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その人は「客を舐めんな!」と叫び席を立った

友達の出演する舞台を観てきた。正直に言えば、品質の高い作品では無いと思う。物語として掘り下げは浅く登場人物も表層的に描かれ演出は昭和中期の学校演劇みたいだ。だが、終わると観客は興奮した面持ちで「良かったね!」と言っていた。私自身、中盤のシーンで目がしらが熱くなった。

感動したからではない。情動に訴えられたからだ。

劇中、戦争により異国で亡くなる兵士のモノローグがある。遠い家族に「この国の海は青いぞ~」と語り掛け、だが言葉の端に戦況が絶望的であることを匂わせる。そして最後に「おまえは、元気で幸せでいてくれよなぁ」と言う。こうした類型的なシーンは、類型的であればあるほど観客の記憶を呼び起こし感情を揺さぶる。これはコストをかけずに効果を得る効率の良い作り方だ。記憶と情動は観客の内側にある。それを引っ張り出すトリガーを叩くだけで良い。戦争、家族のために犠牲になること、人生半ばにして死ななければならない不条理、トリガーは幾つもあり題材に不自由することも無い。記憶は観客の中にあるから掘り下げる苦労も必要無い。手軽で、しかも観客も喜ぶのならwin-winだ。

でも、個人的な好みで言うと、こういう作り方は好きじゃない。観客が既に知っているものを呼び覚ますことに何の意味がある?リプレイさせたとき、最初の「震え」より大きな感情が沸き起こり「新しい何か」が生まれるなら意味はある。でもそうでなく、ただのリプレイ、減衰した感情の再生に過ぎないなら意味は無い。

いつも客席に座るとき、切望する。今まで味わったことの無いやつをくれ、揺さぶってくれ、浮き立たせてくれ。たとえ様式美の古典芸能であってもそこに作り手の「熱」「工夫」「野心」があれば、舞台にはその瞬間に生まれる一期一会の美しさが出現する。そういうものが観たい。いまそこに生まれ、自分の心を震わせるうつくしいものに出会いたい。

・・・とは言うものの、それはちょっと要求が高すぎる、とも思っている。

昔ある舞踊家さんに聞いた話で、歌舞伎座で玉三郎の踊りを観たとき「こんなもんでしょ、綺麗でしょ」といわんばかりの熱の無さにブチ切れて「客を舐めんな!」と怒鳴って退席したというのがあった(そこに居たかったわー。どうなったんだろその後)。彼女はまっこと芸に生きた人だったから、「こんなもんでしょ」という踊りを許すことは出来なかったのだろう。あの人ならそうだろうね、と皆が頷くような人だった。

だがここで私が引用したいのは芸に生きた舞踊家のほうではない。あの完璧主義者の玉三郎でさえ「魂」のこもらない舞台を務めることがある、というほうだ。玉三郎ほど妥協を知らない人が手を抜くことがあるのなら、誰にとっても毎回真剣勝負をしろと要求されるのは酷なことだ。人生は長い。人間だもの、手を抜かなければいられないときもあるだろう。

なので、私は拍手をし、怒鳴ったりしないで大人しく帰った。友達は舞台のうえで頑張っていたし台詞もたくさんあったから満足もしている。でも、その脚本演出をした人は、この先うっかり間違って観ることが無いように名前を覚えておく。いや、長い人生とは言え私もうだいぶ消費しちゃってると思うんだよ。うっかり間違って使えるような時間はホント、残って無いんだよ、ごめんね。それになんつってもこのひと、確信犯だしねぇ。

客を舐めんな。


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