見出し画像

ネコと和解せよ

 吐き戻しが多いのは昔からだった。食欲が落ちていたのも、ああ今年も夏バテかなんて気にもしなかった。こちらが撫でようとしても軟体動物みたいにぐにゃりとよけ、出社前の忙しいときや疲れて動けないときに限って「撫でなさいヨォ」と脛や肘に顔をこすりつけてくるのもいつも通りだったのだ。
 異変を認識できたのはめずらしく私とネコの、撫でたい/撫でられたいのタイミングが合ったからだ。指先にはっきりと背骨と腰骨の感触があった。持ち上げてみると異様に軽い。
「おまえ、もしかして病気なのか」
 ネコは身をよじって降ろせと要求してくる。そっと置いてやると、ネコは前足を床に垂直にピンと伸ばして座り真っ直ぐに私を見た。私はネコを病院に連れていくことにした。
 動物病院は近所だったがケージがない。仕方なく家にある一番大きなリュックサックに入れていくことにした。不穏な気配に気が付き、伸ばした手の横を素早くすり抜け逃げるネコ。追う私。最終的には「フー!」と怒ったままのネコを「ごめんよ」と言いながら洗濯ネットに入れリュックに収めた。
 その日は朝から小雨が降っており、六月にしては肌寒い日だった。少し迷ったが自転車で行くことにした。歩いて行ける距離ではあったが振動がネコによくないと思ったからだ。傘はさせないのでフード付きのジャンパーを羽織る。何も無ければいい。そう願っていた。
 私の家から動物病院までは一本の大きな道路が通っている。いつもなら適当なタイミングで渡ってしまうが今日は信号から行くことにする。背中にくぐもったネコの怒声を受けながら青信号を確認し横断歩道を渡っていると、向かって右手の少し先に動物病院の看板が見えてきた。
 思っていたよりも近いな、そう思ってい横断歩道を渡り切った瞬間、目の前の小道からなにかが飛び出してきた。すぐに急ブレーキをかける! 声を荒げそうになったが背中にネコがいることを思い出し、代わりに飛び出してきた何者かを睨みつけた。相手は私と同じようにフードを被った、雨合羽がしっくりくるくらいの子どもの天使だった。
「ごめんなさい」
 向こうも驚いたようで、素直に自分の非を謝った子どもにそれ以上なにもできずしかめっ面だけする。こんなことをしている場合ではない。リュックがこれ以上濡れる前に動物病院に行かなくては。そこまで考えたところで気が付いた。背中の重みがなくなっている。すぐに片腕を抜きリュックを体の前に持っていくも、中身が無いことは明らかだった。素早くあたりを見回すと、見付かったのは洗濯ネット。白いネットは子どもが飛び出してきた場所に落ちており、雨水を吸い灰色になっていた。後ろで自転車が倒れたのも気にせずそれに駆け寄るが、やはり中身はかった。
「あの、ごめんなさい」
 子どもの天使が後ろに立っていた。自分のせいでなにか悪いことが起きたのだと思ったのだろう。
「大丈夫だよ」
 ネットをリュックにしまい立ち上がりながらそう伝える。
「私はオレンス。あなたは?」
 子どもは最初、何を訊かれたのかわからないという顔したがすぐに理解し不安げなまま答えた。
「ルチです。あの、落とし物だったら僕も探します」
「ありがとう。リュックの、あのネットの中身、ネコだったんだ」
「ネコ!」
 ルチの表情は驚きの後にゆっくりと笑顔に変わっていった。
「名前はなんて言うんですか?」
「牛牛乳泥棒だよ」
 うしぎゅうにゅうどろぼう? とルチは首を傾げた。
「探すの手伝ってくれるかな」
 ルチは大きく頷いて、ぎゅっと両の手のひらをグーの形に握った。

「牛牛乳ってどんなネコなんですか?」
「茶色くて、濃い茶色とふつうの茶色がまだらになってるかなあ」
 本当だろうか。言いながら、私は牛牛乳泥棒の姿に関する記憶があやふやになってきていることに不安を覚えた。
「あとすごく澄ましたネコで、たまにとっても甘えてくるよ」
 ルチは分かったような分かっていないような返事をし進んでいく。私はというと、牛牛乳がいないか左右を確認しながら歩いているためルチの後ろをついていくのでせいいっぱいだった。
「こんな風になってるんだねえ」
 私が感心した風に言うと「ニンゲンのひとはあまり来ないですもんね」と返された。なんとなく、トゲがあるような気がしてそれ以上何も訊けなかった。
 ルチは牛牛乳の場所を知っているみたいに路地を進んでいった。完全な一本道で、左右は垂直にそびえたつコンクリートの団地みたいなもので埋まっている。確かにネコが隠れるような場所なんてほとんどないように見えるけれど、たまにある窪みに牛牛乳が入っていってないか気になってしまう。だけどルチはそんな私などお構いなしにどんどん進んでいく。
「ここで行き止まりだよ」
 ルチが立ち止まった先には私の背丈くらいの高さの塀で囲まれた巨大な敷地と、その真ん中あたりにそびえたつ凸の字みたいな建造物があった。
「ここは?」
 尋ねる私を置いて、入り口にあり赤く光る自動改札機みたいな機械に手をかざし敷地に入っていくルチ。慌ててその後を追うけれど、本当にここに牛牛乳泥棒はいるのだろうか。
「ここは、学校だよ」
 前を行くルチが振り向かずに答えてくれた。学校。知識としては知っていたが、実物を見るのは初めてだ。
「あっ!」
 思わず声をあげてしまった。敷地のなかの、雨でゆるくなった土にネコの足跡があったのだ。駆け寄って、足跡の流れを見てみる。線でつなぐと二重らせんになりそうないくつもの足跡は、確かに学校の玄関へと続いていた。
「牛牛乳のかな」
 ルチが言う。わからない。だけどこれを頼りに進むしかない。
「行こう」
 さっきまでとは逆に、私が先頭に立ちそのあとをルチが付いてくる。玄関に着くと、今度は茶色い土の足跡が点々と残っていた。スリッパとかあるのかな? とルチに訊こうと振り向くと、ルチはすでに靴を脱ぎ靴下で立っている。玄関は広く何十人、何百人分の靴箱が並び、足元にはすのこのようなものが敷かれている。私も靴をその場に残し、靴下で学校のなかに入った。
「ルチはもう通ってるの?」
「うん、まだ低学年だからやれることは少ないけどね」
 私たちは小走りで廊下を進んでいく。中も直線的な、不思議な建物だった。
「やれること?」
「うん、本格的な学校は十二歳からだから」
 そう教えてくれるルチの顔色はどうしてか優れない。私には分からない、天使たちのルールがある。あまりそこに踏み込みすぎないよう気を付けることにした。
 廊下は左右の扉を繋ぐように真っ直ぐに続いており、茶色い足跡は「国語室」と書かれた部屋に続いていた。
「ここは?」
 ルチに尋ねる。ドアは少しだけ、ネコがちょうど一匹通れるくらいの隙間が開いている。
「国語室って言って、下級生がニンゲンの言葉を学ぶ部屋だよ」
 僕はもう話せるけどね、とルチが続けた。たしかに、ルチくらいの歳でこれだけニンゲンの言葉を上手に使える子どもは見たことがなかった。私の住む地域には天使が多いが、家の近くの小さな天使は皆、私には分からない言葉で話している。
 足跡は手前の扉から中に入り、奥の扉から出てきている。中も気になるがいまは先を急ぐことにする。ちらと見えた室内には、知らない器械がたくさん並んでいた。授業で使うのだろうか。なんだか不思議な感じがした。
 ネコの足跡はその後も算数室、理科室、社会室と様々な部屋に入っては出ながら先に進んでいた。だけど足に着いた泥は少しづつ減っており、いまや足跡は水滴みたいな小さな丸となっている。早く追い付かなくては足跡が消えてしまう。
 足跡はその後、給食室、と書かれた部屋に入っていった。そして、やっぱり奥の扉から出てきたのだけど、その脇には吐き戻しの跡。泥はいよいよ消えかかっている。曲がり角でどちらに行ったか私とルチで懸命に探す。階段を上り、踊り場で這いつくばり、やっぱり下って、保健室を通り、足跡が辿り着いたのは何も書かれていない部屋だった。
「教室だよ」
 私が尋ねる前にルチが答えてくれた。
「教える部屋だ」
 言いながら、ルチが教室のドアを開ける。そこには一匹の茶色いネコ、牛牛乳泥棒がいた。
「牛牛乳!」
 名前を呼びながら、脅かさないようできるだけゆっくりと教室に入る。後ろで、ルチが扉を閉めてくれる。
「この教室だけは出入り口がひとつなんだ」
 ルチに心のなかで感謝を言いながら、牛牛乳に近寄る。牛牛乳は、家を出る前に見せたあの前足をピンと伸ばした姿勢のまま私を見ていた。逃げる様子はない。怒っているのだろうか。そんな想像が頭をよぎる。
「オレンス」
 一瞬、ルチに呼ばれたと思い後ろを見た。だけどルチは首を横に振っている。もう一度、ゆっくりと牛牛乳の方を見た。
「迷惑を掛けたわネェ」
 はたして、私の名前を呼んだのは牛牛乳だった。
「あたしヨォ」
 牛牛乳は続ける。
「自分の名前、驚いたワァ。牛、重複しとるやないカィ」
「牛牛乳、どうして」
 今朝までは確かにニンゲンの言葉なんて話せない普通のネコだったのだ。
「学校のちからです」
 驚いて言葉が続かない私にルチがそう言った。
「ここは十二歳以上の天使を神さまにするための場所だから、ここに来た牛牛乳ちゃんもきっと」
 牛牛乳が通ってきた教室が思い浮かべる。国語、算数、理科、社会を学び、給食を食べ、あとは?
「保健室、あそこで病気を治したのヨォ。悪性の腫瘍だったワァ」
 こともなげに言う牛牛乳の首には見たことのないリングのようなものがかかっていた。
「あ! それ牛牛乳ちゃんにとられてたのか。入るとき手のひら認証必要だったよー。ほんとはセキュリティがあって、機械の授業を受けるにも天使のID認証がいるんだけどぜんぶ僕のを使ったみたい」
 まあ僕、神さまになるの興味ないからいっか。とルチ。
 私は、すっかり神さまみたくなって意味もなく後光のようなものを発している牛牛乳泥棒を連れ帰っていいものかどうか考えてみた。まあ、長生きしてくれそうだなとは思った。


*この作品は伊藤なむあひ短編集「神聖なる」に収録されているものです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?