見出し画像

薔薇ジュード・ ジ・ オブスキュア Jude the Obscureと俳優ジュード・ロウ

画像の花はジュード ジ オブスキュア Jude the Obscureというな名前の薔薇です イギリスの作家トーマス・ハーデイの「日陰者ジュード」(Jude the Obscure)から付けられました

3月30日の我が家の庭

 このジュード ジ オブスキュア Jude the Obscure 我が家の庭に1本あります
 しかし3月30日の庭はまだ雪の布団をかぶっています 花どころか地面も見えません わたしは毎年この時期になると春に咲く花々を想像しながら
庭を眺めるのですが まだ「春は名のみの−今日もきのうも雪の空≪早春賦 歌詞より抜粋≫」といった様子です

 この薔薇は10年ほど前に 名前のジュードと アプリコットイエローの色 
コロンとしたディープカップ咲きの花形に惹かれ購入しました
 暖かい地域では「3m のつるバラ」と説明もあるのですが 去年の樹高は
1mに満たないくらいです
 私は北海道の雪の多い寒冷地帯に住んでいます
ですから冬の間は気温が−15度を下回ることも時々あります
庭は厚さ1m以上の雪の布団に覆われ どこに何があるかもわからない状態 
おまけに屋根の雪が落ちる場所もある
 このような環境なので樹高を大きくすることは無理なのでしょうね

 俳優のジュード・ロウも名前のジュードは「日影者ジュード」と
ビートルズの「Hey Jude」にちなんで名付けられたそうです
 彼は1999年の映画『リプリー』でアカデミー助演男優賞にノミネートされ
その端整な容姿と高い演技力で一躍有名になりました

映画「リプリー THE TALENTED MR. RIPLEY(1999)」のあらすじ
1958年 ニューヨークの貧しい青年トム・リプリーは ある富豪から頼まれ イタリアに行ったまま戻らない息子のディッキーを連れ戻す仕事を引き受ける やがてトムはディッキーへの愛憎から殺人を犯し彼になりすまして生きるようになる

 この映画の中でジュード・ロウはディッキーを演じています
1960年制作の映画「太陽がいっぱい」のリメイク版としてとして話題になりました 私はジュード・ロウが好きですが 「太陽がいっぱい」のほうが良いと思います
 あの印象深いエンディング  主人公を演じたアラン・ドロンの魅力
 これだけをとってもこの映画は不朽の名作違いありません
 
 しかしジュード・ロウについては
「本作は、類まれな才能を持つ英国人俳優ジュード・ロウにとって、スターとなるにふさわしい役柄である。圧倒的な美貌に加え、ディッキーが知り合うすべての男女から熱烈な求愛を受けるような、マニアックでいじわるな操作力を備えているのだ」と 公開当時ニューヨーク・タイムズの批評で
ジャネット・マスリンが絶賛していました《ウィキペディアより》
 
 このかなり話題になったエンディングですが 原作のアメリカ小説では トム・リプリーは最初の殺害でフイリップ(ディッキー)をなき者とした後 フィリップ(ディッキー)になりすまし 2人の人物(自分とフイリップ)を巧みに演じ分けて その遺産を自分のものにする という内容になっています
 1999年のアメリカ映画「リプリー」もこの結末とほぼ同じです 
 1960年フランス=イタリア制作の「太陽がいっぱい」は違います

「太陽がいっぱい」の最後の場面は・・・
 自分が殺害したフイリップの死体が偶然にも発見されたとは知らず 完全犯罪を成し遂げたと思っているトム・リプリーが 太陽の下で手足を伸ばしビーチチェアーに寝そべっていると 刑事に彼を呼ぶように頼まれたビーチの売店の女性が 「リプリーさん」 と言ってトムに声をかけます 名前を呼ばれたトムは 一瞬怪しげな表情をしますが 「電話ですよ」の声に疑いの表情が笑みに変わり のんびりと立ち上がりこちらに向かって歩き出します
 その先に刑事たちが待ち構えていることも知らずに
 やがて彼がスクリーンから消えると 画面には砂浜と向こうに広がる
青い空 そして燦々と輝く太陽 ニーノ・ロータの音楽が流れ
Fin(終わり)となります・・・

 この有名なラストシーン 故淀川長治氏は
「1人椅子に座るトムのバックの海上に浮かぶ小さな漁船には トムを迎えに来たフィリップの霊の姿が見える」 と語ったそうです
また 「主人公と彼に殺害される友人はホモセクシャルな関係にあり そのことがわからないとこの映画の魅力はつかめない」とも言っていました
 
 最初 監督のルネ・クレマンも「完全犯罪を成し遂げて 自首するべきか
このままこの社会で生きていくべきか悩むところで 終わりにする」 と
考えていた ーというインタビュー記事を読んだことがありますが 結局
プロデューサーに「このような非道徳的 非理論的なエンディングは観客が納得しない」と説得されて先に書いたエンディングになった といったエピソードもあります

 この映画の原作は アメリカの女性作家パトリシア・ハイスミスの小説
「 The Talented Mr. Ripley」です
 彼女は映画アルフレッド・ヒッチコックの「見知らぬ乗客」(1951)
トッド・ヘインズの「キャロル」(2015)の原作者としても知られ欧米では
アガサ・クリスティと並ぶ人気を誇っています
 彼女の伝記映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」が2023年11月に
公開されましたが 私はまだ観ていません
 パトリシア・ハイスミスは「太陽がいっぱい」の主人公のアラン・ドロンは気に入ったようですが 結末については異議をはさんだそうです
 
 私が初めてこの映画をテレビで観たとき 
映画の中で演技をするアラン・ドロンも初めて観たのですが
ギリシア神話の太陽神としてのアポロンのような美青年ぶりに心をすべて
持っていかれ 映画の内容が頭に入っていかない状態でした  
 私はどうしても初めて見る映画は 目に映るものに重点が置かれてしまいます「太陽がいっぱい」では
「映像の美しさ  数々の建物やインテリア そしてファッション     
ジャケット ボタンダウンシャツ ホワイトジーンズなど アメリカの
トラッドなアイテムを ヨーロッパ風にコーディネートする着こなし」等
ばかりに目がいく といった状態です 
 ですから「リプリー」初見の際は内容も演技もしっかり頭に入れようと
構えて観ました そのためにかえって
「ジュード・ロウが早々と殺されてしまう 
アラン・ドロンが殺人犯なのは許せるけれど 金持ちで放蕩息子であっても
ジュード・ロウがマット・デイモンの演じるトムに殺されるなんて許せない」となってしましました 
 「太陽がいっぱい」は3回以上 「リプリー」は2回観ました 
 何回か見るたびに深く考えさせられ そして何度も観たいと思ってしまうそのような映画が私の好きな映画かもしれません
 
 でもなぜかジュード・ロウは初期の映画ではすぐ死にますね
 映画デビュー作の「ショッピング」(1994)や「ガタカ」(1997)「クロコダイ ルの涙」(1998)でも 死にます 「ファイナル・カット」(1998)は
ジュード・ロウ本人の葬式から始まります

 去年の夏写した薔薇ジュード・ ジ・ オブスキュアの写真を見て
いろいろ思い巡らしたことを書いてみました
 我が家の庭の薔薇ジュード・ ジ・ オブスキュア 春には目覚めて 
今年もジュード・ロウにも負けない美しい花を咲かせてくれるかしら
 
 今夜は ルネ・クレマン監督のもうひとつの名作「禁じられた遊び」を
観て この映画の主題曲の美しいメロディでも聞きましょうか
 
  

また雪が降りました