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09 Serendipity
9月
その日は猛烈な眠気が私を襲ったので、中川書房の外にある本棚で適当に目に付いた新書を購入し神田のプロントに駆け込んだ。注文したマサラチャイを抱えて、店内端の席を確保したならば後は文字を追うだけ、寝る準備は万全である。本を無心で捲っていると段々脳内にチャイの香りが染み込んでくるような気がして次の瞬間には目を瞑っており暫くの間眠っていた。
黒瀬勝巳の詩を読みかえしてみると、そのほとんどすべてが、死を指しているのに気がつく。これまでになぜ気がつかなかったか。作品が身がわりの死を死ぬことをとおして、作者は生きつづけるだろうと、期待していたからだ。それにしても私はにぶかった。死ぬことへのねがいを、今では自分の中に切実なものとして感じなくなっているので、彼の気分がわからなかったのだろう。(略)
彼の詩には救いがある。しかし、詩は人間を救いはしない。
では 逃げるとするか
世界は、これでなかなかしぶといし
(「逃亡の唄」)
行く先々でメニュー表にチャイの文字を見つけると心が躍り思わず注文してしまう。スパイスに特にこだわりはないが、もっと沢山チャイを飲みたいという邪な気持ちから自分でシロップを作ったりしている。シナモン・カルダモン・クローブ・黒胡椒を火にかけ、紅茶ときび砂糖を加えて煮れば出来上がりである。どんなに疲れた日も家に帰ればマサラチャイが待っているので、シロップが底を付くまで私はご機嫌で居られるのである。
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通勤電車の中で、音楽を聞く・本を読む・映画を見る・眠るの選択肢のどれにも該当しない気分の時はLittle Big Beat Studiosを夢中になって見ている。上記の選択肢の眠る以外、何をしていても雑念が入って来てしまい集中できなかったりするのだが、Little Big Beat Studiosなどの演奏動画を見ている時は何故か無心で居られるので不思議である。シンプルに動画が長いのと、奏者も観客もヘッドフォンをしているのでヘッドフォンを常用している身としては没入感があって嬉しい。最近のお気に入りは、Incognito・Jazznova・Simon Phillips ・Luca Sestak Trioのスタジオライブセッションである。
錦糸町オリナスでナミビアの砂漠を見る。カナの傍若無人な態度は、痴人の愛のナオミやグミ・チョコレート・パインの山口美甘子を彷彿とさせ、そのやり切れなさや苦しさを等身大で抱えている人物像は非常に好ましかった。自分の中で怒の感情が限りなく0に近かったので、カナとハヤシが怒鳴り合いの喧嘩をするシーンに思わず笑ってしまった。人間が本気で取っ組み合って喧嘩している姿は傍から見たら滑稽で喜劇にすら見えるのだと知った。映画終盤になると登場人物の感情の起伏の激しさに終始振り回され疲弊してしまった。鈍器で頭を殴られたような怠さが身体を襲い、半目でズルズルと身体を引き摺りながら映画館を後にする。帰路の電車内で、カナと同じ21歳である鈴子が主人公の百万円と苦虫女という映画を見ながらすっかり自分も21歳である感覚で居たが、そういえば自分はもう23歳だったのだと思い出して戦慄した。
宇都宮ヒカリ座にシド・バレット独りぼっちの狂気を見に行った。折角の機会なので、東高円寺U.F.O.CLUBにて購入した、坂本慎太郎デザインのThe Madcap LaughsのジャケットをオマージュしたTシャツを着て行く事にする。宇都宮は案外近く片道2時間ほどの移動は少しも苦痛ではなかった。宇都宮駅で1日100円の自転車を借り、ひとまず勘で街に繰り出してみる事にする。街は割に古めかしく今にも壊れそうな雰囲気を纏っている。適当に自転車を漕いで知らない道を開拓しながら進んでいるとプラザヒカリが見えて来た。ビルは退廃的な雰囲気で格好良くこの時点で既に来て良かったと思える。シドは私の心の1番真ん中に煌めく憧れのロックスターであり、高校時代から現在に至るまでの鬱屈とした時間を支えてくれたほとんど神に近い崇拝に値する救いの存在であった。映像の中のシドは輝いていて涙が出るほど美しく、ほとんど毎日見る退屈な夢全てがこの映像なら良いのにと思うほどであった。当時のUFO CLUBの映像を見ていると、私はどうにも実際にあの場にいた気がしてならない。これほどまでに60年代のサイケ・ムーヴメントに心が惹かれる理由は私がグルーピーの生まれ変わりであるというより他は無いとすら思うのである。あの時代のティーンエイジャーへの羨望は多分今世で命尽きるまで続くのだろうなと思いながら、無邪気で純粋で孤高であり類を見ない天才シド・バレットの事をより強く想うのであった。同時に部屋に飾ってあるThe Madcap LaughsのLPを思い出し、足掛け半年程になるアルバムをオマージュした未完成のアクリル画を流石に完成させなければなと思った。映画の余韻に浸りながら宇都宮駅までの道を自転車でペタペタと漕いでいくと、川の支流を超えた辺りに本の絵がペイントしてある不思議な看板と路地を見つけた。雑草の生い茂る小道を自転車を押しながら進むと、小さな古本屋が存在していた。本を2冊購入した所で、自分が凄まじい空腹状態である事に気が付いた。観光地に出向いておきながらお昼代は惜しいと思う癖にどこでも買える本を購入する事には躊躇いが無いのだから恐ろしい。が、駅のホームで拾うように購入したトマトジュースとおにぎりで満足出来る自分が嫌いでは無いので良しとする事にして宇都宮1人小旅行を終わりとする。