歴史小説「Two of Us」第4章J-9
~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country
J-9
1610年12月初旬(慶長15年10月下旬)。
小倉藩初代藩主細川忠興は、城代家老の松井康之を中津城に呼び出した。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠が武家諸法度を発令する以前に、細川家は嫡男忠利を江戸屋敷に置き、忠興とは交代で領内に戻る二元統治を行っていた。
これは、三男忠利は関ケ原の合戦と前後して、徳川家へ証人(人質)として預けられ、実質はいわば二代将軍と兄弟のように扱われ、同席にて帝王学を実践で学んでいたおかげでもある。
大坂玉造屋敷で生まれ育った三男忠利は、幼少から体が弱く体調を崩しがちで、戦には一度も出してはいなかったが、常に二代秀忠のそばに仕え帯同していた。幼名は『光千代』で元服前は忠興の一字を貰い『長岡忠辰』だったが、1600年に元服後は、諱の一字を秀忠から授与されたほどである。
この物語では『細川忠利』で統一する。
ちなみに、長男だった忠隆は嫡男となるべく『忠興』の忠の字を与えられたのだが廃嫡され、次男興秋は家族を愛する男であったが故、戦乱に向かず、まだ仏門に入っていた。
安泰の世に統治する家督継承者としての忠利は、二重に未来を約束されていたようなものだった。
徳川幕府平定の統治に倣い、九州での領地と江戸を繋ぐ役割を、忠利は担っていた。
忠興自身が【駿府の家康と江戸の秀忠】の二元政治を踏襲したのかもしれないが、後々熊本藩の安泰が以後江戸260年間存続するには、とても正解な親子統治の在り方である。
そして肥前長崎での諸外国との交易も目付役をし、幕府直轄地である長崎に近い小倉藩に転封任命された理由の一つでもある。
小倉城が完成すると、中津城から居城を移していたが、本日は、飛び地別府の杵築城に住まうガラシャ珠子に逢うために、中津城まで移動していたのだ。
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