僕の心はペースをさらに上げて弾んでいた。彼女に気が付く前、僕はどんな表情をしていたんだ?

 

   

 

   

 

”こちらに成瀬教授は?”ちょっと間をとって彼女が言った。”あっ、実は僕も今来たばかりで… 誰もいなくて何がなんなんだか…。” また笑いがひきつってしまった。そうだった…奴らはどこに いるんだ?”あっ、でも荷物…。” 女物の皮バッグが机の上に置かれていた。少し視野を広げると、向こうの席にも鞄が置かれている。

”あそこにも鞄が。” とその机を指さすと 彼は私の指さす方に顔を向けた。さらっと遅れて流れる彼の髪。

彼女のしなやかに伸びた指の先にあったのは、篠崎のハンドバッグと三井の鞄だった。やっぱり来てるよな…でもどこに行ったんだ?僕の中で、二人がいてくれなかった事にどこか感謝に似た感情が湧いたことは 僕だけの秘密にしておこう。”た、ぶん…資料を集めに行ったの …か、な?”  疑問形になってしまった。

そういった彼が可愛く見えた。”やるせない…ですね。” ふふっと笑って茶化してしまった。初対面の人に言うことじゃなかったかもしれないけれど、 彼の言葉にどうしても我慢できなかった。

あーー聞かれてた…僕のぼやきは彼女の耳に届いてしまっていた。なんだって僕はいつもこうなんだろう…。


笑う彼女と / 呆気に取られている彼と 目が合って、二人同時に笑ってしまった。

 


”白沢、白沢 誠司しらさわ せいじといいます。”

成瀬 和風なるせ わかです。”

 

彼女との/彼との 初めてのこの空間が とても 心地よかった。

 

 

 

”しーらーさーわ!!!” 彼女の後ろから恨めしそうに張り倒されるような声があげられた 。ドドーンと腰に手を立てて立ちはだかる影。篠崎が鼻から息を吐く闘牛のごとく見える。僕の血の気がどっと引く。 ”ちょっとぉ、なんで今日は遅いのよ!!田川教授が古いデータを資料室に運べっていうから 三井と、か弱い私二人で運ぶ羽目になっちゃったじゃないのよ!!” いや、まて。か弱いってなんだよ…。”しかも三井の奴は全然使えないくらいへなちょこだし、なんで…” といったところで、篠崎は彼女の存在に気づき言葉を止めた。 ”あれ?さっきエレベータの…”  彼女は篠崎を見てにっこりお辞儀をした。前かがみになった彼女の肩から髪がさらりと滑り落ちる。”あっ” その瞬間、下で香った優しい匂いが空気中を漂った。彼女の香り? ”あのポンコツエレベータおそかったでしょう!” にかっと彼女を見て篠崎が言う。”とても …のんびり屋なエレベータでした。” ふふっと笑いを浮かべた彼女はとても嬉しそうだった。篠崎はその笑みを保ちながらくるっと僕のほうを向き ”白沢君にこんな美人な彼女がいたなんて知らなかったなー!!” 少しばかり横目を使った たくらみのあるにやけ笑いだ 。”ばっ、そんな失礼なこと言うなよ!”つい力がこもってしまった。ふと彼女に目を向けると、少し顔を赤らめながら下を向いている。 ”篠崎さんが変なこと言うから 成瀬さんも困ってるじゃないか!” … 巻き戻しが出来ない時間がもどかしくてしょうがない。 ”でも、何だか、楽しそうですね。” 彼女がぽつりと目線をあげて僕を見ながら言った。その笑顔は本当に嬉しそうで、彼女をこんなにも素敵な笑顔にさせているものが何なのかが知りたい衝動にかられた。”彼女は成瀬教授を訪ねて…。” ん?成瀬…教授? ”あっ、もしかして成瀬教授の娘さん?!” 僕を遮り篠崎が前にのめりこんで聞いた。彼女はこくりと頷いて 小さく”はい”と答えた。


成瀬教授は先日学会先で珈琲をお土産に買ってきてくれた先生である。穏やかで、いつも一息置いてからしゃべる教授は いつも否定も肯定もせずに僕の意見を一言で導いてくれる。細身の体つきには大きすぎる丸眼鏡をかけて、よく腕を後ろに回し持ちながら歩いている。教授は少しばかり不思議な人だった。窓から歩く教授を見ていると、決まって上を向いたり下を向いたりと、きょろきょろと探し物をしている。たまに地面にうずくまって何やら手に取っていたりした。教授が研究室に嬉しそうに何かを握りしめてきたある日の事を僕はよく覚えて いる。大事に手に握りしめていたものは、あちこちに落ちている変哲もない「どんぐりの実」。よく見るとぱかっと割れた隙間から小さな葉っぱが顔を出していた。”小さな命を見つけてね。” そう言ってとても愛おしそうにどんぐりを見つめていた。当時の同僚に ”どこかに植えて育ててみてくださいよぉ。” などとからかわれていたのだが、教授はただ優しい笑みを浮かべて ”そうだねー。” と嬉しそうに笑うばかりだった。たまに幼い子供のように笑う教授だが、彼の娘さんに出会った今だからいえる事…小さなことにも喜べる才能が教授にはあるのかもしれない…そう思った。彼女の笑顔の理由は他でもない教授そのものであるかのように僕は感じた。

 

”さっき教授の部屋に顔を出したんだけれど、なんだかソワソワしながら 今日は娘が来てくれる約束だから、こっちにはその後で来るって言ってましたよ。教授、娘さんが来るの待ち遠しいんじゃないですか!” 篠崎は毎度毎度、僕の思考をいともまぁ簡単にぷつっと切ってくれる。”あっ、やっぱり天文学の校舎部屋ですよね。”…彼女は教授がソワソワしている事を思い浮かべたのか 含み笑いをして言った。教授の専門は天文学地球惑星科学で、気象データなどを集める僕らを天文学的視点から指導してくれている。”教授のところまでご案内しましょうか?”とっさに口を出てしまったとはいえ速攻で聞いてしまった。慌てて篠崎にチラッと目をやると…やっぱりだ。このタイミングでの今の問いは篠崎の格好の餌だ。両肩がずんと重くなる。”ありがとうございます 。でも、大学の方にはよく顔を出していたので大丈夫です。”にっこり笑って彼女は言った。あーーー 、篠崎とこの部屋に取り残されるのは絶対に嫌だ。”またお会いするかもですね。白沢さんと …” ”篠崎です!篠崎美紀!”  ”成瀬…成瀬和風です。これからも父をよろしくお願いいたします”。彼女は会釈をしてすぅーっとドアの外に歩き出した。くるっとドアに振り返る動作がスローモーションのように流れる。彼女の睫毛がそっと降り、うつむき加減の横顔から左耳へと移る。さらりと揺れ動く髪…ドアの外で左に曲がり、彼女の顎のラインがスッと上に切れる。一瞬彼女の瞳がこちらへ流れ、僕を見つめた。僕の錯覚であったかもしれない…でも、その瞳は笑っていた。彼女の立っていた場所には空気の流れが螺旋を描く点線のように残っているかのようだった。 ”しーらーさーわ君♡” その声に見えないハートがついて聞こえる。まずい、こいつがまだ居たんだった…。慌てて ”僕ちょっとトイレに行ってきますね!” 左口角が妙に震えてひきつりながら僕は篠崎の顔が見えないように出来るだけ目を細めて笑いながら、そそくさと部屋を後にした。



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