【創作大賞2024恋愛小説部門】泡沫の微熱33 清夏②
【前回のお話】
【1話目】
「凪から聞いた。体調はどうだ」
実家に妊娠の報告をした数日後、つわりのせいで重だるい身体を引きずって会社を出ると、ぴかぴかに磨かれた真っ黒なセダンがビルの前に停まっていた。佐野社長とは違い、国産の高級車だ。
「良くはなさそうだな。早く乗りなさい」
「おとう、さん……どうして」
「妊娠した娘が誰の手も借りずにひとりで生活していると聞いたら、黙っていられないだろう」
お父さんに促されるまま後部座席に乗り込み、黒いファブリックシートに背中を預けた瞬間に吐き気が襲ってきた。口に手を当てて深呼吸を繰り返し、やっとの思いでそれを飲み込む。最近はいつもこうだ。車に揺られるほうが、満員の地下鉄よりもはるかにマシだろうけれど。
「どうして実家に帰らない。咲子のやつ、心配で倒れるぞ」
「三日に一回は来てくれてるから、大丈夫」
昨日もうちに泊まり、「つわりのときは無理して食べなくても、赤ちゃんに影響はないからね」とトマトのスープを作ってくれた。甘いものも温かいご飯もお味噌汁も受け付けないけれど、酸味のあるものは不思議と箸が進んだ。
お母さんは、会うたびにやつれていくわたしを見ては涙で目を潤ませ、貴介さんはどうしてるの、と訊ねてきた。突き放したのはわたしなの、と答えると曖昧に頷いて、それ以降は貴介さんの名前を口にしなくなった。
「凪と、会ってるの?」
「昨日、久しぶりに会った。例の件が片付いてからは初めてだ」
「元凶になった元同僚の人は、どうしてるの」
「うちの本社直営店舗でパートとして雇っている。もう絶対に逃さないと散々圧力を掛けたから、あのようなことはないと思うが」
見つけたら容赦しないと冷然な目で言い放っていたくせに、仕事を紹介したというのか。わたしの実の父親は、もしかすると超がつくほどのお人好しなのかもしれない。
あの後、凪とお父さんの間でどんな話し合いが持たれたのかを詳しくは知らない。
例の元同僚が札幌市内に潜んでいることをお父さんが突き止め、両者立ち合いの元で借用書を一枚残らず処分したと聞いた。凪を苦しめていた五百万円の呪いが、一年半の時を経て解けたというわけだ。
「凪は舌が子どもだよな。高いレストランのステーキよりも、安居酒屋のチャーハンを好んで食べる」
東西に細長い大通公園沿いの道路を並走していたが、ちょうど途切れたところで赤信号が灯った。気分転換にと窓の外に目を遣ると、煌びやかにそびえ立つ高級ホテルが飛び込んでくる。
昨夏、貴介さんの彼女を演じた場所だ。一年もしないうちに彼の子どもを身籠ることになるとは、あのころのわたしは想像もしていなかった。
「そんなこと言って、お父さん、結構楽しんでるでしょ。凪と飲むの」
「仕事関係のつまらない会食よりはな」
「素直じゃないんだから。息子みたいなんでしょ?」
「俺の息子ならあんなに要領が悪くないはずだ。しかし、娘も負けず劣らず親を困らせるからな」
冗談とも本気ともつかない口調にひやりとした。「どういう意味」と訊き返すのと同時に車が発進し、再び吐き気に襲われる。慌てて窓を全開にすると、五月のひんやりとした夜風が鼻を掠めていった。
「佐野くんとはどうなっている」
車内を覆う闇に匹敵するくらいの重々しい声が響き、ほんの一瞬呼吸が止まった。
下腹部に手を当て、まだ少しも膨らんでいないそこをさする。お父さんはいないの? 将来この子にそう訊ねられたとき、どう答えるのが正解なのか。
「……別れたの。凪から聞かなかった?」
「その割には、一時期の佐野くんは廃人のようだったが」
どくん、と胸が鳴る。ホテルに置き去りにした彼の姿を思い出す。逞しく広い背中には哀愁が漂っていて、一度でも足を止めたら戻りたくなると確信した。振り返れば、確実に離れられなくなると。
「あの佐野部長が丸三日も無断欠勤するなんて、人事部だけでなく会社全体がざわついたよ。可笑しかったのは、佐野社長が血相を変えて俺の部屋に飛び込んできたこと」
「社長が?」
「貴紀くんの件がフラッシュバックしたんだろう。貴介から連絡はないかって訊ねてきたよ。あなたが追い詰めたんじゃないですかと言ってやった」
翌朝出勤した貴介さんの目の下には青黒い隈が広がっていたという。体調を気遣った部下に対して「平気だ。私事だよ」と微笑み、休んだ分を取り返す以上に働いた。まるでなにかに取り憑かれているかのように。
「佐野くんの左手の薬指には未だに結婚指輪が嵌まっている。それを茉以子は、どう捉える?」
新しいマンションは大通から三駅先の、街の中心部から少し離れた場所にある。わたしの部屋は二階の角だ。築浅のこじんまりとした1LDKが気に入り即決したが、低層階であることだけが引っかかっていた。しかし、身重となったいまでは便利なものだ。
「貴介さんは、無事に専務に就任したの?」
ほんの少しであれば路上駐車も許されるだろうと、渋るお父さんを無理やり部屋に引き摺り込んだ。コーヒーを出してあげたいところだが、あの匂いがどうも受け付けない。
「ああ。先月の臨時株主総会で満場一致の承認を得たよ。就任早々大変だろうが、新しく作る人事改革関連の部署のマネージャーも兼務してもらうつもりだ」
なにか冷たいものをと麦茶を注ぐわたしを訝しげに見遣り、「いいから座りなさい。すぐに帰るんだから」と苛立ったように言う。昔、家族として一緒に暮らしていたころは、一見高圧的なこの物言いが大嫌いだった。
しかし、今ならわかる。お父さんは人を思い遣るのが苦手なのではなく、自分の好意を素直に伝えるのが苦手なのだ。照れ隠しと言い換えてもいいだろう。
親というのは最も身近にいる大人で、良くも悪くも手本となる存在だ。だからつい正しさを求めてしまうし、正しいと思い込んでしまう。この人たちも人間であり、常に迷い惑っていることを忘れてしまう。
なにを軸にするか、なにを大切にして生きていくか。正しさという曖昧な概念はそれによってあっさりと入れ替わるし、ある視点からは大絶賛を受ける選択も、逆側の視点で見れば誰かを不幸にしている。
周りの正しさに流されて生きるのは危険だ。それでも、そうやって生きている人が大半だろう。曖昧なものに拠らずに自分の軸で立っていられるお父さんは、少なくともわたしの視点からは「正しい」人に見える。
「お父さんが貴介さんを抜擢するってこと?」
「うちの人事体制を一番憂いているのは佐野くんだからな。多少荒々しい手を使わないと、あの役員共は追い出せない」
「そのまま社長になっちゃうって可能性は、ある?」
「無きにしも非ずだが、佐野くんはそこまで自分に甘くない。今は専務としての職務を全うしたいと張り切っていた」
「やっぱり、SANOには貴介さんの存在が必要だよね。逆も然り」
「逆とは、どういう意味だ?」
「貴介さんとSANOは相思相愛ってこと」
あの冬の朝の、胸が張り裂けそうな選択は間違いではなかった。悩み続ける貴介さんを見ていられず彼の前から消えるという非情な選択は、結果的に彼の背中を押した。それだけで、わたしたちの蜜月には意味があった。
後悔なら数え切れないほどしたし、あまりの喪失感になにも喉を通らない日もあった。ずっと彼の傍にいたかった。今でも、心のどこかでそう願っている。
男らしく節くれだった指に煌めくシンプルな指輪を思い出す。わたしたちが夫婦だったという証を、今でも身につけているのはなぜ? 離婚届を提出せず、戸籍上だけの夫婦関係を継続しているのは、なぜ?
「俺が言えたことではないとわかっているが」
お父さんが小さく息をついて立ち上がる。本当にすぐ帰るつもりのようだ。
「大切なものであればあるほど、一度離すと手に入りにくくなる。なぜだか解るか?」
そして、問いの真意を図りかねて俯いたわたしに畳み掛ける。「手離すまでに気が遠くなるほど悩むからだ」。
「悩み抜いて出した結論を覆すことはなかなかできない。半ば意地みたいなものだ」
「そんな、意地だなんて」
「佐野くんの答えは最初から決まっているんじゃないのか。その答えを茉以子に伝えるのかは知らないが」
見送りはいい、と素っ気なく言われて足を止めた。グレーのスーツを纏った背中が遠くなっていく。
「人生が続く限り、途中で決めたようなことは結論でもなんでもない。いくらでも覆せる」
右手を上げてドアの向こうに消えていくその姿に「お父さん」と駆け寄ったものの、虚しく閉まってしまった。
*
「順調ですね。七ヶ月に入ったので、次の検診からは二週に一度になります」
夏が盛る、八月──。
病院を一歩出ると、もわりとした暑さが纏わりついてきた。すっかり存在感を増してきたお腹に「暑いね、アイス食べよっか」と話しかけ、駅までの道のりを日陰を選んで歩く。
「もう七ヶ月かぁ。すくすく育ってて、えらいね」
まるで応えているかのようにぽこぽことお腹の中を蹴られる感覚が、くすぐったくて愛おしい。モニター越しに見る赤ちゃんはすっかり人間らしく成長していて、今日は運よく正面から顔を見ることができた。
「お顔はどっちに似てるのかな。貴介さんに似たらイケメンくんになるね」
性別を知らされたのは先月の検診のときだ。立派についているのが見えますので、男の子で間違いないと思います。そう告げられた瞬間、奇妙なほどすんなりと腑に落ちた。理由はわからないが、ここに宿っているのは男の子だとずっと前から確信していたのだ。
「でも、貴介さんと瓜ふたつだったらどうしよう。嬉しいけど、切なくなっちゃうな」
彼の活躍ぶりは凪を通して聞いていた。情報の出どころは、もちろんお父さんだ。
「難しい話はよくわかんないけど、SANOスーパーって関東に進出するんだろ? そっちをメインにしながら、人事改革のほうもすごい勢いで進めてるってさ」
ついに今秋、SANOという看板が東京と神奈川に上陸する運びとなった。数日前の朝刊紙の一面と経済欄に掲載されていた顔写真は佐野社長のものだったが、本文には「佐野貴史代表取締役社長(66)の実子である佐野貴介専務取締役(36)が実質的な舵取りを行なっており」と記されていた。
人事改革については、役員の半数を一新するという案を推進室内でまとめて社長に提出したそうだ。役員会議を経た後に株主総会での承認を得る必要があるため平坦な道のりではないが、改革の大きな一歩になると社内では期待が高まっているらしい。
「君のお父さんは、すごい人だね」
優しく撫でるとお腹の中がぐるりと動き、愛しさに笑みが零れた。彼は今、夏の盛りをどのように過ごしているのだろう。結論を覆せないまま、この子に会える日が近づいてくる。