夢は日に落ちて
ばらばらに散らばった。人間を取り戻せたかとぬか喜び、退廃に突き落とされて、強打した背中が熱い。
PTSDも地雷も、生を継続させている側の人間には想像もできない程に、大量に抱えている。
マウンティングとか、苦労自慢とか、誇ることとか、そうであれとも思わない。単純に、根性論者で諦めが悪くて、ボロボロな自分を見ること自体が、生まれたことを罪と言い聞かされてきた私には、自罰的な安堵感を与えるのだろう。
辛いのも痛いのもしんどいのも自分だけで良いからと、本心から人に優しくしても、それは「大丈夫な人」に映る。恩を着せたくないから、笑って、歯牙にもかけないふりをして。
致命傷なんて何個も負っているのを根性だけで立って生きてる自分に、他者のスケープゴートは無痛病と同じなのは本当だ。タンポポの葉は「自分と違って」強いから、弱いものが理解する必要も無ければ、見つめる必要もなく、足蹴にして空の眩しさに新しい期待を胸に歩き出す。
泥まみれで傷みまくった花は、いつの日にか枯れて土に還る。醜いから除草剤をかけられるかもしれない。
使い捨ての都合の良い命。壊されて壊されて、壊れたらそれは不良品で消費生活センターに被害者面される。人間は有機物であり、思考を持つ生き物だというけれど、それでも都合に完璧に噛み合わなくなった途端に、邪魔で不快な廃棄物にしかならない。
だから、生を継続させている人間には、こんな不要な葛藤はない。ただそれだけ。ただそれだけ。
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