“ツイ廃”のおはなし
こんにちは、ネナイちゃ…ではなく宮﨑です。
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ここ数日、twitterのスペースに参加したり、スペースを開いてみたり、スマホの使用時間の9割をtwitter(その中でもスペース)に当てるという生活を送っている。
いわゆる“ツイ廃”ってやつ、なのだろうか。
実は私は、ツイ廃が悪いことだとは1ミリも思っていない。
自分のことを“ツイ廃”という言葉を用いてダメ人間であるかのように表現することはあるが、そんなのはぶっちゃけネタでしかなくて、逆にツイ廃であることに少しアイデンティティを感じている部分もなくはない。
でも、きっと私は真のツイ廃にはなれない。
夏季休暇が終わればまた“医学生”というアイデンティティを取り戻して同期と話し、小テストに追われ、研究室のパワハラに耐えつつ論文に自分の名前が載ることだけを目標にサンプルの写真を撮り直し続ける、そんな日常に戻るのだろう。
夜な夜な喋り続けていれば、流石の私でもパフォーマンスは落ちるし、いくらマルチタスク可能だからといって、スペースで話しながらではスライド作成時間も最低でも1.5倍くらいはかかるだろう。
あまりにも日常生活への害が大きすぎる。
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ある日のスペースでのこと。
『もし、twitterやめられない子どもが親に連れてこられたとき、先生はどうやって辞めさせますか?』
私は、ある精神科医の方に対して問いを投げかけた。
『辞めさせる必要、ある? だって、やりたいからやってるんでしょ、寂しかったり人との繋がりが欲しかったりするから、だから辞めさせればいいってわけでもないよね』
…間違いない、と思った。
きっと、というか確実に私は寂しがりやで、怖がりで、ネガティブで、不眠症で。
ひとりで夜を越すのが苦手で。
でもだからといってリアルな友人に電話をしても迷惑だし。
そんなとき、twitterという逃げ場があって、『話がしたい』と発信すれば、夜行性の方々が集ってくれて。
医療、心理、福祉、司法、学生… いろいろな人が対等な立場で集って、真面目な話をしたり、他愛もない話をしたり。
お互い顔も名前も知らない、現実世界では交わることのなかったであろう人たちが交わりあう非日常的空間が自然と生まれる。
twitterに帰れば、尊敬する人生の先輩方がいて、自分なんかよりもっと頑張っている学生がいっぱいいて、声を聞くだけで安心できる人がいて、あぁ、ちゃんと居場所があるなって、そう感じることができる。
今の私が、もしtwitterをする権利を失ってしまったら、それこそ禁断症状が出てもおかしくない状態である。
それくらいtwitterという空間が自分の中で大切なものとなってきている。
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ただ、もう一度言うが、きっと私は真のツイ廃にはなれない。
夏季休暇が終われば、世間一般から見て“常識的”と言われるくらいの時間しかやらないと思うし、できないと思うし。
twitterをしている時間というのは、一般的に見れば無駄な時間なのかもしれない。
けれど、私のとっては長期休み限定の、貴重な体験であって、精神安定剤であって、短くて長い人生の思い出の一部になるようなかけがえのない時間なのである。
だから私はこうしてtwitterに入り浸ることができる、今、このときを大切にしたい。
そしてまた今日も、twitterを開く。
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