ひかりを
2022.11.11
紅葉を観に行きました。
写真を撮っていると、隣り合ったおじさんに声を掛けられました。
「紅葉を撮るときは光を見つけなさい。
日の当たり方で光が射す場所は刻々と変わるから、その光を捉えたらいい。そうしたらきれいに撮れるよ(*^^*)」
その方はカメラ歴40年以上。私があまりにテキトーな撮り方をしていて、呆れてアドバイスしてくださったのでしょうが、家に帰ってその言葉の余韻を思い返していたとき、
「わたしになにかできますか」
ハロウィンの日、自分からぽんと出た言葉を思いだしました。
「そこだけエネルギーが違っていた」と言われたのですが、本当にぽん!で全然意図はなく…。勢いとか弾みだったわけではありませんが、摑みどころがないまま保留していたものでした。
あれ、なんだったのかな…
ぼんやり真っ赤な紅葉の写真を見ていて思い出したのは、
私って誰かを愛することは出来ないんだろうな。多分これからもずっと…という感覚。
これは以前付き合っていた人との関係の中で顕在化したものですが、その感覚は生まれたときから私のなかにあり、幼い頃から自分に欠落していると感じていたものの正体でした。
愛されたことがないわけじゃないのに…
それが分かるからこそ、周りの人に対して申し訳なさや後ろめたさを感じたり、強い劣等感を感じたり。このわだかまりは私のなかで長く燻っていて、生きていくうえで足枷になっているように感じていました。
☆
昨年母方の伯父が亡くなって以降の叔父とのやりとりや、それとは別に流れ込んでくる父方の伯母や従兄姉たちの現状や言動は、ドロドロしていて感情を掻き乱すものが多いのですが、距離を保ちながら眺めていると、私の中にも彼(彼女)らと同じものがあることに氣がつきました。
鏡の法則的なやつですね。
子どもの頃から従兄姉たちのことは反面教師だと思っていましたが、他人ごとではなかった…。自分に無関係のものが、自分の世界に顕れるはずがないのです ^^;
言葉だけではなく、体感を伴う氣づきの威力は今回もなかなかのものでした。
この辺りは序盤でこの後もザックザック。笑
↓
彼(彼女)らの問題の共通点はお金が絡んでいることですが、本質はお金ではありません。
お金の問題は表面的なものにすぎないのですが、そこに氣づかず、盲目的に他者から奪うことばかりを続けているから、底なし沼で殺し合い?腐海でダンス?してるみたいな…ちょっと訳の分からない状態に陥っているのです。
私、ずっと彼らに対して思っていました。
両親と彼らの違いは何だろう?
愛されたことがないわけじゃないのに…
ずっと不思議に思っていましたが、これって自分に感じていたわだかまりと同じなのです。何で今まで氣づかなかったのかな…
ん?案外エンパスしていた??氣がしないでもない…^^;
両親に共通していることはひとつ。
両親共に、祖父(祖母)が他の姉たち(兄弟)にばかり手を掛けていたということ。めちゃくちゃ甘やかされていたようですが、恐らく本人たちにその意識はないし、それが当たり前なので感謝もない。ない。(敢えて2回言う)
時代背景やそれぞれに事情もあったので一概に祖父母たちを責めることはできませんが、
父も母もそれぞれ子ども心に疑問に感じたり、羨んだり、傷ついたこともあったようです。でも両親は自分たちと同じ痛みを、自分の子どもたちには繰り返させるまいと決意して、自分なりの愛情を私たちに注いでくれたのです。
でも彼(彼女)らは違った…
愛されたことはあるけど、
自分から愛そうとしたことがない。
そうしようともしなかった。
与えられるのが当たり前ではないし、自分から何も生みださない(創造していない)からすぐに枯渇するし、永遠に満たされることはない。だから奪い続けるしかなくなる。
無条件の愛とは言うけど、そこに胡座をかいているなら搾取と変わらない。
愛さないという設定は、無意識にそういう世界を創造していたのです。
私も彼(彼女)らと同じだったのね…
身内の泥試合を眺めていて引っ掛かっていたのはここでした。
そんな世界で生きていきたいかと問われたら、答えはNOです。あと…
インプットばかりでアウトプットがないのは、淀むよね… ^^;
自分が愛を出し惜しんでいたり、溜まりすぎて行き場がなくなったものが溢れて、度々彼にご迷惑をお掛けしていることも、自覚しています…
水は流れるから清いのよ!
特にこの1年、今まで氣づかなかった(氣づけなかった)自分の闇を否応なく見せられ、白日の下に曝されることがたくさんありました。
時代の流れとか集合意識的なものもあるのでしょうが、私もこの世界の一部でその流れに乗っているという実感は悪くない。でも、
『光vs闇』
「光の勝利!!」とかね…
どこまでいっても対立や分断を煽る二元論にはうんざりしていて、自称『覚醒めてる』ふりしてるやつらが一番足引っ張ってるなぁって、腹の中で思っているのですがw、『光と闇』を『正義vs悪』に置き換えてしまうのは危ういと思うのです。
暗闇を歩くのは困難だけど、そこに光があれば歩きやすくなるし怖くないでしょう?
『ひかり』はこの1年私にとってもテーマでしたが、ひかりはきらきらしたものだけではなく、自分の中のドロドロも照らしだすのです。
「私の中にも闇はある」
そのことを認めること、隠していた部分を受け入れるのは簡単ではないですが、そうしないと前にはすすめない。恐恐でも受け入れてみたら、案外何でもなかった…ということもあります。
こうやって書き出していると、ついドロドロも挟んでしまいますが、私はすごく生きやすくなってきました。
「わたしになにかできますか」
この言葉は
『愛します(私を生きます)』というエネルギー開放の宣言だったように感じています。
何だかいい感じ(*^^*)