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普通の盾を武器に使うな

「普通〇〇じゃん。」
という言葉を使ったことはあるだろうか?私はある。というかほとんどの人がそうだろう。この言葉についてよく考えて行きたい。

私は「普通」は盾として使うべきものだと思っている。
自分が深く考えてこなかったことについて、理由を問われた時「普通そうだと思っていました…」と言うことがあるけども、そういう自分の言葉ではまだうまく話せない時に使うのが「普通、そうだと思っていたので…」という盾だ。
この盾には、他者を傷つけようとする攻撃性は無く、自分の思考を分析するきっかけとなったりもする。(もちろん「普通そうじゃん」で思考を放棄することもあるだろうけども)

私が問題だと思うのは、武器としての「普通」だ。
自分の意見を「普通」という大きな虎の意を借りて相手にぶつけようとする。
「あなたのやってる事は普通じゃないよ。」
「普通〇〇なんだから、〇〇しようよ。」
そういう言葉には、攻撃性がある。


ここから、普通を武器として使用する問題について考えていく。

社会問題を議論する時も、普通という言葉はよく用いられる。「普通は〇〇だと思うでしょ。」「普通の人ならこうなるはず。」とか。

普通、普通の人

というのはとても曖昧な言葉だ。一体どこまでを「普通」としているのか。議論によって、またはそれを口にする個人の属性によって、範囲は全く異なるのが「普通」だ。
それでいて社会全部を代表しているようで、とても強い言葉なのが不思議である。

普通ならこう。という言葉には、「そうじゃないものはおかしい。変だ。」という感情が込められている。

この言葉を武器として使うのが非常に厄介である理由は、言われた側の反論を封じている点にある。
普通ではない。とレッテルを貼られた時点で発言権が無くなる。何を言おうとしても空虚だ。
「個人」がどれだけ戦おうとも、その「普通(ないし、それを含有する社会)」に適うわけがないのである。「普通」の裏には、自分の意見を正当化しようとする「個人」が居るはずなのに。
それを武器として使うのは、全く民主主義的でない。

個人の意見の交換の場であるはずだった議論で、自分の意見が「普通」という多くの他者の賛同を得ているかのような錯覚を相手に与え、そして「普通」ではない相手から発言権を奪う、独裁者になってしまう。

普通、は便利だからこそ、武器としては使わないようにしたい。







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