令和4年5月28日の日記のようなもの
京都という町が好きになってきた。元が嫌いだったというわけではないけれど、僕が東京から京都に移住すると言うと周りの人が皆口を揃えて「京都は最高だ」「京都で暮らすのが憧れだ」などというものだから、僕の中での天邪鬼の気持ちが顔を出して、京都の町をまるで評論家のように品定めしてしまっていて、純粋に好きだと思えなかったのだ。
僕がなぜ京都が好きになってきたと言うかといえば、それは明確な出来事があったわけではない。というかむしろ明確な出来事を通して京都を好きになろうとすればするほどーーそれは例えば有名なお寺に行ってみるとか、有名な料亭に行ってみるというようなことだけれど、京都が好きだと言う気持ちからは遠ざかっていたように思える。
僕が京都が好きだと思ったのは、桂川にほど近い西京極のごくありふれた古びた住宅街を自転車で走っている時で、木造の家屋が特に整った様子もなく雑然と、背丈だけは同じくらいだったけれど、横に並んでいたのを眺めていたら、なんだか心がじわっとほぐされて溶かされていくような感じが頭の上の方からやってきて、僕全体を包んでいった気がした。それで、京都好きという気持ちが僕の中に生まれた。
思うに好きというのは、思いがけないところから不意にやってくるのだと思う。それは、意識の全く外側にあるようなところから。好きってそれくらいのもので、全然大層なものじゃ無いのかもしれない。いつの間にかじわっと感じているくらいのもの。全身全霊をかけた好きは、どこかちょっと苦しい感じがする。好きを追いかけて追いかけすぎると、きっとどんどん追い詰められていってしまうのだ。
ところで今日どうして西京極に行ったかといえば、桂川で綺麗な夕日を見たいと思ったからだ。今日はYouTubeとTwitterをみていてもいいことがほとんどないように思えたので、頭の中は相変わらず散らかしたままだったけれど、そのまま自転車を走らせた。
桂川に着くと、太陽のきれいな円が山の稜線にかかって少しずつ溶けてゆき、完全に山に吸い込まれていくところを観ることができた。そのあと空が少しずつ赤らんできて、切れ切れの細い雲の端の方が橙色に染められていった。僕はフィルムカメラにこの空を記録することを一つの目的としていたので、「ピークはこれからだ。」と思いながら、空を眺めたり本を読んだり川に水が流れる音を聴きながら過ごした。そうしてピークを迎えることなく、空はほとんど青紫色へと変わってしまっていた。
なんだか損をしたような気がした。写真なんて撮ろうとするからだ。写真なんて撮ろうとするから、余計な期待をして、今目の前にある綺麗なものを、そのまま綺麗だと受け止められなくなってしまうのだ。
自転車で来た道を帰りながら、好きなことや美しいものをそのまま受け止めるって、結構難しいことなのかもしれない、と思った。
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