短編『卒業』#7
3月11日
今井健吾
卒業式といっても健吾は特に感傷的な気持ちにはならなかった。心のどこかで、またいつか会えばいいと楽観的に思っていた。同窓会でも、成人式でも。会いたいときにはいつでも連絡が取れるのだから、寂しいという気持ちにはならなかった。
パイプ椅子が敷き詰められた体育館に精一杯の拍手で迎えられても健吾は別のことを考えていた。
健吾と優希は今朝、詩織と話した。詩織は昨日優希が陰から録画していた映像が欲しいと言った。驚いたことに、詩織は卒業式の場で時生を告発するつもりだったのだ。健吾と優希は必死に止めたが、それでも詩織は後に引き下がらなかった。結局、詩織の固い決意に飲み込まれた健吾と優希は映像を詩織に渡してしまった。詩織の目は冷たく、しかし何かが奥で煮えたぎっているようだった。詩織は時生が言うところの「大人」になってしまったのだろうか。
健吾にはやはり何が正しいのか分からなかった。誰かを憎むエネルギーが人に行動を起こさせるのだろうか。汚れを知らないと大人になれないのだろうか。
健吾の二つ前の人が名前を呼ばれ、壇上へと向かった。健吾の高校生活の終わりが足音を立てて近づいてくる。鼓動が高鳴り、脚が震える。
違う。震えたのは脚ではなくポケットに入っている携帯のようだ。健吾は反射的に携帯の画面を確認する。健吾は画面の表示に思わず笑みをこぼした。
液晶画面は原田優希から一つの動画が送られてきたことを示していた。
健吾は後ろを振り返る。優希は五組なので体育館の後方に座っていた。そして、優希の斜め前に座っているのが四組の詩織で、その二人よりはるか前に二組の健吾は座っていた。このまま進んでいくと、健吾は詩織よりも先に壇上に上がって卒業証書を受け取ることになる。つまり、優希は健吾に動画を送ることで「お前なら詩織を止められる」と伝えようとしているのだ。
優希はいつも自分を買いかぶりすぎだと健吾は日頃思っていた。健吾をすごい人間だと勘違いしている節があった。以前受験勉強が全く進まなかったとき、健吾は優希に「自分は何にもできない」と弱音を吐いた。すると優希は「お前はいつも未来に対して楽観的なのがすごいんだよ。今だってこんなに勉強できてなくてもどうせなんとかなるって思ってるだろ?」と笑った。実際、受験はなんとかならなかったのだが、それでも健吾は浪人してもなんとかなると思っていたし、今の状況だってそうだ。なんとかなると思っている自分がいる。
「今井健吾」
「はい」
返事とともに立ち上がった健吾の覚悟はもう決まっていた。一度覚悟を決めてしまうと健吾の足取りは軽くなった。
壇上へと向かう途中、健吾はたくさんの人の視線を感じた。体育館の端にいる時生はいつも通り鼻を掻きながら冷めた目で健吾を見ている。後ろを振り向くことはできないが、きっと詩織は復讐に煮えたぎる可哀想な目をしているに違いない。健吾は詩織を憎しみから救ってやらなければいけないと思っていた。憎しみに溺れ、自身を壊していく前にその奈落から引き戻してやらなければならないと思っていた。
壇上までたどり着くと、校長が慣れた手つきで証書を差し出した。健吾は「ちょっと待ってください」と校長を制し、二人の間に置かれたマイクをつかんだ。
「いま、この場で皆さんに聞かせたいものがあります!」
体育館の中が色めき立った。なんだなんだと野次が聞こえる。
「ここに昨日、私が長瀬先生に会ったときの映像が収められています」
時生が動揺している様子が壇上からでも手に取るようにわかった。
「悪ふざけはやめなさい!ここはそういう場じゃないんだ!」
時生が声を荒げながら壇上に向かってくる。他の教師たちも自分を白い目で見ていた。またいつものように健吾の意見は否定され、なかったことにされるのだろうか。しかし、今日の健吾には時生と取っ組み合いになってでも動画を流す覚悟があった。
「長瀬先生、待ってください」
赤い眼鏡の馬場先生が健吾の元に向かう時生の前に止めに入った。
「先生、もう少し落ち着いて考えてください。あの場所は生徒たちにとって晴れの舞台なんです。一生に一度の舞台なんです。先生がその舞台にずかずかと入っていくというなら私は見逃せません」
「しかし、おふざけで進行の邪魔になっていますし・・・・・・」
「あの子もきっとおふざけなんかじゃありませんよ。あの子はそんな子じゃありません。あの子は一生に一度の舞台を利用してまで私たちに何かを伝えようとしている。生半可な覚悟じゃそんなことできません。その生徒の覚悟を教師が踏みにじってはいけないし、しっかりと受け止めてあげなきゃいけないんです。そうでしょう?」
時生は何も言葉を返すことができないでいる。馬場先生が自分を信じて与えてくれたこのチャンスを無駄にするわけにはいかない。
健吾は携帯のスピーカー部分をマイクに近づけると、動画の再生ボタンを押した。
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