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最高のバディは自分

 いろいろな人と話していて、私が心地よく感じる人は「最終的に笑い飛ばしている人」その人が笑い飛ばすまでにどのくらい悩んだのかに思いを馳せ、どんなアイデアでそれを笑い飛ばすに至ったのかに興味を持つ。

 若い頃、通う学校もクラスの人も、通学路も学校行事も、違和感があっても辛くても居心地の悪さを感じていても、自分には変えられないと諦めていた。ただ友達と肩を寄せ合って愚痴を言うのがやっと。先生を馬鹿にして友達と笑い合って、なんとか違和感や不満を消化しようとしていた。でも、そんな自分自身に違和感だらけだったし、そんな自分が嫌いだった。

 大人になって社会に出ると、八つ当たりをする人、愚痴だらけの人、心を失いそうな人…いろいろな大人たちがいた。その中でキラリと光っていたのは、とんでもない経験をしているにも関わらず、誰か他の人の思い出話の様に笑い飛ばす人。しかもその人がそんな思いをしているなんて普段は誰も気付かない。強烈にカッコ良かった。
 私もそんな大人になりたいと思った。「愚痴を言うのは大事」とか「吐き出さなくちゃ」って言われるし、それが合う人もいるんだろう。でも私はそれを言われる度に言いたくない愚痴を言ってみたりして自己嫌悪に陥る。私はどうやらそれが当てはまるタイプではなさそうだ。
 私の場合、愚痴を言うとその分自己嫌悪という別の形で自分の中に更に負が増えていくし、吐き出すことは自分自身を傷つける。人と向き合い饒舌になってしまった結果悪口が加速して、そこまで言うつもりじゃなかったのにな、と苦い気持ちになる経験ばかり。そんな自分は嫌いだ。

 大学卒業と共に少し長い間一人旅をした。そこで私は自分と話し合う、という術を身につけた。というよりも、それしか方法がなかった。一人旅だから、次の行き先を決めるのも、どこでどう過ごすかも、急なトラブル対処も自分しか相談相手がいなかったから。
 私にとってこれはとても良い方法だった。ここではいくら悪口を言っても愚痴を言っても、誰かに毒を撒き散らすこともない。自分のことを一番よく知る自分自身だから「そうよねそうよね」と受け止めてくれる。しばらく話した後自己嫌悪に陥っても「わかってる。本当はその人のことが大事なんだよね」とわかってくれる。ただの愚痴で終わらないのだ。

 結果、自分にとって敵の様だった相手のことも、よく考えたら自分と相手を敢えて交わらせなくてもいいじゃん、とか。この人とはきっと合わないから、静かに距離を置いたらいいよ、とか私にとって良い方法がわかって心に平安が訪れる。
 少し違う角度から眺めたり、自分をクールダウンさせることで、その時の自分には見えなかった相手の思考に手が届く。相手にもきっと思うところがあったんだよな、とか。

 そしてその違和感なり不満をしっかり自分で消化した後、経験として人に話すことが多い。相手が愚痴を言っていても、私は「わかる〜」と経験として話すから、それを話す時の私の心は落ち着いている。
 これが私も渦中にいて苦しくて愚痴を言い出したら、きっと相手のことよりも自分のことを一生懸命語って後から恐ろしく悔やみそうだから、今のスタイルが自分にとっては一番心地よい。

 物事に必死で向き合っても報われない絶望的な気持ちだった若い頃の自分を思い出すと、やっぱりああやって過ごすしかなかったな、と思う。
 大人になって自由になっていろんな方法を試し、いろんな角度から違和感に向き合えることは、本当に喜ばしい。人のせいにして向き合わないよりも、自分とゆっくり話し合ってしっかり向き合って消化することで、自分の中からしっかりマイナスの気持ちを消すことが出来る。

 向き合わない時は常に負のスパイラルの中にいた気がするけれど、しっかり向き合ってある程度消化出来る今は、ずっと良いスパイラルの中。
今はとっても空気が美味しい。

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なみお
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