言わんでもいいこと
私が嫌なことは、自分の行動に対して人からあれこれ言われること。高校のテスト勉強で覚えたこの言葉を叫びたくなる場面、たくさんあったな。
Mind your own business.
これって直訳したら「自分のことを気にしろ」ってことでしょう。意訳して「大きなお世話だ」ってあるけど、そのニュアンスはだいぶ違う気がする。だって「自分はどうなの?そんなに完璧なの?」と聞きたくなるもの。「あなたに言われたくない」でも「大きなお世話」でもなく、「君はどうなんだい」と問いたい。
そして20年経って人生半ばきて更に、あの頃思っていたことはやっぱり正しかったと思う。
でも現実で私はそう叫ぶこともなく学校生活を経てバイト、就職、親になり教育を生業とする人になった。いろいろな職場で人を見てきて思うのは、どっしりとした人は言葉がけのタイミングが上手い人。「人に届ける」ことを目的としているから。何を届けたいのか明確にして、それをその人に伝わる様に届ける。でもそれが出来る人はこの約50年の人生の中で自分の親とあとは数える程度しかいない。このスキル、本当に必要なのに、それを得ている人はかなり少ないことがわかった。
「届ける」ことではなく「口に出すこと」が目的になってしまっている人が多いということ。冷静に考えてみて「口に出すこと」を目的にしてしまった場合何が起こるか考えてみたい。
例えば目の前にいる人、大抵は自分がこの人になら言ってもいいと勝手に判断している相手であることが多いが、自分の子ども、生徒、パートナー、部下、それに向かってポンと言い放つ言葉を思い出してもらいたい。
相手が一瞬苦笑いする、え?と言う顔をする、スーッとその場から消える、そんな時あなたが投げた言葉を思い出して欲しい。その言葉とそれを発する時の表情、声の強さ。
思い返してみると、しょうもないことが多い。例えばゴミ箱にゴミを投げて外したことは目の前で見ていてお互い知っているのに「投げるからこうなる」とか「だっていつもそうじゃん、大体雑なのよ」とか、それが部屋の掃除の話にまで発展して...ゴミがゴミ箱に入らなかったことは、本人もわかっている。その情報をわざわざ伝えられる上に見当違いの苦情まで寄せられたら、正直しんどい。
例えば食べている時にこぼしたら、「ほらほら、箸の使い方が...」とか「その服お気に入りじゃないの」とかこれまた本人が受けたダメージを更に言語化して相手にぶつけることはそもそも必要なのか。
思い返してみると、自分でも「あれ言わんでも良かったな」と思うことばかり。そこでよく頭に浮かぶのは「親しき仲にも礼儀あり」子どもとか生徒とか部下とか年下で自分がマウント取れるとあからさまにわかっている人に対しても、私は敬意が必要だと思っている。
手段の目的化
教育の世界にどっぷり入って思うことは、ここでは「手段の目的化」が顕著だということ。例えば「漢字を10回書いて覚えよう」の目的は本来漢字を覚える(これも曖昧だが)ことで、その数ある手段の中の一つが「何度も書く」こと。でもいつの間にか「漢字を10回書く」ことが目的みたいになってくると「なぜ書いてこないんだ!」「あと1回足りないじゃないか!」みたいなことになる。これは、教育の世界では本当によくあること。実際私自身は目で見て覚えるタイプだから、この方法は当てはまらなかった。にも関わらず先生の目的は「漢字で1ページ埋めさせること」だったから、仕方なく鉛筆を数本持って同時に漢字を書いてなんとか「目標」ページを埋める。本当に苦行でしかなかった。
そしてこれは、日常生活の中にもあちこちに潜んでいる。
例えば前述の「人にあれこれ言う」の目的はなんなのだろう。そもそも本当に「伝えたい」と思っているんだろうか。
自分の口から出た言葉を振り返った時「自分だったらそんな表情でそんな語気で言われたら、納得して聞いちゃうわ」と確信を持てる伝え方や内容を見つける人がどれだけいるか。そう角度を変えてみると理解していただけると思うけど、結構言わんでもいいことを言っちゃうことってある。
大抵は後から「なんであんな風に言っちゃったんだろう」という自己嫌悪か、「そんな意味で言ったんじゃないのに」という責任転嫁で終わる。
本当の理由
もうお気付きだろうが「伝えたい」その言葉、それを発する背景にある自己嫌悪も責任転嫁は、それを向けた相手の問題ではなく、その言葉を発した人自身の問題なのだ。相手がいる会話の様に見えて、実はこれは自分の中にある問題をボールに込めて、それを当てやすい相手に向かって投げつけているのと同じこと。そう、この本当の目的は「自分を守ること」なのだ。また、わざわざその人の弱い部分を突いたり、出来なかった部分だけを取り出して伝えるという明らかな「相手よりも自分を優位に立たせること」という目的も見え隠れする。
では、なぜその「自分を守ること」「相手よりも自分を優位に立たせること」が必要なのか。そこに注目して自分と向き合うと、人から認められたいのに認められていない自分、人並みにうまくやれていない気がする自分、そんな自分の姿が浮かんでくる。
大人だからと言って、親だから先生だからと言って、どっしりと常に自信を持っていられる訳ではない。いつも自分が正しいのか、間違ってはいないか、心配して生きている。とりわけ子育てや教育の中では常に自分の子どもや生徒、自分自身がジャッジされている様な恐怖と隣り合わせでいる。そんな大人は多いものだ。
相手の気持ちよりも自分の都合を優先させて言葉を発しているのでは、と意識した時大人の中ではガラガラと自分の足元が崩れる様な衝撃が走る。
子どものために良かれと思って言っていたのに。だってこれがしつけでしょう。親って先生ってこういうもんでしょう。
それが自分が本当になりたい姿じゃなくて、誰かの目を通した思い込みだったことに気付く時、そんな自分から目を背けたくなる。目の前の無垢な存在にありったけの言葉で言い訳をしたくなる。謝罪ではなく、言い訳。自分をそこまで振り返って壊すことが出来る人は多くはない。
でもいいんです。ただそこからまた始めたらいい。
相手に伝えたいことを伝える時、どんな風に伝えたら良いかの方に目を向けると、自然と相手に向かう目は優しくなる。そして不思議と今まで言った100の言葉よりも1つの言葉で相手が動く。そういうもんです。
もし「言わんでいい言葉」の応酬でその渦に溺れて人との関係に疲れてしまった人、大好きな人に素直になれない人は一度試してみて欲しい。
「わかるよ、ついつい言っちゃうもんな。でもさ、それで伝わったかな。どんな顔してたかな。」とちょっとピリッと胸が痛む言葉を自分に向けてみることを。
その先どれだけ明るくなるか、体験したらきっとやめられなくなるから。自分の姿が、自分のなりたい姿にどんどん近づいていくのが楽しみになるから。