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自分ごとになって初めて感情的になるんだな
早川書房さんのnoteで無料公開されていた時に読んだ『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳)。
参加しているオンラインサロンでシェアしていただいたおかげで、この本の存在を知ることができた。ここで改めて感謝を示したい。
あとがき部分は、今でも無料で読むことができる。熱量のあるストレートな思いが伝わるこの文章をぜひとも多くの人の目にとまったらと、切に願う。
著者は、本を読んだすべての人に提案している。激動のコロナ渦に起きた『忘れたくない物事リスト』をつくろう、と。
「僕は忘れたくない」ではじまる熱量のある文章の数々は、いまだに言語化できない自分の心の中を炙り出すかのようで、何度読んでも涙があふれてくる。(この魅力的な文章を、何度写経したことだろう)
さて私は、このコロナの時代に何を忘れたくないのだろう。何に元に戻ってほしくないのだろう。
森の世界ではナラ枯れが進行しているのだけれど
私は、自ら何も発信もしていないが、『森林』にとても関心がある。大学の専攻は、林学科だった。
「コロナの時代の僕ら」を読んでいると、突然、ある風景がぶわっと脳裏をしめてきた。ナラ枯れが広がる茶褐色の山の姿だ。
真夏、奈良から兵庫に車で移動中に見た、生駒山脈に広がる夏の紅葉のような色の山肌。今思い返してもゾッとする。山の世界で何が起きているのか…。
かれこれ10年ほど前?もっと前に?起こりはじめた里山を襲っている異変だ。知識としては知っていたが、新潟から関西に引っ越してからまざまざと見せつけられた現実に、これから世界はどうなっていくのだろう?と怯えすらしていた。
ナラ枯れの原因のひとつは、人間のライフスタイルが変化したこと。熱エネルギーを、木ではなく電気で調達するようになったから。
人はかつて、生きるために、ナラ、カシ、クリなどの雑木を定期的に伐採、火を使ってきた。
場所を変えて木を切ることで、森も明るく若返り、風通しもよくなる。暮らしとともに手入れされた森は、とても健康的だ。
でも、人の暮らしは、火から電気にシフトした。当たり前だが、木が使われなくなる。森は鬱蒼とし、暗くなる。風通しも悪くなる。誰も来ない。
森が変化するのも当然だと思う。
人が森から離れて、森が不健全になった結果、ナラ枯れという病気が雑木を襲っている。いまだにじわじわと被害は広がっている。
こんな大変なことが森で起きているのに、人間は無関心な人が多い。なぜなら自分たちの暮らしに何の影響もないからだ。森が失われていけば、自分たちの生きるための酸素がなくなって、いずれは死に至るというのに。
なくなってからあれこれ大きな対策をするのでは遅い、あまりに遅すぎるのだ。
コロナは教えてくれた、人間の愚かさを
新型コロナウィルスだって、元はと言えば、自然界にいたもの。突然変異を経てヒトに感染し、今では爆発的に広がり今に至る。
感染者が日に日に増えていく。死者も出ている。世界各国がおぞましい事態と向き合っている。
自分たちの暮らしが制限される。普通の日常が失われた。みんな感情の行きどころがなくて誰かのせいにして怒っている。
いや待って。今まで世界のどこかで、植物が、動物が大量に死んだとき、そんなに怒っていた?同じことが人間界で起こっているだけなんじゃないの?
自然界の大惨事を他人事にして、地球は先進的な技術を持つ人間が支配しているような暮らしをして。利便性ばかり追い求めてきた消費的なライフスタイルを続けてきた張本人たちが自分たちの番になったら大騒ぎをするのか。
わーぎゃー文句を言っている人たちを傍観していると、こんなふうに冷ややかな目で見てしまう。
みんな生きるために必死だから当然だ。だけど、汚い強い言葉を誰かに投げつけることが善なのだろうか?正しい知識をつけて正しくウィルスに恐れて、協力し合うのが筋じゃないのか?
森は自然界の中で揉め合っている?ただただ今の環境に合うような姿に落ち着くのを待っているんじゃないだろうか。
人が人らしい暮らしを送れなくなっているのなら、事態が収束するまで、正しく恐れて感染拡大しないようにひとりひとりが淡々と行動するべきだ。
そのための合言葉、「ステイホーム」なんじゃないのか? 争うための言葉ではないはずなんだ。
生きているだけで、何かしらの恩恵を受けていることを忘れずに
コロナをきっかけに、さまざまなサービスの恩恵を受けていることに改めて感謝の気持ちがわきあがってくる。
病院があるから、いざ体調が悪くなっても頼ることができる。
保育園があるから仕事に集中でき、小さなこどもは社会生活を学ぶ
学校があるから、こどもは教育を受けられ、人間関係や団体行動を学ぶ
外食は、家事の負担を減らしてくれ、プロの料理やインテリアで豊かな気持ちにさせてくれる。
一次産業、製造業、物流があるからこそ、食べ物や消耗品に困ることはない。
ゴミが出れば、持っていって処理してくれる人がいる。
挙げればキリがない。すべての人が暮らしを何かしらの形て支えてくださっている。心から感謝したい。
そして、自然は変わらずそこにあり、私たちを癒し、生かしてくれる。
人間界と自然界を分断することがどんなに愚かなことか。これからも人間界が有利に動くのだろうけど、少しでも寄り添って共存して生きてゆきたい。きれいごとだと言われてもいい。私が今までもこれからも、大事にしていきたいことだから。
「コロナの時代の僕ら」を読了して改めて私が感じたこと。ふわっとして頼りない内容だが、ここに残しておく。