「性」を本名で語るということ 〜私という存在〜
性について語ろうとするとき、私の指は常にキーボードの上で一瞬だけ止まる。誰が読むかもわからない記事に、本名を載せて性を語ること。それは、まるで裸で街を歩くような不安と、同時に何かから解き放たれるような高揚感を伴う。
幼い頃から、性は「触れてはいけないもの」として教えられてきた。教室で誰かがその言葉を口にすれば、すぐにざわめきが起こり、からかいの対象になった。その記憶は、今でも私の中に根強く残っている。
今、私は本名でnoteに性について書いている。友人、家族、職場の同僚――誰が読んでいるかわからない状況で、自分の内なる性と向き合う言葉を紡ぐ。それは、まるでガラス張りの部屋で着替えをするような、背筋の凍る緊張感がある。
「家族に読まれたらどうしよう」「職場で変な目で見られないだろうか」。そんな不安は、書くたびに私の心を揺さぶる。特に両親に読まれることへの恐れは大きい。でも、その恐れと向き合うことも、私にとっては大切な儀式になっている。
なぜ、それでも書き続けるのか。
それは、性について語ることが、私という存在を改めて定義し直す営みだからだ。性は個人の最も深い部分に関わるテーマであり、そこに触れることでしか見えない自分がいる。それを語ることは、「これが私です」と社会に宣言することでもある。
その行為がもたらす緊張感は特別だ。それは「私は本気でこれに向き合っている」という自分への確認であり、同時に「あなたも向き合っていいんですよ」という読者への密かなメッセージでもある。
正直に告白すれば、この行為は私に独特の快感ももたらす。最も隠された部分を言葉にすることで感じる高揚感。それは、まるでオーガズムのような、心が震える瞬間だ。羞恥と解放が入り混じった、不思議な満足感。
もちろん、この感覚を理解できない人もいるだろう。「そんなことを書くべきではない」という否定的な声も聞こえてくる。でも、性について語ることは、私にとって生きているという実感そのものなのだ。
タブーを超えること。自分を他者に委ねること。そのリスクを背負いながら書き続けることで、私は少しずつ自分の殻を破っていける。それは怖いけれど、同時に確かな成長の証でもある。
私にとって性は、単なる生理現象ではない。それは喜びであり、葛藤であり、痛みであり、欲望だ。時には自分自身を映し出す鏡となり、時には他者との繋がりを感じる窓となる。
その恐れの中にこそ、私が性を語り続ける本当の意味が宿っているのだと信じている。
今日も私は、少しだけ震える指でキーボードを叩く。それは怖いけれど、確かに私を解放してくれる行為なのだから。