私のヲタク生活の心得

「楽しいヲタク生活を送る」
これができればなんと人生が充実することだろう。
新規ヲタである母からの相談が、私自信のジャニヲタとしての経験を思い返すきっかけとなり、より良いヲタク生活を送ることを考えてみた。
 母が三浦春馬さんにハマった。きっかけは彼の尊い命の終焉であるのだが、最近、母と同じように彼の魅力に惹かれている人は決して少なくないらしい。
 死というものが遺された者に残す「ああ、もう会えないんだ」という喪失感。相手が有名人であったのであれば「ああ、もう彼の作品を観ることができないんだ」という、身近な人の死とは多少異種となる喪失感を与えられる。この喪失感は、最近の母の様子から察するに、生前からの知り合いかとか、情熱を注いでいたファンかどうかが比例するものではないと思われる。誰かが亡くなるということで傷付き、哀しむ人がいて、遺された人の生活や人生に多かれ少なかれ影響を与え、有名人であればその数は多くなるのだと実感している。
 ここで、「誰かの生活に影響を与え」と書いたが、母の最近の生活はすっかり三浦春馬さん漬けになっているのだ。教えやすいからという理由で母もiPhoneを持ってはいるが、サブスクなんてものには無縁で過ごしていた。そんな母に「春馬くんのドラマや映画が観たい」と言われ、苦労しながら電話で説明し、なんとかサブスクの登録を済ませ、いくつか気に入った作品にも出会えたようだ、めでたし、とはいかない。観ればハマるもので、観ただけで満足する訳がないことは私自身も身を持って知っている。母は恐らく初めて「ヲタク」というものを経験している。少なくとも私が母と過ごしてきた時間の中で母がこんなにも誰かにハマるという姿は見た事がない。ヲタクは精神的安定や金銭的余裕を必要とし、何かにハマるということはその時の人生に彩りを与えるものであるため、ヲタクとして生きることは総じて素晴らしいものであると個人的には考えている。
 類は友を呼ぶというように、母が昔から仲良くしている近所のおばさんももれなく同様に春馬くんにハマっている。「ママ友」だった関係が「ヲタ友」となった。ところが、母はこの「ヲタ友」の情報提供過多を話してきた。世はSNS時代。情報の飽和状態だ。特に今回のようなセンシティブなニュースは良くも悪くも人々の興味をそそり、顔の見えない誰かの想像が人々の目に止まる。その想像が、そのうち中身のない真実に化けてしまう。このとてつもない数の情報の中から何を真実と捉えるかは、情報を受ける側次第となる。自分がいらない情報はシャットアウトすることも可能だ。SNSで見る広告などは自分が興味のある情報しか入ってこない。ヲタクと一言で言っても様々な界隈があるため、得られる情報ももちろん自分の属する界隈のものとなる。さらに、情報の質というものも選択する必要がある。つまり、「自分の推しのどういった情報を欲するか」ということだ。特に仲良くするヲタ友とは、この感覚のすり合わせはヲタ活をする上で結構大事だと思っている。

私は20年来のジャニヲタだ。滝沢秀明氏がリーダーだったいわゆるジャニーズJr.黄金期から、今も飽きもせずに楽しくジャニヲタライフを送っている。しかし、今のように「楽しく」ジャニヲタライフを送れるようになるまでにはもちろん色々あったものだ。
 長きに渡り応援していたのはKAT-TUNだった。1999年から2000年にかけて放送された金八先生の第5シリーズに生徒役で出演していた亀梨くんを見つけてしまったことがきっかけとなり、その後10代20代の青春時代を亀梨担として、また、ジャニヲタ生活を通して人間関係の何たるかの多くを学ぶこととなる。
 遠い記憶を思い出してみると、ガラケーネイティブのジャニヲタにとって10代の頃は、自担に関する情報は登録するメルマガが頼りだった。今はもっぱらTwitter頼みになったが、基本的な情報の内容は変わっていないように思う。しかし、ガラケー時代と違うのは、指先一つで簡単に情報が拡散される状況が上がると考える。また、アカウント一つですぐに投稿ができる手軽さから、誰でも情報を流すことが簡単にできる。メルマガ時代と比べると、情報量がとにかく多いのだ。
 メルマガ時代から「暴露系」と位置付けられるものがあった。誰と誰が交際している、という内容のものがほとんどであったが、ソースも分からない情報に10代の思春期は惑わされるものだ。嘘か本当か分からないが、一度「そうなのかもしれない」と思ってしまうと、その情報を知らなかった時と同じような気持ちで応援することが難しくなる。できることであれば、そういった情報に触れることなく応援したいと思った。しかし、一緒に応援していた友人の中にはそういった情報を知りたいという人もいた。自分が避けている情報にも関わらず、教えて来たりもした。もちろん悪気などはなく、「ねえ知ってる?」というミーハー心から来るものであったはずだ。

 KAT-TUNを応援していて一番辛かったのは、メンバーの脱退だ。もともと6人グループでそれぞれの頭文字を取って付けられたグループ名でもあり、メンバーが1人抜けるというだけでもショッキングなニュースだが、それが結果3人抜けることとなった。何度となく別れ道や壁があっただろうに、その都度KAT-TUNとしての道を選び、3人でKAT-TUNを守り続けている。特に私は亀梨担であったため、グループ結成当時の幼さを思い出すと、今の勇姿はとても誇らしく、亀梨担で良かったと思える。きっとずっと亀梨くんは私の青春なのだ。
 メンバーが減るという事実を受け止めるだけでもヲタクとしては、この世の終わりかのような辛さを味わう。できるのであれば、静かにそれを受け止める努力をしたいのだが、それを阻み、悲しみに追い討ちをかけるように流れてくる不仲説。誰かの憶測が真実のように報じられ、得体の知れない第三者の「知人」やら「関係者」やらが登場する。ただ、その中に確実に存在しないのは、「当事者」なのだ。公式サイトや有料サイトを通して発せられる彼らのメッセージでのみ当事者が存在している。
 結局、不仲であったかどうかなど当事者にしか分からないのだ。事実は、今までKAT-TUNは6人だったということ、そこからメンバーが脱退するということ。そして真実は、脱退するメンバー本人から発せられた「ごめん。ありがとう。楽しかった」の言葉のみ。Jr.時代から数えれば10年一緒に活動して、不仲だから辞めるということもないだろう。でも、もしかしたらそうなのかもしれない。こればかりは、当事者が語らない限りは知る由もない。みんな人間なのだから、感じ、抱え、考え、道を選んでいく。それが途中で別れたということなのだ。今までの道の途中で苦楽があったのは間違いないが、その全てを知る必要もない。彼らはその苦楽の中でエンターテイメントを築き、時には「充電期間」を設け、その都度最高のステージを私たちに見せてくれた。私たちもその時を大いに楽しんだ。それを働く目的にもしてきた。取り返せない過去に泥を塗る必要もないだろう。その過去があっての現在なのだから。

 しかし、道が別れても、それぞれのその道が今なお続いている場合と、死というものによって道が途切れた場合とでは明らかに違いがある。その先でまた繋がるかもしれないという「希望」が完全に絶たれるのだ。生きていればもしかしたらいつか、あの時に彼らの中で渦巻いていたものを出す時が来るのかもしれない。みんなで「ああそうだったのか」と真実を分かち合う時が来るかもしれない。しかし、死んでしまってはもう知りようもない。死の真相、ましてや自殺の真相を勘繰るというのは無意味でしかない。それは死んだ本人にしか分からないのだから。第三者が語ることは、真実とは限らない。有名人の自殺というセンシティブなものはロマンチックな物語が当てはまりそうだが、「事実は小説より奇なり」とも言う。
 事実は、三浦春馬さんは生涯に渡ってエンターテイメントに携わり、私たちを楽しませ、多くの作品を残し、その生涯を終えたということだ。私たちができることは、彼の死の真相の憶測に惑わされることではなく、彼の残した作品を存分に堪能すること以外にないと思う。それを分かち合う友人がいたらなお楽しいだろうが、1人で堪能するのも良いと思う。なぜなら、芸術は人々の孤独に寄り添ってくれるものなのだから。自分が好きと思えるものを信じることは、それを好きになった自分を信じることになる。誰かと一緒に楽しむにあたってこの心構えはかなり有効だと思う。残された功績を讃え、ヲタク生活を楽しもう。

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