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ハッピー・バースデー・トゥ

 かれの両親は仲が悪く、そしてお酒を造っていた。密造酒だった。ふたりはいっさい口をきかず、だけどきっかり等分に分担された作業を完璧にこなしていた。酒は彼らの交友の範囲内で、彼ら二人の生活を賄う程度の金額で販売された。きっちり彼ら二人の。

 彼らは酒を飲まなかったし煙草も喫まなかった。薬物に手も出さなかったしギャンブルの類もやらなかった。どういうわけか子どもは産まれたが、彼らはほどなくして産まれた子どもを地下の部屋に入れた。そうしてまた、それしかすることがないかのようにお酒を造り続けた。

 かれに名前はなかった。地下はかつて倉庫だった場所で、いつも真っ暗だった。最初何も見えなかったかれの目は、次第に暗闇のなかでもものが見えるようになっていった。もちろん、かれの目に映るのは日に二度食事を持ちオムツを替えにくるどちらかの親の姿か、壁の木目だけだったが。

 かれの両親は日に二回、地下の部屋にトレーに乗ったパンとスープを運び、前回の食器を回収し、オムツを交換した。父親と母親、そのバランスが偏ることはなかった。どちらが来てもその間は誰も喋らない。かれは世界にことばというものがあることを知らなかった。かれにとっての世界とは薄暗く四角い空間と、日に二度現れる大きな人間。それだけだ。

 かれが生まれたのは春だった。冬ならあまり時間を要さずに死んでいただろう。食事と排泄以外でかれにできることといえば泣くことしかなかった。お腹が減ったり体調が悪いときは泣いてみた。ただ、それにより状態が改善されることはないと理解したかれは、やがて泣くことに無意味さを感じるようになった。

 そうやってかれは最初の一年、地下の部屋で泣いていたし、次の一年で泣くことをやめた。その次の一年でかれは部屋のなかを這いまわったし、もう一年が経つとかれは日に二度やってくる大きな人の真似をして立ちあがるようになった。さらに一年たったところで上の世界のことを考えた。

 上の世界。かれは自分のいる暗く四角い世界の他に、大きな人間がやってくるもうひとつの世界があることを知っていた。おそらくそこは明るくて四角い世界なのだろう。かれはそう思っていた。そして、いつかそこに行ってみたいとも。

 大きな人間はそれを許さないだろう。かれはそう考えた。大きな人間を倒さなくてはいけない。大きな人間を倒せるだろうか。いや倒せない。ことばを知らないかれは一連の流れを想像した。そして、何年かぶりに涙を流した。かれの泣き声はかれだけに聞こえた。そうして十年が経った。十年が経っても、かれはおむつを履いたままだったし、言葉を知らないままだった。

 あるとき彼は自分の体が大きな人間と同じくらいになっていることに気がついた。大きな人間が縮んだのかと思ったが、階段の大きさから自分が大きくなったのだと理解した。そして次に大きな人間が降りてきたとき、かれは皿が置かれた瞬間を逃さず階段の側にまわり込み、大きな人間をちからいっぱい叩いた。

 大きな人間、つまりかれの母親は振り返りざまにかれの拳を顔面に受けた。その瞬間、かれの父親は訪れた友人に酒を渡しいくばくかの金を受け取っていた。地下の部屋への扉は閉まっていたが音は聞こえた。自分の妻の短い悲鳴も。何度かそれが続き静かになると、かれの父親は友人を帰し小さくため息をつき家を出た。そのまま、戻ってくることはなかった。

 上の世界は確かに明るかった。四角がいくつも組み合わさった世界だ、というのがかれの最初の印象だった。しばらくはいくつかの四角のなかを歩きまわり、やがてかれは大きな四角を出た。太陽の光が目に突き刺さり、かれは思わず悲鳴をあげた。両の手のひらで目を覆っていたが、口元はどうしようもなく笑っていた。

 かれはその日、初めて泣き声以外の言葉を口にした。かれ以外誰も聞いていなかったし、かれ自身にもなんと言っているのか分からなかった。だけど、かれは何度もその言葉を口にした。慣れない動きに口の周りが疲れると、かれは沈黙した。かれはその言葉を自分とした。自分! かれはその言葉に酔いしれ、ぐねぐねと身体を動かした。そしてそれは、かれの身体がいっさい動かなくなるまで続いた。

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