ナナの相談室『それぞれの真実』
今回、マシュマロにてこのような質問をいただきました。
ムズい……。いきなりコナンと戦わなければならないのか……。これは負け戦確定ではないか。いや、ここは負け戦とわかっていても勝負に挑んでみようではないか。よし、いざ勝負だ名探偵!
さて、この質問者さんのロジックを分析する前に、まずコナンの「真実はいつも一つ!」という決め台詞について調べてみる必要がありそうなので、ざっとググってみました。
で、これを見たら、興味深い内容が。
なるほど、ミステリーでもこの「真実は一つなのか」議論はあるようで、「真実」は一つとは限らないけれど、「事実」は一つという考え方もあるそうな。
と、書いていて、ふと浮かんだ言葉があります。
「人は自分が正義だから」
これ、質問者さんが投げかけてくれたモヤモヤになんかヒントとなりそうな気がしませんか?
つまり、質問者さんの内容を分解すると、
・事実→AとBが階段でぶつかって、Bは転落。それを見たC。
この出来事を客観的にまとめるとこうなります。
しかし、その後それぞれの主張が異なるわけです。
Aは「たまたまぶつかっただけ」
Bは「Aに故意にぶつかられた。なぜならいつもAにいじめられているから」
Cは不明。
ここで私は「主張」と書きました。なぜなら、この内容だけでは「真実」に辿り着ける材料がないからです。「真実」に辿り着くには、様々な判断材料や証拠が必要です。おそらく、この内容だけではコナンも麻酔銃をまだ使いません。その後に調査や状況の変化などで、「犯人はあなただ!」となると思います。
ただ、これ、凄く大事なことなんですよね。自分も含めて、人って、少ない材料で断定までいってしまいがちなんです。それで、それまでなかった軋轢まで生んでしまったりして、摩擦が更に生じて潤滑油すらなくなるという悪循環に陥りがちなんです。
個人的に断定は危険な要素があると思っていて、割と避けています。「〜だ!」ではなく、「〜だと思う」とするようにしています。なぜならそんなにいちいち責任取れないし、自分が絶対正しいと思えないからです。
でも感情的になってヒートアップしてしまう、ってことありますよね。その時を「本音」とするのも個人的には疑問です。平静を失っている状態を「本音」扱いされたら、私はたまったもんじゃありませんので。
もしかしたら質問者さんは、「真実はいつも一つ!」という断定、そして、それを安易に漁夫の利のごとく使用されることに違和感を覚えているのかな?と今になって思いました。そうなら、めっちゃわかります。なんかスッとしないですよね。
他人は変えられない、他人は他人とわかっているからこそ、より、自分に向かってきそうな一方的な断定には疑問と距離感が生じると思います。
ただ、コナンの場合はミステリーでの事件に限っていると思います。人生を断定してはいないのではないかと。
そもそもこの世でわかっていることなんてほとんどないと思います。「心は脳の産物である」というのが神経心理学の定石ですが、脳のことはまだまだほぼほぼわかっていないそうです。脳のことはわかってないけれど、脳以外の他の器官(内臓とか)に心を司る場所がないから、「心は脳の産物である」となっているわけです。しかも、これはまだ論争を生んでおります。てことは、人間なんてわからんことばっかじゃないですか?
質問者さんの言う通り、「その人にとっての真実」はあると思います。より掘り下げれば、
・その人の主張、個人的意見、信念、信仰、信じたいこと、認めたくないこと
などでしょうか。
けれどこれが真実として通用するのはあくまで本人か本人に盲目な人のみかと。他者からは部分的にでも疑問符が出る可能性は高いと思います。
この段階では質問者さんの言う、人によって真実はあるのでは?に賛成です。
しかしですね、コナンが登場するときは必ず誰かが亡くなって、しかもそれは事故ではなく事件なのですよ。そうなると、もしここで登場人物に事件があって、「あれれ〜?」という声が聞こえたら、そこはコナンの土俵。誰も勝てないし怪盗キッド以外逃げられません。自分の下にテロップが流れてないか戦々恐々としてきたので、俺はこの投稿を終えて家にこもるぞ!!