英語と日本語は違うのだ
英語の先生をしながら、日頃思うことをtwitterに綴っていると、他の方が素敵な気付きをくださる。そうして語らっている間に自分の中にあったモヤモヤがスーッと形になっていくことがある。
今回はそんな中で気づいたお話。
2011年に英語教育が日本の学校教育で始まるという時に反対の方の意見として「まずは日本語」という声がとても大きかったのを覚えている。
いろいろ言われていたけれど、私はなんとなくボンヤリしていて掴めなかった。英語、便利やん。他言語学ぶの、楽しいやん。と。
でも、それが今になってちょっとだけ理解できた気がする。
「まず日本語やろ」というのは、まずは日本語で自分の言いたいことをしっかり言える様になろうね、という意味だったんだ。遅ればせながら気付いた。
いやしかし、私はそれは無理だと思う。
日本語という言葉は抜きにしても、この文化、社会の中で「自分の意見を言うこと」はかなりハードルが高い。そして「自分の意見を持つ」様な環境がないことも付け加えておきたい。
そもそも私たちは単一民族のこの文化に慣れすぎている。
「普通こうするやろ」という言葉が普通に飛び交い、それでお互い「はいはい」とわかるのは、私たちの中に共通認識がたくさんあるからだ。
オノマトペだって、なぜそんなに息がぴったりなのか、と驚くほどに私たちの中のイメージは一致する。
そんな大きな流れの中にいる様な私たちが、相手が全く自分と同じ価値観や感覚を持ち合わせていない想定で自分独自の意見を発する、なんて訓練が必要に決まっているのだ。
英語を学んだからと言って、突然感覚まで変えることは不可能なのだ。
ということで、「使える英語力を」の後ろには「使いたくなる動機」が必要で、その動機は「強烈に伝えたい」何かか、または「相手が聞いてくれる」安心感のどちらかになるだろう。自分が癒されたいから話す、ということも考えられる。
そこでもう一つの課題。今の私たちの社会に「安心感」があるのだろうか、と考える。
「私が今この苦しい胸の内を話しても、絶対聞いてくれる人がいる」という安心感がないばかりに起きる悲しい事件が、たくさん報じられている。事件とまではいかなくても、そういう現実がすぐそばにあることは皆知っていることだろう。
子どもたちは、良くも悪くも学ぶのが早い。
「どうせ誰も聞いてくれんもん」
という子は、もう自分から何かを発することを諦める。生きるために。
周りに期待しすぎて心がクタクタにならないように、諦めてしまうのだ。
幸い私自身が英語を使い始めたのは海外で、ニュージーランドだった。私が何か話すと足を止めて手を止めて、じっくり聞いてくれる人が多かった。近所、店員と客、隣り合った席の人でも、私に寄り添ってくれる心や時間の余裕を感じられて癒されたものだ。
だから、私は今でも英語で話す時は正直だ。日本語で話す時は、周りの人に合わせるようになっている。そういう心の仕組みになってしまっている。
他言語を学ぶ楽しさは、自分も知らないもう一人の自分との出会い。
日本語マインドと同じじゃないところに、面白さがある。
そこを踏まえて、英語教育の最初の一歩は、自分の言いたいことを言える環境を作ること。それをじっくり聞いてくれる人がいる、そんな安心出来る場所を作ることだと思うのだ。みんなが押し付けあって、ストレスフルに英語教育を取り入れようとするならば、それは百害あって一利なし。しない方がいいと思う。