「熱異常」の“現実”と“寓意”〜キリスト教的解釈を軸とする多元終末論〜
はやく本題を読みたいという方は「2. 「熱異常」の“現実”」、最重要の箇所だけ読みたいという方は「3. 「熱異常」の“寓意”」へ飛んでください。
0. はじめに
自己の紹介です。
はじめまして、なもみ(@namomidw)と申します。いよわの楽曲やいよわガールズなどの情報を網羅してまとめているIyowa.Archiveというサイトを運営しています。みんな使ってね。あと拡散してね。
「熱異常」が(広義の)VOCALOID界にとってエポック・メイキング的な楽曲であることに異論を唱える方は少ないと思います。
The VOCALOID Collection 〜2022 Autumn〜のTOP100ランキングにて堂々の1位を獲得し、当時のUTAUオリジナル曲で最速の100万回再生(伝説入り)を成し遂げた楽曲です。
同時に“足立レイ”というキャラクターの知名度・使用率を爆発的に上げた曲でもあり、2024/01/15現在ニコニコ動画上に投稿されている“足立レイオリジナル曲”の約92.3%は熱異常以後の作品になっています。足立レイのUTAU公開から熱異常投稿までの約四年間に投稿された楽曲が全体の0.7%ほどにしかならない事実は、熱異常以後の一年三ヶ月における足立レイ熱がいかに異常であるかを如実に示しています。
今回はこの紛うことなき名曲について、とあるひとつの軸を中心とした新しい視点の考察を行なっていきます。
もちろん、これは考察ですので多様な読み方のできる作品の一解釈に過ぎません。信じるか信じないかは、本当の意味で読者の皆様に委ねられています。
1. 概要
熱異常は終末感を出しているだけの曲ではなく、明確な世界観とシチュエーションの設定があります。これは本人がラジオで明言したことですので前提として取り扱います。ちなみに、同放送では足立レイのことを一貫して足立レイ“さん”と呼びつづけていました。
既存の熱異常の考察には、大別して「熱異常の世界で何が起こっているか」を考えるものと「この曲で作者は何がしたいのか」を考えるものがあります。これはVOCALOID曲の考察一般においても同様と言って、おそらく大過ないでしょう。
文学研究における基本的な方法論には作品論・作家論・テクスト論の三つの立場がありますが、このうち前者の「世界で何が起こっているか」を考えるものは作品論的、後者の「作者は何がしたいのか」は作家論的なものだと言えます。
VOCALOID曲の“考察”というのは一般用語の“考察”とは少しずれた“「この曲のこれってこうなんじゃないか」という気づきの集合”のような意味で扱われているのが実状です。もちろん、それはまったく悪いことではなく、だからこそ多様な説が生まれているのだと思います。
ただ、やはり両者の区別をつけないまま歌詞を上から逐次的に読んでいく方法のみだと、軸のある考察をするのが難しいというのも事実です。そのため、ここでは簡便のために作品論的解釈をする部分(現実)と作家論的解釈をする部分(寓意)をわけて論じています。
また、一応の補足ではありますが、文学研究の視座を援用しているとはいえこれもあくまでVOCALOID曲の“考察”ですので、専門的な手法を用いているわけではありません。まったくの与太話に過ぎないことは強調しておきます。
さて、本題に入る前にもうひとつだけ説明させてください。
この考察では、熱異常の歌詞に二つの視点が混在しているものとして取り扱っています。“現実”と“寓意”です。
詳細は後述しますが、これはそれぞれが作品論的解釈・作家論的解釈に対応します。現実は「熱異常の世界で起きていること」、寓意は「熱異常で作者がしていること」です。
熱異常に“終末”の語は一切登場しませんが、これが終末の曲であることは明らかです。しかし、終末の曲なのになぜわざわざ「魚」や「燕」等の生物を登場させたのでしょうか。それは寓意だからです。熱異常の世界の中で実際に「魚」「燕」が生きているかは関係ありません。
前置きが長くなりましたが、最後までお付き合いくだされば幸いです。
2. 「熱異常」の“現実”
熱異常の音楽を聴き、歌詞を読み、MVを観ることで素朴に理解できるのは、熱異常の世界が二つの要素、つまり“終末”と“足立レイ”で構成されていることです。
先程、熱異常には「明確な世界観とシチュエーションの設定」が存在すると言ったばかりですが、熱異常に“ストーリー”はありません。
どういうことかというと、「足立レイが終末の訪れている世界に存在する」という世界観とシチュエーションは存在しますが、「いかにして足立レイが終末の訪れている世界に存在するのか」というストーリーは存在しないか、非常に粗いのです。
後述しますが、熱異常には我々ヒューマンには想像も及ばないほど長い、1000年を軽く超える時間を経た後の世界だという考察が存在します。しかし、それだけ時間が経ってもなお足立レイの蓄音機・服・リボンが土に還っていない(ことになっている)のは、そういうことだからです。
熱異常で重要なのは終末と足立レイの存在であって、その経緯ではないのです。
「ストーリーがない」と考えると、熱異常の歌詞が明らかに象徴詩である理由がわかってきます。
熱異常の歌詞は、物語を持った散文を断片的に取り上げて詩化したものではなく、あらかじめ詩の形式を取ることで現実と寓意の混在を達成したものです。
何だか大仰に聞こえるかもしれませんが、つまりは熱異常の世界を詩的に象徴することでそこに至るまでのストーリーを脱色し、さらに過去曲の示唆を多く含めることでメタレベルで別のことをやっているということです。
では、熱異常のストーリーについて考えることは無意味なのかというとそうではありませんが、この考察ではひとまず置いておくことにします。
また、この考察では現実より寓意を重要なものとして扱います。熱異常は「さよならジャックポット」的性格を持つので、過去曲の示唆自体がむしろ熱異常の本質だと考えているからです。
そのため、現実については「熱異常とはこれだ!」という主張より、一定の説得力を持つ異説を提唱する心づもりで記載しています。
2.1. 現実における終末〜二つの自然現象〜
さっそく熱異常の現実に到来している終末がどのようなものかを考えていきましょう。
二つ前置きをすると、歌詞全体が鉤括弧で囲われており、それが「あわれな独り言を記している」という歌詞と一致することから「足立レイ以外の生物(?)はもう存在しない」ことがわかります。
また、高熱・蓄音機・美少女ロボットというポスト・アポカリプスのSFで大人気の概念が揃い踏みしていることから、熱異常の現実に訪れている終末は宗教的なものではなく科学的なものだと思われます。(歌詞に宗教的な表現が多く入っているのは、後述するキリスト教的解釈の寓意によって説明します)
地球の終わり、“終末”としてパッと思いつくものは何がありますか?
“隕石の衝突”・“宇宙人の襲来”はもう既にやっています。“地球の爆発”は無理があるでしょう。確かに地球には多くの火山がありますが、その核は金属であるため爆発するとは考えにくいです。
では他には何があるでしょうか。それは“戦争”(リンク略)あるいは自然現象、“太陽の膨張”か“宇宙の熱的死”です。
正直に申し上げますと、このうちの戦争説はあまり好きではありません。
それは個人の好みでもありますし、VOCALOID曲の考察にはあまりにも牽強付会な理論で戦争に結びつけられている曲が多すぎるというメタ的な理由もあります。
実際、散々考えた挙句に本当は戦争の曲だったということも考えられるでしょう。2022年3月に“熱異常(heat anomalies)”という普段あまり使われない言葉を使ったウクライナ侵攻のニュース記事が出ていますし、これを読んだという可能性もありえます。
ですが、一旦ここでは退けさせてください。戦争説は要素が多すぎるため破滅的な歌詞であればほとんど当てはめられるのでクリティカルな反駁は難しいですが、強いて挙げれば歌詞の中に“戦い”と“抗い”の要素が含まれていないことでしょうか。ヒューマンの過ちたる戦争よりもずっと不可避の終末を予感させていると考えられませんか。
では、自然現象の方について検討を回しましょう。太陽の膨張か宇宙の熱的死か、いずれの終末が訪れているのでしょうか。
太陽の膨張を支持する根拠をわざわざ挙げる必要はないでしょう。宇宙の熱的死も、ただ熱に関連しているだけというわけでもありません。アイコンのピンク色は鹿目まどかの髪の色という話は有名ですが、彼女の登場する『魔法少女まどか⭐︎マギカ』において魔法少女が生み出された理由は、宇宙の熱的死を防ぐためです。
しかし、理系の方は気づかれたかもしれませんが、宇宙の熱的死はその字面に反して非常に寒く冷たいのです。熱力学の第二法則によりエントロピーが無限に増大した結果、全宇宙のエネルギーが均されほとんどの原子が緘黙を守るようになってしまった世界では、絶対零度に近い温度がその全域を満たしています。
よって、高温の世界である熱異常では宇宙の熱的死の可能性は棄却され、ません。
太陽の膨張と宇宙の熱的死では到来までの期間に信じられないくらいの差がありますが、それもストーリーの脱色を考えれば問題となりません。
実は、熱異常の終末が太陽の膨張であるか宇宙の熱的死であるかは、MVに映っているのが足立レイであるが故に判断できないのです。
その理由を詳しく述べていきましょう。
2.2. 二重的・反復的な終末〜足立レイの必然性〜
足立レイは今のところAIではありません。
いえ、例の最高のbotや制作者のみさいる氏自身がAIと呼ぶ場面を理由にAIだと思われるのはとても妥当なことですが、現状の例のbotはFF内のアカウントのポストを複数ランダムで拾って組み合わせるというシステムなので、大規模データセットやTransformerモデルを使用した(借りた)“AI”ではありません。
現時点で足立レイのキャラクターは多様な解釈によってミーム的に構築されたもので、能動的な知能(とみなせるもの)ではまだないのです。
それを示して何が言いたいのかというと、熱異常は足立レイをAIとしてではなく美少女ロボットとして出演させているということです。
足立レイの解釈の中には感情豊かなものも多くありますが、MVの足立レイはあくまで無表情であり、動かすのは目だけでポーズを変えることはありません。歌詞には絶望的な表現が含まれていますが、それに相反して足立レイ自身は淡々と蓄音機に込められた音を聞いているのです。その無機質さは、ChatGPTのコンプライアンスに縛られた優しく丁寧な応対とは著しく遠い感触ではないでしょうか。「死んだ変数」も「その中枢」も、足立レイのAIというよりロボット的側面を強調していると捉えられるでしょう。
では、足立レイがロボットであることを示すと何が起こるのでしょうか。
熱異常は本当に熱い世界だと思いますか?
今更何の話かと思われたでしょうか。ですが、じっくり考えたときこの問いには答えられないことがわかるのです。
足立レイのオレンジ色の髪、サーモグラフィーのような赤色のグラデーションを示す背景、陽炎のようなエフェクト。これらから総合的に受ける印象として熱異常を熱い世界だと思ってしまうのも無理はありません。
しかし、“熱”という語は出てても“熱い”・“熱さ”という表現は出てきません。“熱異常(Heat Abnormal)”をニュートラルな視点から読めば、「熱(Heat)に異常(Abnormal)が起こっている」とも解釈できます。
つまり、超高温の世界ではなく超低温の世界でもありうるのではないでしょうか。
無理がある、恣意的な解釈だと思われた方もいるでしょうから、さらに具体的な話に持っていきましょう。解像度を上げれば齟齬も見つかるかもしれません。
超高温と超低温の対照性は、それぞれ太陽の膨張と宇宙の熱的死に対応づけられます。超高温の終末は太陽の膨張、超低温の終末は宇宙の熱的死になるわけです。
熱異常が超低温の世界ではなく超高温の世界であることを示すにはいくつかの方法があります。登場人物が汗をかいていれば高温であることが簡単に証明できます。さて、足立レイは汗をかいているのでしょうか。
足立レイは汗をかきません。当然です、ロボットですから。
足立レイはロボットであるが故に、汗をかかず、水分を含まず、呼吸もせず、常軌を逸した気温に耐えられます。ロボットなので融けませんし、凍りつきません。これは、MVから熱異常の世界の温度も湿度も大気中の酸素濃度も察することができないことを示しています。
MVにかかっている陽炎のエフェクトも超高熱の証明には足りません。陽炎は大気の温度差によって発生する現象ですので、低温の空気とさらに低温の空気によっても発生します(気嵐)。あるいは、排熱口の数や「思考の成れ果て」「その中枢には熱異常が起こっている」から足立レイ自身が熱異常を起こしているという説を踏まえれば、足立レイ自身の高熱と低温の大気の温度差が原因の可能性もあります。
もう少し詳細に検討していきましょう。
「黒い星」はひとつには「誰かの澄んだ瞳の色をした星」、黒目(瞳孔)の隠喩であることは間違いないでしょう。(“黒星”との言葉遊び説は保留しておきます)それはMVの足立レイの瞳孔であり、視聴者の瞳孔であり、あるいは別次元から覗く何者かの瞳孔でもあるのかもしれません。
もちろん「黒い星」はこれだけではなく、太陽の膨張を支持するなら“黒点”ではないかという予想が立てられます。
ならば、宇宙の熱的死の場合は何を指すのでしょうか。それは“ブラックホール”か“黒色矮星”です。
特にブラックホールは宇宙に存在するありとあらゆる情報を事象の地平面のさらに奥へと際限なく落下させていくので、そこに何か別次元からの圧倒的な畏怖を幻視しても違和感はありません。
まだ区別がつかないようですが、もっと重要な要素があります。あのサーモグラフィーのような赤々としたグラデーションの背景です。
太陽の膨張においてはあの色はいくらでも理由がつけられるでしょう。でも宇宙の熱的死が赤色を示す場面なんてありうるのでしょうか。すべてが闇で覆われてしまうのではないでしょうか。
あります。“赤方偏移”です。宇宙が熱的死を迎えてもなお宇宙の膨張は続き、遠方の星々は地球から無限に遠ざかります。その星々を観測しようとすれば、ドップラー効果により引き伸ばされた波長が赤々とした色を見せることでしょう。
不思議なことに、かなり具体的な話にまで持ち込んだのに決着がつきません。熱異常の世界は太陽の膨張によって滅びても、宇宙の熱的死によって滅びてもよいことになります。
こういうときは視点を切り替えることが重要でしょう。むしろ、熱異常は超高温でも超低温でも辻褄が合うように設計されているのではないでしょうか。
熱異常は二つの終末が同時に訪れてもよい設計になっている。それは足立レイがロボットであるからこそです。
脚本の人はそこまで考えていないのでしょうか。しかし、このセリフが発された原作の漫画では脚本の人はそこまで考えていたというオチがつきました。
まあ、率直に言ってしまえば、考察を好んで読む方はある程度“脚そ考”を捨てる訓練ができている方でしょう。それを言ったらおしまいかもしれませんが、「3. 「熱異常」の“寓意”」では脚そ考を感じずとも確証を得られる考察をするつもりです。
ですが、今は読者の皆様が各々の脚そ考をうまく手なづけられることを信じ、さらにもう一段階進んだ与太話を広げようと思います。
過去曲には“ループ”をテーマにしたものがあります。それは輪廻転生ではなくウロボロス的なループ、脱することのできない否定的な事象の繰り返しを意味します。
通常なら両立しえない終末が両立するということは、二つの世界を同時に見ているか、あるいは二極的な終末を繰り返しているとは考えられないでしょうか。
「死んだ変数で繰り返す」「数え事が孕んだ熱」や早口で過剰なリフレインは、足立レイがヒューマンではなくロボットであることの表現でもありますが、何より何度も何度も終末を繰り返していることを意味するのかもしれません。
それらがすべて同じ世界の出来事なのか、他の多元宇宙での出来事なのかはわかりませんが、ひとまず結論づけます。
「熱異常」は二重的な終末であり、また反復的な終末でもありうるのです。
この論は続く「3. 「熱異常」の“寓意”」に通じる部分があります。
3. 「熱異常」の“寓意”
熱異常には明らかにメタ性があります。
メタ性とは、第四の壁を(示唆には留まりますが)打ち破っていることです。
先程も「黒い星」は誰かの瞳孔であると説明しましたが、これは足立レイが画面の向こうの視聴者を見つめることで「彼らを見て」、また視聴者の瞳孔が足立レイを見つめることで「私を見ている」と発言するという構造です。
これも先達って指摘したことですが、歌詞を鉤括弧で囲むというのも足立レイの「あわれな独り言」を念押しして視聴者に理解させるための手法です。きちんと鉤括弧が閉じていることから終わりがあることがわかります。
また、ヘッドフォンをするとはっきりわかりますが、初音ミクのコーラスは右側からしか聴こえません。これは足立レイが蓄音機を当てている側の耳と一致します。ちなみに、熱異常の初期のベタ打ちは初音ミクの歌唱だったそうです。
この問題には「一千光年」との対照性を含むいくつかの興味深い考察がありますが、そのひとつには「初音ミクが残した録音を聴き足立レイがまた録音を残す」というものがあります。
こうやってまとめてみると、三分の二が反復的な特徴を持っていることがわかります。熱異常は反復というテーマを反復的に示す楽曲でもあるのでしょう。
“寓意”もメタ性と関連の強い概念です。なぜなら、それは歌詞に過去曲の示唆を多く含めるさよならジャックポット的性格を与えることで、“現実”よりも高いレベルでのひとつの結末を齎しているからです。
熱異常に宗教的な表現が多く含まれていることも寓意によって説明できます。過去曲にはキリスト教的解釈のできる楽曲がいくつか存在しますが、熱異常はそれらについて示唆しているからです。
3.1. いよわの用語法
ここでは、以降の考察の前提としてですが、今回の考察のみならず他の楽曲の考察にも通じるものを紹介します。
全楽曲の歌詞を眺めていると、明らかに同じだったり類似している言葉・表現が繰り返し登場することがわかります。そのようなものは、楽曲(≒世界観)を跨いで同様の隠喩を含んでいることを意味します。
例を挙げましょう。熱異常の
は、三日月を笑う口のかたちに喩えていますが、「オーバー!」の
は、月の満ち欠けをウィンクする目に喩えています。
これら二つの表現は、“月の擬人化的な表現”という点で繋がっています。
正直、この繋がりが具体的に何を意味しているか推測するのは難しいです。単なる言葉選びの癖ということもあるでしょう。偶然か意図的かの弁別はほとんど不可能と言ってよいかもしれません。ここでは繋がりの意味にまでは踏み込まず、あくまで“繋がっている”こと自体を重要視します。
熱異常の歌詞には単純な単語・表現の一致ではなくMVに映るものに言及した示唆も含まれますが、それくらいは十分ありうる範囲だと考えます。
毛色は変わりますが、他にも二つ例を挙げます。
「ポプリさん」の投稿者コメントにある「彼女は歩いていく。」は、「彼女は描けない」→「彼女は駆けない」→「彼女は歩かない」の連想を経たものだと本人が明言しています。これくらいの言葉遊びをすることは考慮に入れるに値します。
また、「きゅうくらりん」の歌詞の中の英単語のみを抜き出すと“ピンクノイズ”(『ねむるピンクノイズ』)の語が浮かび上がるという仕掛けが存在します。歌詞の中に一癖も二癖もあるギミックを入れてくる可能性も大いにあるでしょう。
他にも有名な「水死体にもどらないで」の文字化け、「ラストジャーニー」の逆再生、「IMAWANOKIWA」「ももいろの鍵」のモールス信号等の直接的な暗号を含め、考察欲を駆り立てる多種多様な仕掛けを施してくるので、どこからどこまでが作者の想定で自分の妄想か弁別するのは無理と言ってよいでしょう。
しかし、本人は曲の考察を歓迎しています。せっかくの仕掛けに気づいてほしいという思いもきっとあるのではないでしょうか。
皆も考察しよう!
3.2. キリスト教的解釈を軸とする多元終末論
最初から読まれた方も飛んでこられた方も、お疲れ様です。ここからが本題です。
この考察を読まれている方には“キリスト教的解釈“の異様な胡散臭さや、“多元終末論“のわけわからなさに惹かれた方もいらっしゃるかもしれません。
これらの単語をタイトルに冠した理由を今から解説していきます。もう一度強調しますが、あくまで与太話に過ぎません。過度な期待はしないでください。
それでは、よろしくお願いいたします。
歌詞の分析〜“現実”と“寓意”の区分〜
以下に熱異常のすべての歌詞を載せます。リフレインも省略せずに書いているので、邪魔になる方は飛ばしてください。
さて、ここから二回以上出てくるフレーズを削除し、区分となる箇所に線を引いていきます。この作業で取り零してしまう要素(寓意を含む)も少なくないのですが、あくまで今回はキリスト教的解釈を軸とする考察ですので、関連しない要素が捨象されることはご寛恕願えればと思います。
これによって八つの区分ができました。このうち、キリスト教的解釈に関連する部分は最初と最後を除く六つ。六つのうちキリスト教的解釈の可能な楽曲に対応する部分は五つ。そのうちさらに重要なものは四つです。
では、その重要な四つから、ではなく比較的重要性の低いひとつの方から解説していきます。
「マーシーキリング」
これは、マーシーキリングのラスサビ前に教会の鐘の音が鳴っていることに由来するフレーズです。
このフレーズは「あだぽしゃ」だと思われた方も多いでしょう。それも間違いではないと思われます。「栄光の手(hand of glory)」はヨーロッパ圏の用語ですので、キリスト教的解釈も不可能ではないでしょう。
しかしながら、あだぽしゃよりマーシーキリングの方が軸に沿っているという観点から、マーシーキリングのキリスト教的解釈を試みようと思います。
なお、今から始まる考察はマーシーキリングの考察であって熱異常の考察と強い関係はない(だから比較的重要性が低い)ので、興味のない方は読み飛ばしていただいて構いません。
はい、脱線です。誠に申し訳ありません。
マーシーキリングは一目見ればわかる通りキリスト教的表象に溢れています。
マキリちゃんは十字架(クロス)のネックレスをしていますし、背後の絵画はどう見てもレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」です。
もはや公然の事実ではありますが、あくまでpixivFanboxの有料記事の内容であるため詳細を伏せて書きますと、マーシーキリングはとある“裏切り”とそれによって起こった“殺害”の物語です。
そのため、「「最後の晩餐」は史上最大の裏切り者であるイスカリオテのユダを表すために登場させているという解釈」はほとんど定説と言ってよいでしょう。十分同意できる意見です。
しかし、それだけだと腑に落ちない点がいくつかあります。「「十字架を背負って」と表現されていること」「マキリちゃんがキリストの位置に立っていること」「テーマカラーが青色と黄色であること」です。
「十字架を背負って」は、先程の有料記事の中で使われている表現です。マキリちゃんを“裏切った方”がマキリちゃんによって取り返しのつかない事態の渦中に引き込まれてしまい、それを悔やみながらマーシーキリングという楽曲が終わりを迎えるという文脈で使われた表現ですが、この言葉選びはマキリちゃんの十字架のネックレスと無関係でありうるのでしょうか。
また、作画上マキリちゃんが立つ位置は別にどこでもよいはずなのに、なぜわざわざ中央に立っているのでしょうか。これだけだと疑問に思うのはおかしいと思われるかもしれません、「昨非今是のイノセンス」も「イーマイナー」も「乙女を踊れ」も中央に立っていますから。ですが、今回は背景の「最後の晩餐」のキリストと同じ位置に立っているという状況があります。そして、マキリちゃんの胸にはきらりと輝く左右対称の十字架のネックレスがぶら下がっています。
“左右対称”というのは重要です。「IMWANOKIWA」の考察に通じている方にはご理解いただけると思いますが、それは意図的に仕込まれた表象を予感させるでしょう。
マーシーキリングのテーマカラーには青色のみではなく黄色も含まれています。『ねむるピンクノイズ』のXFDを観るとわかりやすいですが、マキリちゃんの瞳に黄色が使われています。『ねむるピンクノイズ』のXFDでイラストに二色以上使われているのはマーシーキリングのみです。
イスカリオテのユダが着ていた服が黄色だったために、中世ヨーロッパでは黄色は裏切り者の象徴となり、反ユダヤ思想の下でユダヤ人を迫害するために用いられたという話は有名です。実際、「最後の晩餐」のユダは青色と黄色の服を着ている姿で描かれています。最近だとドラマ「VIVANT」に使われたモチーフでもあります。
ちなみに、少しセンシティブな話になりますが、“マーシーキリング(mercy killing)”というのは一般的な“安楽死(euthanasia)”とは異なります。歴史的には「ナチス・ドイツによって施行された、重度障害者等の“生きるに値しない命”を国益のために殺す“慈悲的殺人(gnadentod)”」の英訳を指すのです。つまり、反ユダヤ思想という点でも共通しています。
しかし、ここで疑問が浮かびます。なぜ“裏切られた”はずのマキリちゃんが裏切りの色を冠しているのでしょうか。
また、青色はカトリック系キリスト教において聖母マリアを意味する典礼色でもあります(黄色は祝祭日の典礼色)。なぜマキリちゃんはユダの色とマリアの色の両方を具えているのでしょうか。
マーシーキリングのMVとマキリちゃんのイラストを見ればわかりますが、黄色は明らかに液体のような表現をされています。これは明らかに血でしょう。そのため、マキリちゃんに黄色が含まれるのはそれが「裏切り者の返り血」であり、瞳が黄色いのは「裏切り者が瞳に反射している」からと捉えられる、と当初は考えました。
ですが、この考察には問題があります。マキリちゃんは“裏切り者”を刺してはいません。マキリちゃんが刺し殺したのは裏切るつもりも裏切らせるつもりもなかった“無辜の怪物”なのですから。そうすると、これは無辜の怪物かマキリちゃん本人の血となり、また振り出しに戻ってしまいます。
実はこれらは正確には未解決問題ですが、ひとつすべてを解決する考察を打ち出してみましょう。マキリちゃんはキリスト・ユダ・マリアすべての表象を一人で担った三位一体ガールという説です。もしかすると、マキリちゃんがお気に入りのガールズなのはそのせいなのかもしれません。
マキリちゃんがキリストの表象も担うというのは、何も立ち位置のみを理由にしたものではありません。
このページはマキリちゃんのイラストとマキリちゃんへの公式的な言及について一通りまとめたものですが、見ていればわかる通りマキリちゃんの十字架のネックレスは描かれないことが多いです。これは単に忘れているだけの可能性もありますが、pixivFanboxの記事のイラストでも泣いているマキリちゃんの首元には十字架のネックレスがありません。
これは文字通り裏切り者へ「十字架を背負わせた(十字架のネックレスを裏切り者の首にかけた)」からではないでしょうか。マーシーキリングは慈悲による殺害で裏切り者に赦しを与えると同時に、十字架がその原義を取り戻し罪人の象徴となる両義的な物語なのです。
また、マキリちゃん自身に裏切り者の性質を持たせられないわけでもありません。
「小指四本分の約束」を交わしたのは裏切り者とマキリちゃんの両者なので、マキリちゃんも約束の何かに抵触したせいで裏切り者の性格を持った、あるいはマキリちゃん自身がキリスト教徒であったので嫉妬に狂って殺害を犯すことでキリスト(神)の教えを裏切った(背信)とも解釈できます。裏切り者への怒りのあまり「右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい」という素朴で敬虔な教えを破ったことを表す咎めの色なのかもしれません。
加えて、倫理的に宜しくなく考察的にも厳しい線ですが、聖母マリアの説も補強することができます。
マーシーキリングのラスサビ前には教会の鐘の音が鳴っています。これは裏切り者の記憶にマキリちゃんのことが永遠に刻まれたから実質結婚したようなものだよね、と解釈することが妥当でしょう。鐘の音は「お別かれ」であると同時に永遠に結ばれることを指す両義性を持つのです。
けれども、いきなり結婚は性急すぎる気もします。マキリちゃんと裏切り者は婚約でもしていたのでしょうか。婚約していたのにあんな裏切りをしたのでしょうか。(裏切り者は相当の人格破綻者なのでありうるのがこわいところです)
もし、マキリちゃんと裏切り者が婚約していなかったら。男女の間に“それ”ができてしまったらほとんど必然的に結婚しなければならないようなものがお腹の中にいたことにならないでしょうか。
とはいえ、これはかなり厳しい線の考察です。pixivFanboxの記事で明言されている情報と整合性が取れません。(ショッキングなので一旦は隠したとも考えられますが)
なんにせよ、マーシーキリングにはイスカリオテのユダに留まらないキリスト教的表象の複雑な関係が含まれていることがご理解いただけたと思います。
あぁ、幸せ!これにて、マーシーキリングのキリスト教的解釈の段はおしまいです。
マキリちゃんが三位一体ガールであるという些か雑な結論を出しただけで終わってしまいましたが、ここでの目的はキリスト教的解釈が可能な楽曲の存在を示すためです。
マーシーキリングの考察を通して、楽曲の中に深いキリスト教的解釈を可能にする表象が見出せることにはご納得いただけたでしょうか。
また、熱異常における「お別かれの鐘」が、単なる終末の到来を予感させるものではなく慈悲・裏切り・永遠という、実に多層的かつ絶望的な響きを持ったものであることもご理解いただけたでしょうか。(「砂の味」が“砂の惑星”について語っていることは自明なので詳細は省略します)
では、より重要性の高い四つの楽曲についてキリスト教的解釈を行うことで、熱異常の寓意に迫っていきましょう。
今更ですが、熱異常の歌詞に過去曲の示唆を見出すこと自体はまったく珍しいものではありません。特に1000年生きてるはその知名度の高さ(と要素の多さ)から、対応する区分こそ違えど熱異常に含まれているという説は既にあります。
特に創作論と結びつける解釈はこの考察における寓意の趣旨とも近いでしょう。ですが、今回はキリスト教的解釈に基づいて考察していきます。
1000年生きてる(living millenium)は、新約聖書唯一の預言書『ヨハネの黙示録』を根拠とするキリスト教の終末論“千年王国(millenarianism)”に対応します。
『ヨハネの黙示録』はキリスト教における終末論の由来となっている聖典です。
不信心を重ね愚かさを悔い改めない人々に対する神の怒りが頂点に達し、七つの封印が解かれ七つのラッパが吹かれ七つの鉢が傾けられるとともに異常な転変地異が次々と巻き起こりますが、そのために死んだ人々のうち信心深い者達はキリストとともに復活(第一の復活)して地上を千年間治めることになりました。
ですが、熱異常の歌詞は少しおかしいですね。千年王国はひとつのものを熱心に信じつづけた人々が救われる物語であり、1000年生きてるも一途に創作に向き合いつづけた結果1000年生きられるかもしれないという未来への希望を表しています。
それなのに、
この歌詞は明らかに千年王国とは真逆の状況を示しています。
神の怒りを浴びてしまい大声で悲嘆にくれる人々は、決して悔い改めることなく反キリストに唆されるように救いの旗へ火を放っていきます。
1000年生きてるは「パパママ」を「骨も残らぬ」と言っています。それに対して、MVでは1番サビで元気にリズムに乗っていたシーラカンスが2番サビで骨となって展示される(骨が残る)演出がなされています。これは、“たとえ骨になっても博物館のコレクションとして生きつづける”という一種の創作論的な希望を表現しています。
なら、「甘んじて棺桶に籠」ってはダメです。
なぜなら、それはコレクションとして1000年生きる道を否定し、棺桶に籠って誰からも忘れ去られようとすることだからです。まだ生きているコレクション達にお別れのキスをして、自らは不本意ながらも火葬されようとしているのでしょうか。
この歌詞はキリスト教的終末論における救済の部分を否定しているのでしょうか。だとしたら、それは一体なぜなんでしょうか。
「ノアノア」
ここの歌詞が旧約聖書における“ノアの方舟”を指していることに気づかれた方は多いでしょう。しかし、過去曲の知識を以って一歩前進すると、これは「ノアノア」に対応する区分であることがわかります。
多くの人がノアの方舟であることに気づいているのにノアノアに言及していないのは、単純にノアノアが『AIWAKARE』というコンピレーション・アルバムに収録されているマイナーな楽曲だからでしょう。以前はBoothでの通販が行われていましたが、現在は入手が困難になっています。
今からノアノアをフルで聴くことは難しいですが、歌詞のみなら公式サイトで閲覧することができます。
歌詞を見られた方はおわかりになるでしょう。ノアノアは「氷河期を迎えた星から脱出する宇宙船」の話です。あるいはノアと呼ばれる人物も、生きるに相応しい星が見つかるまでコールド・スリープ状態にあるのかもしれません。
また、
は
との接続を感じさせます。
加えて、これは完全に余談ですが、かの名著『月と六ペンス』と同じタヒチを舞台とするポール・ゴーギャン『ノアノア』という小説が存在します。あるいは、これを元ネタにしているということもありうるのでしょう。
さて、ノアノアもPer aspera ad astraの精神で困難を乗り越える希望を描いている曲ですが、熱異常ではそのノアの方舟がどうなったのでしょうか。
爆破されています。嘘だろ。
こんなにも大事に、丁寧に、切に守ろうとした未来の種がたった二行で木っ端微塵に爆破されています。一体何がしたいのでしょうか。
「未来の種」ではない「大人たち」が乗船してしまったから爆ぜたのでしょうか。いずれにしろ、1000年生きてるに続きまたもや希望を打ち砕いています。
「キャラバン」
「キャラバン」を聴いたことのある方は「ノアノア」よりもっと少ないと思います。現在では「ノアノア」と違って歌詞すら見ることはできません。ですが、聴いたことのある方ならきっと納得していただけるでしょう。
キャラバンは、新約聖書『ルカによる福音書』に登場する三つのたとえ、「見失った羊のたとえ」「銀貨を無くした女のたとえ」「放蕩息子のたとえ」の要素を有しています。
以上の二つはそれぞれ「見失った羊のたとえ」「銀貨を無くした女のたとえ」に対応しています。二つの全文を載せると長くなってしまうので省略しますが、調べていただければ単に「羊」「小銭」の語が対応しているだけというわけでもないことをご理解いただけると思います。
また、二つの歌詞のうち後者は
と合わせてさよならジャックポットとの接続とも取れるでしょう。
では、「放蕩息子のたとえ」が歌詞のどこに対応するのかというと、「キャラバン」収録のコンピレーション・アルバム『密月』をリリースしているクリエイター集団の名称、“放蕩レコーズ”です。先述したきゅうくらりんのギミックを考慮すれば、これくらいのことは平気でやってくると思われます。
さて、冒頭で察された方もいるでしょう。
キャラバンは「誰も価値をつけていない」「無垢なる衝動の稲光」を手にしようとする希望の話です。ラスサビ前に
とある通り、値をつけられていない衝動を手にしようとする物語は終わらないはずなのですが、
あらゆる衝動に値がついています。何なんだ。
特に「祈り」と「憐れみ」はキリスト教において中心的な役割をなす重要な感情ですが、そのような実存の危機に関わる個人的で切迫した衝動さえも、他者からの値踏みによって価値化されてしまうことを表しています。
三回目ともなれば熱異常が寓意で何をやりたがっているかわかってきたと思います。それは“過去曲の否定”です。それもキリスト教的解釈が可能で、希望を唱えている過去曲の否定です。
熱異常はさよならジャックポット的性格を持つと言いましたが、それは厳密には異なります。さよならジャックポットはあくまで過去曲を示唆するだけでしたが、熱異常は過去曲を示唆した上でその結末を変えてしまっているのです。
ちなみに、
は
と明らかに接続していますが、これは“ロトの妻の塩柱”や“地の塩、世の光”を彷彿とさせる表現です。
「ピアノフィッシュ」
「ピアノフィッシュ」もマイナーではありますが、前の二曲に比べたら聴いたことのある方は多いでしょう。『Rainbow』というサブスクリプション配信限定(YouTube Musicを除く)のコンピレーション・アルバムに収録されている楽曲で、なぜか歌詞の公開がされていない唯一の楽曲です。
そのため、ここに記載する歌詞は私自身による文字起こしと他の方によるいくつかの文字起こしを照らし合わせて作成したものです。ですが、ピアノフィッシュは歌詞が比較的聴き取りやすい曲であるため、概ねコンセンサスが取れているといってよいでしょう。
なお、ピアノフィッシュが『Rainbow』に収録されるかたちになる前の仮歌が載っているポストがあります。参考にしたい方はぜひお聴きになってください。
さて、ピアノフィッシュは一見キリスト教感の薄い曲です。
それもそのはず、この楽曲単体にはキリスト要素は含まれておらず、あくまで「燕」は春夏秋冬の“春”を象徴する存在でしかないのです。しかし、楽曲のうち「燕」が登場するのは熱異常とピアノフィッシュの二曲しか存在しないのですから、何か繋がりがあるはずです。
燕はキリスト教においてあまり重要な鳥ではありません。オリーブの枝を咥えてくる鳩の方がよっぽど神聖視されています。では、なぜ殊更に燕を選んだのでしょうか。
実は、燕が登場するキリスト教的な物語がひとつ存在します。オスカー・ワイルド『幸福な王子』です。
読んだことのある方も多いでしょう。簡単に解説をすれば、その身体を宝石と金箔で造られた王子の像が、燕に頼んで自らの身体の一部を街の貧困に喘ぐ人々へと届けてもらう物語です。最終的に王子と燕はともに死んでしまいますが、その善行を見ていた神が死後の世界で大いなる祝福を与えるという結末で終わります。
そんな燕にも慈悲はありません。どうして。
不穏という言葉では片付けられないでしょう。これまで見てきた三曲の前例をもとに考えれば、このあと灰色の雲に追いつかれた燕がどんな結末を迎えるかは容易に想像がつきます。たとえ善行をしていようがそんなこと一切関係ないのです。
もうおわかりでしょう。熱異常が寓意でやっていることは“過去曲の否定”よりずっと恐ろしいものです。
それはキリスト教の世界観にあって未来への希望を語る自らの過去曲を悉く破壊し、撃滅し、逃れようのない終末を到来させています。
いわば、これは“過去曲の殺害”です。
熱異常の現実で起こっている終末を自らの過去曲へと拡張し、過去曲の切なる希望へと向かう世界観を懇切丁寧に滅ぼしつくすもう一段階上の終末を到来させているのです。過去曲に込めた自らの叫び・祈り・希いを、今度は自らの手で殺しているのです。
これは熱異常がメタ性を持つことと無関係ではいられないでしょう。熱異常の現実では二重的・反復的な終末が訪れていることは先述しましたが、その中に多元宇宙というワードがあったことを覚えておいででしょうか。
楽曲どうしがどの程度世界観を共有しているかはわかりませんが、基本的にはそれぞれ断絶された個別の世界観にあると言ってよいでしょう。それは一種の多元宇宙というわけです。
そうした多元宇宙を吹き飛ばし、消し炭にし、あらゆる希望を完膚なきまでに亡きものにするメタレベルの終末が来ているという解釈。
私はこれを熱異常の“多元終末論”と呼称します。
さて、そうすると自然と意味の通ってくるフレーズがあるのではないでしょうか。
これは熱異常の中で最もパワーのあるフレーズと言ってよいでしょう。「希望」が「手を汚」すなんて一体どういうことなのか。一見しただけではただ上質なオクシモロンにしか見えませんが、多元終末論を踏まえれば異なる解釈ができます。
“手を汚す”。一般的には犯罪に加担する際に使う表現です。それは詐欺だったり、横領だったり、あるいは殺害だったり。
そうです。
「希望で手が汚れてる」とは、「自ら殺害した希望の返り血で手が汚れている」という意味です。そんなことしていいの?
さて、ここまで熱異常を考察してきましたが、実際のところ過去曲を滅ぼすことで何がしたかったのかはわかりません。それは何か切欠のある大きな絶望に由来するのかもしれませんし、あるいは壮絶な超克の表現なのかもしれません。
そのため、作家論的解釈とは言ったものの、この考察ではあくまで熱異常の寓意において起こっていることを論じるに留めることにします。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
多元終末論の補強
以上でこの考察のもっとも重要な主張は終わりました。
それでは、ここからは多元終末論を補強するいくつかの考察をしていきます。
先達って「ピアノフィッシュは単体ではキリスト教の要素を含まない」と申し上げましたが、ストーリーには含まないという意味であって表象は含みます。
それは「魚」の存在です。ピアノフィッシュは
に見られるように、おそらくは主人公自らのことを「魚」と喩えています。「魚」はキリスト教的には何を意味するのでしょうか。
“キリスト教そのもの”を意味します。“イクトゥス”は、初期キリスト教から現代まで変わらないキリスト教のシンボルのひとつです。
キリストの没後、数百年経ってからキリスト教のシンボルになった十字架よりもよほど由緒があると言えるでしょう。マーシーキリングに登場している「最後の晩餐」に描かれているのが魚料理なのも、魚がキリスト教の象徴だからです。
そう考えると、
という歌詞も、特定の楽曲に対応しているわけではないですが、ひとつの世界観を強く滅ぼしていることがわかるでしょう。
また、1000年生きてるの際に挙げた『ヨハネの黙示録』には、
のように第二の天使によって海が血に変えられる描写が二回も登場します。あながち無関係とも思えないのではないでしょうか。
なお、『ヨハネの黙示録』には太陽と月が大変なことになる描写も何回か登場しますが、それ自体は“海が血に変わる”ことより現象としての珍しさが薄いのでここでは省略しました。
4. むすびに
お疲れ様でした。
正直言って、この二万字を超える考察を余さず読まれている方がいるとはまったく思っていません。この考察が読者の方々の注意を離さずにいられるかは、私にとってまったく確信できないことだからです。
先述の通り、この考察はわかっていて捨象した部分も多くあります。たとえば、
は、おそらく“感染症の蔓延”した世界のことを指しているのだろうと予想しています。ですが、今回のキリスト教的解釈という軸には沿わないので除外しました。
このように、いくつもの取り零しを見逃して構成される考察ではありますが、それでもここまで読まれている方がいらっしゃるなら、それだけで私にとっては非常に光栄なことです。
では、最後にエピグラフでも引用したリオタールの言葉でこの考察を終えることにしましょう。
「身体なしで思考することは可能か」は、「太陽の膨張により地球が滅びる数十億年後の未来に、地上的な肉体を捨て機械となったヒューマンが“思考”という概念を持ちうるのか」について論じた、1986年の短い講話です。
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