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群れない 慣れない 頼らない
日本画家、堀文子さんのモットーだそうですが、私は井上新八さんの著書「続ける思考」で知りました。
自分自身の性格や性質に当てはめてみて「なるほど!」と膝を叩き。これって、好きなことを長く続ける秘訣なんじゃないかなと深く頷きました。
「群れない」……リアルでは割とノリが軽いタイプだと思われがちで(話しやすいとか友達多そうとかよく言われるけど実際は友達めっちゃ少ない)、その感じをネットにも持ち込みがちなんですが、本当は返信苦手だし、人の輪に入っていくのも億劫。
返信にすごい時間を要するし(いただいたコメントひとつひとつにちゃんと返さないといけない気がして同じフレーズを繰り返しがち)、もう出来上がっている輪(Web作家さんの輪、えっこの人とこの人も仲良いの?!みたいな驚きに満ち溢れてる。みんなすぐ相互フォローしててコミュ力の鬼なの?)に入るのが苦手というか怖い。
えっこいつ誰?って思われるのも怖いし、ぽろっと変なこと言っちゃいそうなのが一番怖い。
X(旧Twitter)やめたのも、そこに理由の一端があります。何気ないツイートに思ったよりリプついちゃって焦ったり、蔦のように広がっていくWeb作家さんの輪に入れず(そして入りたいとも思わず)、RTやいいねの義務感に耐えられなくなったのでした。重圧で潰れるかと思った。
Xって無法地帯だから、もっと自分の好きなこと好きなように書ける場だと思っていたんですが、しっかりコミュニケーション能力を試される場でした。私には向かなかった。
宣伝告知の拡散力はダントツなのでそういう使い方だけ残そうとも考えたんですが、やっぱり重圧に耐えられなかった(RTしてもらったから私もしないと、となると随時タイムラインを確認しないといけないわけで、見たくない情報ガンガン入ってくるのもきつかった)。
基本的に自分勝手でコミュ障の私には、こうしてnoteで壁打ち記事を書いたり、ある程度クローズの状態で文章を書くのが合っているのだと思います。
先日Xの代わりにインスタのアカウントを作りましたが、頻繁に投稿しなくてよさそうなので気楽です。8割方見る専の気持ち。
「慣れない」……もしかしたら、創作に向かう上で一番重要なことなのでは。
最初は数人に読まれただけで嬉しかったものが、いつの間にか、数千人に読まれて当たり前になっていた。無意識にそれを基準に据えてしまったせいで、そこに至らないときにはものすごく落ち込んだり、評価=数になっていた。
暗黒期に入る前の私は本当にこのループで、自分で自分を落ち込ませていたといっても過言ではなかった。ランキング上位にいかないからこの作品は失敗だとか、読者数が少ないから面白くないんだとか。
自分が読む本選ぶとき、ランキングとかブクログのレビュー数気にします? いいえ全くしませんね、直感を信じます(キリッ)っていうのが明白な答えなんですけど。
最近は暗黒期を脱出しつつあって、超旧作を再公開したり旧作をシナリオに書き換えたり新作に手をつけたりと自分のペースで楽しんでいるのですが、楽しめているのは「慣れ」から遠ざかったおかげだと思います。
これからも「慣れ」と一定の距離を置いて創作していくにはどうしたらいいかを考えたとき、周りの方との距離を一定に保つというのは、ひとつの確実な方法だと思います。
そういう意味でも、Xをやめたのは良かったのかなと。ちょっと弱音を吐けばいつでも「大丈夫ですよ!」「菜奈さんの作品大好きですよ!」と言っていただける環境は贅沢でありがたいけれど、自分をつけ上がらせてしまう。それはすなわち「慣れ」と馴れ合いになること。
面白い作品を書くためには自分にダメ出しし続けなければならないし、常に新しい視点を持っていなければならない。基本クローズの状態で書くことで、慣れないで済むんだと実感しています。
とはいえ、「好きです!」「面白いです!」というラブコールはなによりも力になるので、たまにはいただけると嬉しいです!!!(クソデカボイス)
「頼らない」……これもコミュニケーションの話に通じてくるのですが、結論からいうと、「結局困ったときに頼れるのは自分だけ」。
暗黒期に陥ったとき、「ああそうか、誰も私を助けてくれない。というより、自分以外の他者は誰も私を助けられないよな」と心の底から実感したんですね。
苦しみとかしんどさを他者に伝えるためには言葉が必要なんだけれども、言葉として外に出した時点でなんか違うものになっちゃう。文章にするとさらに離れる。そしたらもう、自分の感情がどんなものだったかわからなくなっちゃう。
で、モヤモヤ考えていて気づいたんです。この黒い感情って他者に伝える必要ある? 今まで身近な人たちに話聞いてもらったり助けてもらったりしてきたけれど、それには必ず罪悪感が付きまとうし、もちろんすべてを吐き出せるわけじゃない(前述の理由で)。じゃあもう他者を巻き込む必要なんかなくて、自身で受け止めて消化して流していくのがいいんじゃないかと。
もちろん、誰かに頼らざるを得ないときは絶対にあります。それでも、本質的なところは誰のこともあてにしない。
要するに、家事育児は夫と折半すべきだけど、心の中にある芯みたいなところは誰にも見せる必要がないってこと。
私が融通も応用もきかないタイプだからかもしれないんですが、弱音を受け入れてもらえる場所があるとつい頼ってしまうので、今はそれがない状態だということが却っていい。
頼れるのは自分だけだと最初からわかっていれば、なにがあっても、「自分」の範囲内で片が付きますしね。
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フレンドリーにさまざまな方とコミュニケーションを取りながら創作されている方たちを羨ましく思う反面、孤独でいることはなんと身軽で楽なんだろうと思います。
ただ、書き手がいくら孤独であろうとも、ひとたび作品を世に流してしまえば、その作品は読んでくださった方々ひとりひとりのものになる。文章は、絵や映像よりも想像の幅が広いから。小説の魅力はその底の見えない深みと、途方のない可能性にあるのだと思います。