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イスタンブール🇹🇷で感じたこと(2024/12)
先に断りたいが、特に観光地の話はしていない記事です。
2日目
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予期し得なかったようなことに出会うために自分は旅をしているのかもしれない。イスタンブールの街を4日間という短い期間だったが、歩いているうちに感じたことだ。
地下鉄の車内でお金を求めて人々の目の前に立ちまわる少女
ボスポラス海峡の海面に映るきれいな緑
鳥を飼い詳しいホステルのお兄さん
バスを待っていると足に尻尾を絡めてくる猫
全く行き先が分からず乗ってみると違う方向だったパス
人々のキツめの香水
英語を話せないと急に関心をなくす欧米人
意外とジャンルが広くペーパーブックが豊富な本屋
地下鉄の構内で寝ている犬と座り込むホームレス
そんな新しい発見が僕の明日を作ってくれる気がした。
イスラム系の街並みや人々に、思っていたよりも怖さとストレスを感じて疲労する自分自身に自分でも驚いた。これは以前行った台湾や香港では感じなかったもので、中国で感じたものとはすこし種類が異なる。
3日目
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新しい知識を求めることを自分はある種義務感として捉えているのかなとふと思った。焦りすぎてもいけない。
口コミのいい飲食店に日本人が多く集っていた。この日、他に行ったマイナーな観光地ではあまり日本人を見かけなかったからか、日本人はチャレンジできないしハングリー精神も無いのかな、と思ってしまった。これでは新興国のバイタリティには勝てないよぁ、と。
まったくそれが悪い事というわけではないけれど、自分はそれじゃダメだなと課題感を感じるタイプらしい。
同じ楽曲、同じ街、同じ言語、同じ民族、同じような環境のなかで居心地の良さに甘んじていても自分の世界は広がらない。広がらない世界に留まる人の言葉には、少なくとも自分は重みを感じない。
自分は言葉に重みを持った人間でいたいし、そんなひとに囲まれて日々生活していたい。
そんなふうに思う日だった。
4日目
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深夜の市バスに揺られ、出発地ではパンパンの車内も空港への1時間の道中ですこしずつ減っていった。市街に稼ぎに来た労働者たちだろう。強気な価格設定や価格交渉をしてきたトルコ人たち(有名な商店街のスタッフやタクシー運転手)を振り返っていると、彼らにも彼らなりの論理があり、日本で聞いていたトルコの人の良さも幻影であったんだなと感じた。
空港に近づくにつれ、閑散としはじめていた街並みは活気を取り戻していき、人々のニーズや大きな設備投資が活気や豊かさを産むのだなと肌に感じた。