誕生日を祝うということ
先日、私はうん十うん回目の誕生日を迎えた。
物心ついたときから
【誕生日は祝うもの】と刷り込まれているが、
“たまたま生まれただけなのになんで祝うんだろう?”
という野暮な疑問が生まれたのでこの記事を書こうと思った次第である。
まず前提として、今年の誕生日は非常に幸せであった。
想像以上にたくさんのメッセージやプレゼントを頂いた。
大人になるにつれ、古くからの友人や知人は
結婚して家庭を築いていたり、子育てに追われていたり、
仕事においても徐々に重役を任されるようになり
私生活が多忙になっていく中で、
いち他人の誕生日という日を思い出してくれて
メッセージやプレゼントなど、
ひと手間もふた手間もかけてくれたということ自体に
尊さと敬愛の念を抱かざるを得ない。
こうして手間をかけ、時間を割いてくれることに
感謝するとともに当たり前だと思ってはいけないと思う。
そして、そう思うと同時に
なぜ人は誕生日を祝い、祝われるのか、に行き着いたのである。
誕生日をなぜ祝うかをググってみた結果、
【理由などなく、純粋に存在していることや
出会えたことへの感謝を伝えるために祝う】と。
冒頭にも自覚はしていたものの、やはり野暮だったと反省。
特に【理由などなく】という前置きが刺さった。
理由なんてないんだ。ハッとした。
命は平等だという根底の考えは備わっているものの、
存在や出会いに感謝するという点でも腑に落ちた。
「誕生日プレゼントをあげたのに相手はくれない」
「返ってきたけど自分があげたものより随分安い」
と言っている人がいた。
気持ちはもちろんわからなくもないし、
自分自身もひと昔前はそう感じていたかもしれない。
ただ、他人に与える行為において
このような自分が次の誕生日で喜ぶためだけの
投資的な考えはかなり危険である。
もし期待と違ったときに、必ず不満が生まれてしまう。
ただ単に、くれるものを素直に受け取っているだけで
返さない人に悪意はない場合も多いだろうし、
そもそも与えている側が厚意で行っているはずなので
返す・返さないという次元ではなくなってくる気もする。
極論だが、与えた側が不満を抱かないためにも
「この人の存在には感謝したい」
「出会えてよかった、これからもよろしくね」
と心から思える相手にだけ、
自分自身の意思で言葉やモノ・コトを贈るほうが
お互いに幸せなのかもな、などとと感じた。
今回の考え方が誕生日において重要であるかは
人それぞれであると思うが、
とにかく生きてる限りはせっかくなので
みんな幸せだったらいいのにな~と思っている。
年々、自分の誕生日自体も忘れかけたり、
特別感を抱かなくなっている中で今年の誕生日は
周りの人たちのおかげで特別な日にしてもらった。
私からも周りの人たちの存在と出会いに感謝できた1日であった。
誕生日という年に1回の日が、
祝う方も幸せな日になるといいな~と思う。
完全に余談だが、
これまでの記事はAI生成で記事画像を作成していたが、
諸事情によりPCを初期化せざるを得ず、
さらには修理に出すことになってしまった。
しばらく生成ができなくなるので
今回はひとまずデジタル落書きをしてみた。
いちごのショートケーキはいつまでたってもビジュが良い。
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