赤ちゃんみたいな夫の姿
映画「正欲」を観た。本を読んでピンと来なかった分(ぼんやりとしか描けていなかった部分)が映像でクリアになって、私としては本と映画セットで良かった。そしてこの本の場合は映像の方がスーッと自分の中に落ちてきたものがある気がする。役者さんの表情から取れる感情が凄まじくて、やはり役者さんって世界を表現するプロなんだな、と今更ながらに改めて思った。私が描けなかった部分や想像はしていたけれど、気持ちを読み取るまでは至らなかった部分は、役者さんの表情でズバババんと私の胸に突き刺さった。
ところで、我が家ではその時したい人や出来る人が食事を作って他のメンバーの分を残しておき、「〜があるよ」っと伝えておいて後はそれぞれ温めて食べる、という方式にした。だから、夫はキッチンにある食事を自分で温めて食べる。もちろん食器も自分で洗う。食事を作る人が変わる時もある。私が仕事で夫が休みの時は夫が作ったり、子どもたちが作ったりもする。一緒に食べられる時は一緒に食べる。とにかく「誰がこれをする」と当番のように決めないことにしたのだ。
それを決めた時、私には大きな決心があった。子どもたちに「女性が男性の面倒を見る」という姿を残したくなかった。私も結婚当初は「尽くす妻が美しい」という自分が見てきた昭和の夫婦像を信じていた節があった。夫もきっとそうだ。
だからある時に「強い意志を持って」それを変える必要があった。そして、今はそれがうまく機能している。最初は夫が食事を温めている時に私はリビングで本を読みながら、どことなく後ろめたい気持ちを必死で押さえていた。お皿が洗ってあるとついつい「ありがとう!」と言ってしまう自分に問いかけていた。「自分の世話を自分でする」のは当然のことなんだ、とまずは強く自分に言い続けなければならなかった。それくらい「当たり前」は私たちの心も体も乗っ取ってしまうのだ。
今ではそれが当たり前の家族の姿。そこで、前述の映画を見た時に強烈に違和感を覚えるシーンがあった。仕事を終えて帰ってきた夫がテーブルにつき、当たり前のようにパートナーに食事を求めるシーンだ。もう違和感を覚えるというよりは、なんともみっともない姿に見えてきて笑えるのだけれど、きっと以前の私の目から見たらこれが当たり前のことだっただろう。
幼い頃、明らかに炊飯器の隣にいる父が母に茶碗を差し出し、母がわざわざ父の隣の炊飯器まで立ってご飯をよそう姿に何度も違和感を覚え「健康なんだから、自分のご飯くらい自分でつげば?!」と父に詰め寄ったことがあるけれど、今思えば結局その関係性を作っているのは父と母の両方で、それを見て育った私は同じことを夫と繰り返そうとしていたのだ。
映画の中のこのシーンは何度も登場し描き出すものはあまりに多いので、ネタバレにならない様にこのシーンへの私の感想のみで留めておくが、私はこのシーンで赤ちゃんの様に食事を待つこの夫の姿が滑稽でならなかった。
そして、そんな自分が嬉しかった。