弔電を自分宛てに送ってしまい、ほんの一瞬だけど、生きた心地がしなかった。つまり死。でもその後わたし、生きる意味を見つけた。
先日、人生初の弔電をおくりました。
なんだかバタバタしている中で、NTTの電報サービスのページを開き、手早く手続き。
これは最後の手紙だ、と思いながら作成した文面を何度も確認して送信しました。
数時間後、ふと落ち着いたときに「あれっ? そういえばどうして喪主の名前を入力していないんだろう」といやな予感が…。
送信画面が表示されたままのブラウザを開くと、なみなみ様宛てにお悔やみの言葉を述べている人の署名もなみなみ!
ひえー!
大変お世話になった方のお通夜に、とんでもない弔電をおくってしまった。
すでに配達完了と表示されていたので、問い合わせセンターへ電話。事情を話すと、担当者が式場へ電話をしてくれました。
すぐに折り返しの電話。式場のスタッフさんたちが「今日、なみなみさん家の葬儀ってないよねえ」と言ってよけていたそう。
至急、正しい宛名に差し替えてもらいました。
喪主の私と哀悼の意を表する私、弔電の送信画面を見ている私はどれも別人みたいで、なんだか不思議な気分に。
急に目の前が重層的に見えるような。
そして、藤子・F・不二雄の短編「パラレル同窓会」を思い出しました。
主人公は社長として成功を収めた高根望彦。少年時代の夢は作家になることで、今でも原稿用紙に向かう時こそ本物の自分じゃないかと思っている。
ある日、高根にパラレル同窓会の案内状が届く。
実は選択の余地ある局面ごとに世界は枝分かれしていて、「一生に一度枝分かれしたすべての自分が一堂に会する」のがパラレル同窓会だという。
会場で高根は作家になっている自分に出会い、世界を交換する。目を覚ましたのは公園で、お腹がひどくすいていることに気づく…。
日々、細胞分裂しているのは自分の体だけじゃない、可能性もそうなんだ、というテーマが新鮮で大好きな作品。
選ぶこと、選ばないこと。
毎日あまりにも何気なくしているから忘れているけど、生きることは選択し続けることで、自分は可能性のかたまりなんだと思う。
たぶん一番青く見える隣の芝生って「もしかしたらこうだったかもしれない自分」なんじゃないかな。
でも、きっと自分を一番苦しめるのは、分裂した世界にもいない「こうであってほしい自分」の姿なんだろう。趣味が悩み事だった20代までを振り返ってそう思う。
もしかしたら若々しさなんかも含まれていくかもしれない「こうであってほしい自分」に惑わされず、どんどん増えていく「もしかしたらこうだったかもしれない自分」をうらやんだりせず、進みたい世界へ少しずつ枝先を伸ばしていくように歳を重ねられたらいいな。
私のいつものうっかりから得たこの気づきは、人生の大先輩がくれた手紙の返事のような気もしています。