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幸せになる方法(ワタシの場合)
最近、高校生の甥っ子に「毎日楽しそう」って言われた。自覚してなかったけど、彼曰く"数年前より楽しそうだし若返った感じ"らしい。以前の私なら「わっ、私数年前そんなに疲れてたのかしら」なんて思っていたかも知れないし、彼もそれを気にして「すごく失礼かも知れんけど」と何度も前置きしてくれた。でも、私は単純に嬉しかった。実感があるから。
私が今とても幸せなのには理由がある。自分でもわかってる。
① 自分を向いてるから
② 学び始めたから
③ とにかく削ぎ落としたから
自分を向いているから
私は繊細な性格故、まず「人のことを考える」ことが生まれた時から標準装備されている。身近にいる人が機嫌が悪かったら全然接点がなくても「自分が何かしてしまったかな」と思ってしまうし、2人でいると相手が楽しいかどうかばかりを気にしてしまう。3人以上だとそれが単純に倍増していくので、大人数での会合は一人一人のホストになった様でかなり疲れる。
自分のことは完全に後回し。だから、一人になる時間が必要で。それに気付かなかった若い頃はとにかく人が集まる場所に出て行っては疲れて帰って家族に当たっていた。自分が自分のことを嫌いだった時の自分。
結婚してずっと一緒にいる人ができて、子どもが生まれて。その中で更に自分はどんどん後回しになっていく。でも可愛い人たちと一緒の暮らしで自分の心は満たされていたから、気にならなかった。そして子どもたちを育てる中で私は自分が子どものころからずっと感じている社会への違和感を、また別の角度で強烈に感じ始めていた。
例えば場の空気。このママ友グループにいる時は、この価値観が主流。PTA役員の中ではこれ。先生の前ではこれ。大人になるにつれ自分の人間関係を縮小していた私にとって、人生で再び訪れた人間関係地獄。辟易した。
そして私はそこから離脱した。
「母さんってなんでママ友いないの?」って子どもに聞かれた時は自分はダメなモデルになっていると申し訳なく思ったけれど、これ以上自分自身の人間関係に疲れてしまうと、家族に影響しそうだと思った。私の考え方は独特で一般的に広く理解されるものとは違ったから、それも苦しかった。
そこで、少しずつ自分を向くことにした。仕事も始めていろいろな風に当たる中、砂が風で飛ばされていく様に砂に埋もれた自分自身が少しずつ顔を出した。私はこれが好きで、こういうのは苦手。この人とはもっと話していたい。あの人とはもう関わらないでおきたい。そんな自分の気持ちに正直にいようと思った。そこから少しずつ自分がしたいこと、自分の好きな香り、味、色、音楽…いろいろなものが目の前に飛び出してきた。
自分を向き始めたことは、私にとって心の平安を取り戻すことだった。
学び始めたから
今やかなり若い年齢の子どもたちからも聞こえてくる「自分がなにをしたいのか、わからない」それは、もしかすると自分が自分の人生の主人公ではないからかも知れない。誰かに言われる通りにしていたり、人の出す課題で毎日を過ごすのが精一杯。噂話や自分の所属する団体の価値観、ネットの情報に振り回されて、その中でのちょっとした違和感は邪魔。それを消していったら自分自身も消えてしまった、そういう人も多いのではないか。
私が自分を向き始めたら、学生時代大好きだった読書がまた始めたくなった。本をじっくり読む生活から随分と離れてしまっていたけれど、そちらを向くと習慣はすぐに戻ってきた。本を読み始めたら思考は深まるし、素敵な言葉に出会ったらワクワクするほど胸が躍る。「もっと知りたい」という気持ちが膨らんだ。そして本の中で私はいろいろな場所を旅することが出来た。読書で経験値が上がると聞いたことがあるけれど、確かに本は自分が実際出来るはずの経験を更に超えた経験をさせてくれる。仕事と家庭の行き来でバランスを取っていた私の気持ちは、本というサードプレイスを得て、更に平穏に保たれた。
本の中ではいろいろな人がそれぞれの知識で考え、工夫をしたり発見をしたりして成長していく。私の中に自然と学びへの興味が湧いた。自分にはもっと出来ることがあるのではないか、という希望は行動を伴うと確信に変わっていく。
子どもの頃大嫌いになった勉強を、30年の時を経て再び自発的に始めることに。私は自分の興味にただ忠実に動き出した。英語の先生をしながらも自分自身のスキルアップを目指すことを置き去りにしてきたので、英語の学び直しから始めた。始めると言葉自体が面白くなって、新しい語学や日本語教育も学び始めた。ずっと気になっていたけれどいつかもっと経験を積んでから学ぼう、と思っていた心理学を学んで民間のカウンセラー資格を取った。
全て自分が好きなこと、興味のあること「だけ」。人から嫌なことを強制されたり、無理矢理課題を出されたりではなく、自分の好きなものを好きなペースで学べる楽しさは想像以上だった。日本語教育に関しては、1年のコースを2年かけて学んだ。外からの圧力がない分、自分でペースを決められたことは今思うと当然の権利だが、子どもの頃には許されなかった学び方だった。学べば学ぶほど、自分の知識が増えて自分の経験が腑に落ちることも多々あった。「なるほど」と思えるのは、50歳を目前とした今の経験があるからかも知れないな、と思うと今学びと再会出来て良かった、とも思う。
とにかく削ぎ落としたから
以前、先輩のお友達が「手放すことがキーワード」と言っていたことを思い出た。当時はピンと来なかったけれど、今頃納得している。私たちは生きる中でいろいろなものを抱え込んだり隠したりしてしまっている。苦しみを通り越して、それが日常化して自分に見向きもせずただ絶望した時に、ふと振り返ると自分が自分からかなり遠く離れていることに気付く。
そこで、ゆっくり自分を振り返る時間を持つ。私の場合は、それが「更年期」そして「子育てラストイヤー」だった。突然何もしたくなくなったり、激しい頭痛が出たりして、誤魔化せない程になった時にふと「あ、お年頃かな」と思った。一番下の子が18歳になる年ということもあり、今年はスローダウンする年にしようと決めて、人に仕事を引き継いだりクラスを合併したりして、仕事を減らした。自分がついていけないペースで仕事を続けると、自分だけではなくそこにいる方々にも迷惑をかける。そんな気持ちもあった。自分ではコントロール出来ない不調が待っているかも知れない。それに我が子との最後の年は大切に噛み締めて過ごしたい。
子ども3人が幼い頃、私は17歳からずっと続けているバイトを含めた仕事を数年間止めた。完全に収入が無い状態で私がしたのは、ベランダで野菜を育てることや苦手な裁縫で子どもたちの服を作ること。とにかく自分に出来そうなことは片っ端からやってみた。買わずに済むものもたくさんあった。その経験があるから、この1年仕事を減らすことへの不安はなかった。あの時みたいに節約を楽しもう。そうしよう。野菜の苗をたくさん買ってきた。
私が性格的に持っている「人優先」は仕事では大事なことだから、仕事ではそれを全開にして頑張る。でも「自分優先」のプライベートでは、それを完全に手放す。「この人と仲良くしておかなくちゃ」という謎の人間関係は迷いなく手放す。人から褒められて嬉しくて、ついつい抱え込むプライドや優越感も手放す。「こうしておかないと」とか「こう見せないと」も捨てる。年齢を積んで一緒に積み上がったそれらを、私は一切合切断捨離して軽やかになった。自分にスポットを当てたから、自分が何を必要として、何に苦しんでいるのかがちゃんと理解出来たから、取捨選択は意外と簡単だった。
Make it simple.
今、苦しそうな子どもたちを見ていて共通するのは、一番身近な自分のことを知らないこと。本当は嫌で苦しくてたまらなくても、従うしかない日常の型に自分をはめてしまって心が動かなくなっていること。笑いたくないのに皆がする様に笑い、心を傷めて自己嫌悪に陥る。そうやって一日一日を繰り返す。人が正しいと言うことをコピーしてペーストする。その繰り返しの中で自分が消えていく。
私に出来ることは何か。今の私は知っている。
「どんなあなたでも好き。あなたのことをもっと知りたい」
そのメッセージを送り続けること。
「自分なんて全然面白くない人間です」
って勝手に決めている人の面白い部分をその人の中から丁寧に取り出して、一緒に眺めること。誰かの目的のために自分がコマになる様な価値観から抜け出して、自分の人生を大切にする価値観に立ち戻ること。
本当はね。
人生は、修行でもなんでもなくて自分を楽しませる限られた時。
そうであって欲しい。
一緒に幸せになりましょう。ね。
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