正義とは

長い長い独り言です。

昨今のジャニーズの件においてネットやテレビのコメンテーター然とした人達もさることながら自分の近くにいる人達だけでも意見が色々あると実感した。アンチなどそもそも嫌いという感情がある人達を除けば、それぞれの意見の根底にはそれぞれの「正義」というものがあると感じている。私は自分の人生においてこの正義というものがこれほどまでに危ういものだと思った出来事は今回が初めてだったように思う。

かつて看護師として勤めていた大学病院では看護の倫理原則のオンラインテストが一年に一回各自に配信され、必ず合格しなくてはいけないものとなっていた。毎年刷り込まれる事で倫理感を養う目的があったのだろうが、先述したように正義というのは危ういもので毎年同じ問題が出題されても絶対一回では合格できないほど人の倫理観は変化しやすいものなのだ。

正義を倫理観と括ったが、この看護の倫理原則の中に「正義」というものが存在する。医療倫理の4原則を元に看護の倫理5原則「自立尊重」「無危害」「善行」「公正と正義」「誠実と忠誠」(誠実と忠誠を分けた6原則の諸説あり)が挙げられ、ここでは正義とは患者に対して公正であるべきとされている。

倫理のオンラインテストを最後に受講してから数年経ってはいるが、今でも思い出す問題がある。
「喉が渇いたという患者がいる。しかしこの患者は心臓疾患で1日の水分量指示があり、既にその水分量に達している。その患者に水分を与えることは看護の倫理原則において逸脱する項目はなにか」
確かこれは「無危害」が正解だったと記憶しており、改めて思い出しても無危害原理を逸脱すると考える。水を飲みたいという患者に対し水を与えることは善行であり、他の患者であっても同様の行動を取るのであれば公正であり正義である。しかし、看護師はこの患者が心臓病であることは知っており1日の水分量に達していることを知りながら善行や正義のための行動をとることはこの患者の状態を悪化させることが予想されるため、これは無危害原則を逸脱するものである。この場合は水を与えるのではなく、水分量が制限されている旨を患者に説明し、代わりに唇を濡らすなどの行動が倫理的に望ましく教科書的だと個人的には考える。

しかし、これが例えば日中の面会時間内で同室患者の面会者が見ていたらどうだろう。
「水が欲しいと言っているのだからあげればいいのに。」こう思うのではないだろうか。
医療者には守秘義務があるので、患者の情報を他人に説明する訳にはいかない。しかし心臓疾患では水分制限は厳密なので看護師の行動は間違いなく倫理的なのだ。しかし見た情報のみの人にはそうは映らない。水をあげればいいのにと思っているだけならまだしも、「あの看護師は水が欲しいと言っている人に水をあげなかった」と騒ぎ出す人がいるのが世の中だ。一病棟での出来事であれば師長が話を聞くだろうが、休憩室では話の通じない患者家族と認定され「自分の家族だけみててよ」と陰口を言われるだろう。ここから派生して「うちの家族も水をもらえないかもしれない、この病院は患者に水を与えない」とあれよあれよと言う間になっていくのが世の常だ。言ってしまえばひどい言いがかりでひどいガヤである。改めて、この患者に水を与えないことは公正な治療遂行のための正義なのだ。

医療倫理及び看護倫理においてはその中心は必ず患者である。しかし医療現場ではたびたび「こうしてあげたい」という医療者の優しさが混在する。その優しさの根底には時として医療者自身の正義が混入されてしまう。それが人間なのだと思う。人間対人間の現場だからこそ、医療倫理及び看護倫理の原則が存在する。原則とは根本的な法則である。これを逸脱すると公正ではなくなってしまうのだ。公正ではなくなってしまってはそれはもう正義ではない。独りよがりというものだろう。言ってしまえば自己満足。先述した同室患者の家族が心臓疾患患者が水を与えられなかったこと対する感情は正義に基づくものではないのだ。しかし、世の中でははこう言った感情を正義と捉える傾向にあるように感じる。現にニュースでたびたび報じられる「高齢者入居施設で入居者の拘束」等、とんでもないことのように聞こえるが、医療現場においては医療倫理及び看護倫理の原則に基づき拘束という方法は日常的に当然のように取られている。拘束しなければ自害行為もしくは他害行為に及ぶ危険性がある場合などは拘束することがその人自身や他人を守ることとなる。これはどの患者、入居者にも行われうることであるため公正であり正義なのである。私が勤務していた病院では入院時に身体拘束の可能性を説明し家族から許可証を取っていた。にも拘らず「とんでもないことをしている」という声が出現するのが世の中だ。実際どういう状況であったかは当事者にしかわからないのに。こういう正義を名乗る何かが世の中には存在している。
あくまでも主観ではあるが、医療および介護施設での出来事など自分が当事者になりにくいことに対し、これだけ医療ドラマに溢れてもなお、人は自分が理解できない状況に対し自分の正義のみで叩く。これを自惚れと言わずなんと言おう。正義に酔っている人のなんと多いこと。

今回のジャニーズの件に対しても、一体どれだけの人が倫理原則に則って正義感を発揮したのだろうか。一体どこが中心となっていたのだろうか。もちろん被害者が中心となるべきだ。そこに現役タレントやそのファン、ファンではない人、他のスポンサー企業などがそれぞれ正義の名の下に意見を言っていた。正義というのは根底に原則がなければ揺るぎやすく危ういものなのだ。結局話の中心は当事者同士で行われるしかない。しかし今回のことに関しては当事者の片方は死去している上に法治国家であるにも拘らず法を通さず、片方の当事者達が世の中の正義を煽っているように感じられた。先述したように世の中に蔓延るのは正義を名乗る何かであり、身勝手なものだ。そこに公正はあるのだろうか。法の下の平等の法が機能していなければカオスだ。こうなると誰かが代表して話を聞くしかなく、口渇の心臓疾患患者の件で登場した看護師達が休憩室で愚痴るかのように「外野は黙って自分の人生生きてろよ」ということに結局行き着く。

では、正義とは一体なんなのか。これはアンパンマンのやなせたかし先生の名言で取り上げられる文言が全てだと思う。
「お腹をすかせた人を救うこと」
自分の分が減ることをわかった上で分け与える。これが正義だろう。
もし自分の分を減らしたくないのであれば、何もせずその場から離れることだろう。これもまた正義。決して「助けてあげるべき」などと綺麗事を発して誰かに責任を託すことではないと思う。

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