学び場の広がり
我が子の入学式。県下の他の高校よりも少し遅い時期の入学式で、八重桜が可愛らしく咲き誇って私たちを迎えてくれた。
入学式には制服、スーツ、カジュアルな服装の子もいる。私が見たことのない髪型や髪の色の子どもたちを社会科見学の様に感心しながら見ていると、その向こうに嬉しそうな家族。どの子も愛されている。どの子も愛されるべき。
定時制高校。何年かけて卒業するか、何を学び何に向かうのか、それを全て自分で決める。入学式前に数回学校に出向き自分の時間割を決めていたけれど、もうそこから中学校とは違う。自分の目標を出来るだけはっきりと描き出さなければ時間割を組むところから時間がかかってしまう。長い子は数日かかる。でも自分のことだから、なんとかして組み立てないと学校生活を始められない。
ここのルールは「社会のルール」。校則はない。でも、入学前から自分自身で道を切り拓くことの大変さを痛感させられる。
入学式の新入生挨拶は、今まで何度となく聞いていた通りの始まり方だった。「桜の花が...」
しかし、途中で出た言葉に思わず涙がこぼれそうになった。
『...嫌いだった自分のことを好きになる3年間にしたい』
15年間の中で、この子はどんな辛い想いをしてきたのだろう。そしてここに集う子どもたちの多くがこの経験をしていることに、胸を傷めた。
集団に馴染めず、淋しい思いをした。先生が言うことにどうしても違和感があって、悶々と時を過ごしていた。友達と仲良くするのが一番だとわかっている。方法はわかっているけど、出来ない自分を責め続けた。
集団が、学校が、悪いわけではない。ただそれが「全て」ではないということだ。私自身集団や違和感が苦手な子どもだった。だから、モヤモヤは今でも心の中に棲み続け、こうして子ども目線のまま大人を過ごし発信することで今を生きている。
先生のこんな挨拶にも心が踊った。
「誰とでも仲良く、なんて求めてません。ただ、必要な時にお隣の人と話して一緒に作業出来るくらいのコミュニケーションができれば、と思っています」
この「誰とでも仲良く」に苦しめられた人は、私だけではないはずだ。私は心底「こんな環境で学んでみたかった」「大人にこんな風に声をかけて欲しかった」と思った。
そんなに頑張らなくてもいいんだよ。君が出来ることをやればいい。
そう声をかけてくれる大人に出会うか出会わないかで、人生は大きく変わる。
本当に子どもの学力やスキルだけではなく心も大切に育む意志があるのなら、大人は本気を出して学校以外の選択肢を作るべきだ。そして学校と同じように選べるようにすべきだ。もし学校にこだわりたいのであれば、学校をもっと多様化させるべきだ。
今、こうした学校の人気がどんどん出ている。親世代が子ども世代に教えられる。「人は一つのタイプだけではないよ。いろんな人がいるから社会が成り立つんだよ」と。一つの型にグイグイと人を入れてその形を変えてしまう教育の間違いも良いところも、それを受けてきた私たちは知っている。
我が子たちのためにただ継承するのではなく、自分たちの経験を乗せて良い形にして繋いでいきたいものだ。