先生は「新たなことば」習得中
自分実験開始
私は実験が好きです。と言っても理科的なものではなくて、例えば皇室を見ていると使う言葉が違う。同じ日本語なのに、と思った私。我が子が産まれたら早速実験。自分の中の悪い言葉を封印して、出来るだけ丁寧な言葉で接する様にした。また、急いで欲しい時に「急げ」というと私はパニックになるから、我が子にも敢えて「ゆっくりいいよ」と言うことにした。
そんな小さな「ことば」の実験。
結果はというと、20年経過した今。ほぼ成人した我が子3人の言葉は綺麗だ。また、「ゆっくりいいよ」に関しては答えはすぐに出た。「ゆっくり」で良いと言うのに、出来る様になったら自ずと必要なスピードになってたし。今では子どもたちはその場その場で必要に応じてちゃんとスピードを調整する大人になっている。そしてもっと大事なことは、今でも時間がかかることは、時間がかかっても急かさないし文句を言わない友達や環境の中でうまくやっている。元々別に急ぐ必要もなかったということ。
話は逸れたけど、やっぱり日々の積み重ねってその人を作ると思うし、学びは焦らせたり力を加えたら身に付く、って訳でもないということ。学びが身につかないのはその人のせいじゃなくて、その人その人にあった方法を工夫するのが大事。
というわけで、アラフィフになった私。ついに自分を使った実験を開始。AIが進んだ今、今まで自分がしてきた学びとAIの学びを比較してみることにした。アプリによる語学学習、開始。
英語をもっと身近に感じたい、という目的と0からの言語をAIのみを使って学んだらどこまで出来るのか、を知るための実験。
使ったアプリは、大人のクラスで指導している生徒さんから教えてもらった、Duolingo。
Yo estudio español.
私が選んだのは、スペイン語。フランス語は大学の時に選んでしまったので、全く覚えてはいないけれどゼロではなかったということで、本気でゼロなスペイン語にした。ここで興味深いのは、私にスペイン語を学ぶ必要が全くないというところ。英語はテストのために勉強しなければいけなかった。フランス語は大学の単位取得のために誤魔化しながらなんとかやった。そして韓国語は従来の方法でテキストなどを見て独学したけど、読める様になったものの使えるレベルには未だ至っていない。
さて、全く新しいAIという伴走者を得て、私のスペイン語はどうなったでしょう。
私は「人が作ったものに自分が動かされたくない」という謎に動物的な本能みたいなものがあって、敢えてみんながハマるゲームみたいなのからは距離を置いて過ごしていた。家族もみんな同じだったので、ゲームに多くの人が熱狂することを「一つの経済活動」だとなんとなくボンヤリ眺めつつ、その「人を熱狂させる仕組み作り」に感心していた。
今回のAIでの学びは、私がその「人を熱狂させる仕組み」に敢えて飛び込んだ形だった。人体実験。そしてやっぱり感心した。私を離れさせない仕組みは以下の通り。
①「あなたはこのリーグの中の〜番目ですよ」というのが毎回表示されるため、別に人と戦うつもりはなくても「より上位に行きたい」という気持ちにさせられてしまう。そしてすればする程上位に行くので、程良い達成感もある。
②「〜日間連続」みたいな記録を毎回勝手に作られて派手に祝われるため、この記録を途切れさせてはいけない、という気持ちになる。その結果の50日連続学習だ。
③毎日その言葉に触れるだけでなく、段階を追ってある程度の自由さでどこをどのくらい学ぶかを自分で選べる。学び方が何通りもある感じがする。自発的に動く仕組みもあるので、「今日はどうしようかな」と自分のその日のコンディションで関わり方を変えられる。
④気がつくとその言語の文法や言葉に慣れている、という仕組みは感動もの。驚いたのは、男性名詞女性名詞なるもの。学生時代に学んだフランス語では、とにかく暗記と教えられて辛い思い出しかない上に全く身につかなかったのだが、今回は自分が間違いながら自分でその間違いを正していく過程の中で身につけた。なぜ自分が「これにはこれ」「これは女性名詞だから冠詞は〜」と勝手に出来るのか、自分でもわからない内に身についている。
これは、幼い頃に体験で得た日本語と、海外生活の中で得た英語の習得の仕方に限りなく近い。言葉って、知らない間に身についている面白さがあったよな...と久しぶりに実感。
ということで、私にとってこのAIの伴走者はピシャリの良い相棒だった。そしてもう一つ良かったことは、日本語ではなく「英語で」学んだことだった。
直訳ではなくイメージで話す
大人の方に英語を教えていると、必ず日本語を通ってから英語に直訳する方法を取られる方がかなり多く、そうなると教えている私自身も混乱してくる。なぜなら英語にしかない表現やニュアンスがあり、日本語という全く違う言葉からそれに到達するのがかなり無理があるからだ。
私は言葉は何にせよ「イメージ」につながっているべきだと思う。言語それぞれに特徴やある言葉、ない言葉があるからそのイメージをその言語で伝えるのが一番の近道。そこに全く違う言語の日本語が入るから、ややこしくなる。そして厄介なのは、その習慣を抜くのにとても苦労するということ。
例えば「思い出し笑い」って言葉は英語にはない。海外の友達と話している時に「思い出し笑い」というワードを日本語から必死で思い出そうとしても見つからず、そのまま「あのさ、何かを思い出して笑うって何て言うの?(英語)」と聞いたら「そう言うよ(英語)」と返された。
そこでハッとした。英語にはない日本語もあるぞ。いくら探してもそれは出て来んぞ、と。
で、今スペイン語を英語を通して学んでいることの良さというのは、日本語という自分にとって強烈な第一言語を敢えて外すことでイメージと直結しやすくなったということ。なぜか「リンゴはappleですよ〜」と教えられるとリンゴという言葉とappleというワードが並んで頭に出てくる。
でも、apple=manzanaとなると言葉よりも画がよりクリアに見えてくる。あの赤くて丸い果実がappleでありmanzanaである、という感じ。
それだけ第一言語は良くも悪くも自分に深く刻まれていて、無意識で目をつぶっても使える道具みたいな立ち位置なのだろう。
英語学習の際に使う日本語の程度は学習者の性格やモチベーションに深く関わるので、一概に言えない。ある人は全く日本語を介さずに英語を学ぶのが一番近道で、逆に日本語がないと不安で理解が難しい人も学習が進まない人もいる。それぞれに一番合う方法がある。それを見つけるのが一番だが、ここで「日本語=英語」を行ったり来たりすることの危険性や効率の悪さも体験してみたので、今後の指導に活かしたい。
学習目標って必要?
よく学校で「今日は〜を知ろう」って目標を立てるし、当たり前に私たちは目標を立てることが一番だと教わってきた。でも今回全くのノープランで始めたこの実験で、私は「学ぶこと」が自分のメンタルに及ぼす効果を感じた。最初は何かのきっかけで興味本位で「やってみようかな」と始めたことだったが、わかる様になるとワクワクしてきて自分がすごい力を持った様な気がして、嬉しくなる。もっと知ったらもっと楽しいかな、とまた進める。
私には目標は要らなかった、と今気付いた。
「単位を取ろう」とか「これを知ろう」って先にゴールが見えてることは私のワクワクを削ぎ、逆に「できなかったらどうするの?」と不安を煽る。気ままに楽しく、という自由な学びはそこにない。
目標を達成したかの様に毎回着地はするけど、私自身のゴールは「楽しさ」だけ。そのゴールはいつまでも達成されないままだった。
今学びの楽しさを味わっている。これをもっと多くの若い人たちが得られたら良いだろうな、と思う。点数や目標に追い立てられずに自由に学び、「自分ってすごい!」って思えたら、本当はそれが一番なんだろうな。
それが今の時点でのこの実験で見えた事。
また100日過ぎた辺りでレポートするかな。続いてるかな。
目標は敢えて作らないでおこう。