再びの臨時総会・・・
※冒頭のこと、実は前後をあまり覚えていません。だからこのあたりは、もしかすると事実と少し違うかもしれません。
*
「もしもし?」
朝。職場で始業して間もない時間に、同じ大規模修繕委員会のキヨタさんから電話がかかってきました。
「真行さん? あのな、いまカワベ理事長から連絡があって、なんかK氏が臨時総会の署名集めて、臨時総会請求してきてるみたい」
は?
一瞬キヨタさんが何を言っているのかわかりませんでした。
「今晩8時に、1階に集まろうって…」
キヨタさんと電話でどんなことを話したか、もうよく覚えていません。
ただ、夜になって集まる段になったとき、誰が臨時総会請求の署名をしたのか把握していたので、署名した人物について、この電話でキヨタさんに訊いたんだろうと思います。
午後8時。
わたしがマンション1階の集会室に入ったのが最後の一人でした。
最初に目に飛び込んできたのは、85歳の高齢のおばあさん・イドさんの姿です。
彼女が今回の署名に加担しているのを知っていたわたしは、イドさんの姿を認めると、カーッと頭に血が上りました。
「この女狐がーっ!」
彼女に向かってわたしは掴みかからんばかりの形相で叫びました。
「いやあ、なぁに。おお、こわあ」
にやにやというか、ニタニタというか。何とも表現しがたい笑顔を浮かべ、心臓あたりに手をやりながら、イドさんは大げさに言いました。
(私の心の声)なにが「おお、こわあ」じゃ! ふざけんじゃねえ!
今期の理事会のメンバーでありながら、普段は高齢だから物忘れが激しいからと、あれこれ理由をつけては理事会を欠席するイドさん。
優しいカワベ理事長は、そんな会計担当・イドさんを庇っていました。
しかしある週末など、わたしたちが話し合いを続けている脇を、部屋に招いたお友達と楽しそうにひゃらひゃら笑いながら通り過ぎていったこともあるイドさんです。
その時わたしと目が合うと、彼女はぺろりと舌を出し、媚びたような上目遣いのスマイルを返してきましたっけ。
それだけならまだ赦せました。でも、なにもK氏に与して臨時総会請求に署名することなどないじゃないですか。
そして署名に加担しながら、今夜に限ってこの席に現れ、さらに「いやあ、こわあ」、みたいな態度をとるこのお婆さんの老獪さに、おぞけが走りました。
彼女に詰め寄ったわたしを止めたのは、コヤマ姉妹のお姉ちゃん・ユイちゃんでした。
「真行さんは、一生懸命だから…!」
10歳以上年の離れたユイちゃんにそう言われ、穴があったら入りたいくらい気恥ずかしかったです。でも彼女が止めてくれたお陰で、やっと少し冷静になれたような気がします。
1階の集会室はとても小さな部屋ですが、その部屋の隅には、さらに小さく、静かに佇む理事長・カワベさんがいました。
「どうするんですか。これって、受けるんですか。理事長は(臨時総会開催の要求を)拒否することだってできますよね?」
わたしが尋ねるとカワベさんは困ったように、
「やったらええんちゃうかなと思うし、受けるわ。どうせ拒否したところでなにも解決せんし」
わたしは再び苛々と言い放ちました。
「こんな要望書、ウソばっかじゃん! だってこの人、臨時総会でてきてないよ? 臨時総会のとき配布した資料には、面談したすべての会社の名前、載せましたよ!? この人、自分、出席もせんで……資料もなんも読みもせんで……こんなこと言(よ)おるんですよ」
(後半だけ訳ね:このひと、自分は臨時総会に出席もしないで、資料も何も見ないで、こんなこと言っているんですよ)
はい、わたし怒り心頭です。
その時イドさんが、呆けたとような声で言いました。
「昔はよかったよなあ。みんな仲よくて」
このとき確信しました。
あ、この人実は、何にもわかっていないんだ。
イドさんは責任の認識もないかわりに、K氏に意思をもって与しているわけでもないと気づきました。
ただK氏に言われるがままに署名し、ただハンコをついた。それだけ。
意味? 彼女に理事会も臨時総会の署名も、どっちも意味なんてありません。
困っている態のK氏にお願いされたから、書いて押した。
それ以上でもそれ以下でもないんです。彼女はそういう状態でした。
この時気づいたことがあります。
それはイドさんのように状況把握が困難になったとしても、マンションの役は回ってくるし、担当しなくてはならないこと。
イドさんはお商売をされていたこともあるとかで、普段からお化粧もキチンとしているし、とても小綺麗にされています。まっ赤なリップカラーがよく似合う華やかな雰囲気で、80を過ぎた高齢だとは、ちょっと見にはわかりません。
でも見た目は取り繕えても、中身の老いは止められません。
速度に差はあれ、誰もが平等に年をとります。
小さな古いマンションの問題は、こんなところにも転がっていたのでした。
うちのように古くても区分所有者の居住率がまあ高いマンションでは、高齢になって記憶や意思が怪しくなっても、所有権がある限り、理事を務めるという義務からも逃れられないのです。しかも小さいだけに、役が回ってくる速度も速い。
心がしゅう、と音を立ててしぼむのを感じました。
と同時に、こんな人にまで手を回して署名人を集めようとするK氏に、猛烈に腹が立ちました。
思い通りにさせてはなりません。何があっても、絶対に。