映画館で世界に触れる
もののけ姫を映画館で見た。
金曜ロードショーで何度も見たことのある物語。ストーリーや登場人物は覚えているし、セリフもところどころ覚えている。
それでも、だからこそ、
映画館で見るもののけ姫は何もかもが違った。すぐには言葉が出てこないほど。
視界いっぱいに広がる森の景色と、目がくらむような疾走感。アシタカの目に力が籠るときの一瞬の筋肉のこわばり。テレビでは聞き取れない微かな葉音。
全部全部良かった。映画館で見て良かった。
小さなテレビの枠の中の画面の向こうの物語ではなく、視界いっぱいで私を包む実体としてもののけの森がある。
アシタカになったわたしはヤックルの蹄の軽やかな振動を感じられたし、サンになって山犬に跨るときは頬を刺す風を感じた。わたしの十指はシシ神の森の湖の冷たさを覚えているし、タタラ場でふいごを踏むときの目を瞑りたくなる熱気を知っている。
映画館の力はこれだったのか、と初めて腑に落ちた。
初めて価値が身に染みた。
昨日までのわたしは、正直、映画館がそこまで好きではなかった。わざわざ遠出して、椅子にきちんと座って、声を出さないように気を付けながら、前の座席の人の動きに少しイライラしたりして。
アマゾンプライムや金曜ロードショーでいいじゃないか、と思っていた。お家でくつろぎながら、好きなお菓子を食べて、驚いたら声を上げてけらけら笑える場所がいい、と。
『架空』を楽しむにはそれで良かったんだ。それはそれで楽しい。
けれど、映画館で見る物語は『世界』だった。
見て触れて聞いて感じることができる『世界』そのものだった。
そう、世界。
世界、美しかった。
言葉にならないくらい。
この感動を覚えていたくてつらつらと言葉を紡いてみたけれど、全然足りないな。全然足りない。清々しいほどに足りない。この感覚を覚えていたいな。
もののけ姫は、正義と欲の物語だと23歳のわたしは思っている。
それぞれに守りたいものがあって、それぞれに正義がある。サンも、エボシ様も、モロも、イノシシも。大切なものを守るためなら他を傷つけることを厭わない強さ(弱さ?)がある。
でもそこに少しずつ欲が混ざり始めたとき、世界の均衡は崩れるのだろうな。この物語のあと、エボシ様はまた森を切り崩すのだろうか。生きるために、民を生かすために。わたしはそれを欲と呼んでいいのだろうか。
そういえば、アシタカだけが守りたいものを持っていないように見えた。成し遂げたい世界はあれど、守りたい何かはない。アシタカは誰なんだろう。アシタカは誰の目線を担っているのだろう。
23歳のわたしはこの物語の感想を上手く言葉にできない。知識も、経験も、知っている感情も、知っている言葉も、何もかもが足りていないから。
だから、これから生きていくときに、この物語に存在する感情をひとつずつ、少しずつ集めていきたいと思う。このさき長い人生で経験するたくさんの感情の中に「あぁこれは、あのときの、あのひとの」と響くものを見つけていけたらいい。そうやって少しずつこの物語を自分のものにしていく、そういう生き方をしたい。
もののけ姫を映画館で見て良かった。心の底から良かった。
ジブリを映画館で見られるのは8月13日までらしい。
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