はじめての脱構築 ~哲学知識ゼロから脱構築を知る~
1.はじめに
この記事では、私がこの2ヶ月程度で「脱構築」について、本やらなんやらを読み学んだことを整理している。
学び始める前は、「デリダ?ブランショ?・・・あぁ焼き立てが美味しいよね?」という理解度(つまり知識ゼロ)であったので、
今回は同じように哲学に対して特に前提知識がなくても読めて、脱構築について概要は掴める記事となるように書くことを目指した。
「脱構築ってどういうことだろう?」と思ってWikipediaを見て、打ちのめされたすべての人々に捧げたい。
逆にある程度哲学や脱構築を理解している人にとっては、特に新たな気づきなどはないかもしれないが、暇つぶしにでもご覧いただき、もし違っていることなどあれば指摘いただけると幸いである。
2.脱構築とは
まず脱構築という言葉が持つ"もともとの定義"と"広い意味での定義"についてざっくりと確認をした上で、それを掘り下げていこう。
2.1 もともとの定義
まず脱構築(déconstruction)という言葉を、現在の意味で使い始めた元祖となる人物は、フランスの哲学者ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)である。
そのデリダによる脱構築の定義は、概ね以下のとおりである。
デリダの脱構築(堅い表現)
形而上学・階層秩序的二項対立・決定不可能性といった用語については、後ほど掘り下げて説明していくが、
少しわかりやすく言い換えると、こう言える。
デリダの脱構築(柔らかい表現)
2.2 広義の定義
デリダは哲学者であるので、哲学の議論や主張のための手法として脱構築を用いているが、今や脱構築の考え方は他の分野にも広く応用されている。
その広義の(広い意味での)脱構築は、以下のような意味で使われている。
広義の脱構築
これが、大まかに脱構築が意味するものだと考えている。
ここから、特にデリダの定義する脱構築について掘り下げていくが、
「大体わかったからもう結構」と思われる方もいるかも知れない。
そんな方も、終盤の「8.なぜ脱構築するのか」の章だけは見ていただきたい。
脱構築を理解する上で本質的に重要な部分だと考えている。
では、デリダの脱構築について掘り下げていこう。
3.形而上学とはなにか?
まず、デリダが脱構築の対象とした形而上学とは何なのか?について見ていこう。
形而上学とは、哲学の中の一つの分野であり、形而上について探求する学問である。
そして形而上とは、形のないもの・目に見えないものを指す。
したがって形而上学は、例えば魂や感情、神のような「目に見えないものについて考える学問」と理解すればよいだろう。
なお、形而上の対義語として形而下(けいじか)があり、こちらは形あるもの・目に見えるもの全般を指す。
形而下学の英訳がphysicsであり、物理学と同義であると考えると理解しやすいかもしれない。
一方の形而上学はmetaphysicsであり、meta-は「~を超えた」という意味であるので(「メタ視点」や「メタ発言」のメタと同じ)、物理を超えた・形あるものを超越した学問である、といえる。
より詳しくは以下のサイトが参考になるだろう。
4.階層秩序的二項対立とはなにか?
では、形而上学の何をデリダは批判したのだろうか。
それが、「階層秩序的二項対立」である。
階層秩序的二項対立とは一体なんだろうか。
まず、二項対立について、これはなんとなくピンとくるかもしれない。
中と外、男と女、善と悪のように互いに矛盾したり対立したりする2つの概念や考え方のことである。
中であれば外ではないし、男であれば女ではない。
互いに互いを排除しあっている関係といえるだろう。
形而上学では、この二項が完全に互いを排除しあっている、つまり「どちらか一方が持つ要素をもう一方はまったく持っていない」という状態を理想としている。
そして階層秩序的とは、その二項の間に優越がある。つまり、どちらか一方がもう一方より優れているという順位付けをするような考え方である。
つまりプラトンを祖とする形而上学では、
「様々な概念を2つに分割して、そこに優劣をつける」という前提を持っていて、それに対してデリダは異を唱えたのだ。
5.デリダの行った脱構築
デリダは自身の著書「グラマトロジーについて」のなかで初めて脱構築という言葉を用いた。
そこでは、「パロール」と「エクリチュール」の階層秩序的二項対立の脱構築を試みている。これについて詳しく見ていこう。
5.1 パロールとエクリチュールの二項対立
そもそもパロールとエクリチュールとはなにか。
・パロール(parole)=話すこと・話し言葉
・エクリチュール(écriture)=書くこと・書かれた文字/文書
である。
つまりパロールとエクリチュールの二項対立とは、平たく言えば
「言語における、音声と文字の二項対立」ということだ。
形而上学では、パロール(音声)が優位であり、エクリチュール(文字)が劣位である、とされていた。
(以後、パロール=音声、エクリチュール=文字と記載する)
なぜだろうか?
その理由として文字が「反復可能性」を持っていることが挙げられている。
5.2 反復可能性とは何か?
反復可能性とは、字面から概ね想像できるかもしれないが、「文字が持つ、繰り返し何度も読み返せるという特性」のことを指す。
では、その特性があることがなぜ文字が虐げられる原因となるのだろうか?
こういうことらしい。
音声の場合、言葉を発するタイミングには必ず語り手がその場に存在し、語り手が語った瞬間に聞き手はそれを聞く。(プラトンの時代には当然ビデオカメラやレコーダーなどという機器類は存在しない)
よって、言葉が持つコンテクスト(文脈や語られている背景事情など)は、聞く瞬間に現前(:目の前に存在すること)するため、聞き手は話し手の意図を正しく理解することができる。
しかしながら、文字の場合はそれが書かれたタイミングと読まれるタイミングには時間的なズレが存在する。そのためコンテクストは失われる可能性があるし、書き手は読み手を選ぶことも出来ないので、意図が正しく伝わらない危険性があるのだ。
確かに、例えばプラトンが書いた文章は2000年を超える時を経て様々な人に繰り返し読まれている。そして現在、私がプラトンの書いた文字を読んだ時には、それが書かれた時代背景などを完全に理解することは難しいし、なによりプラトン自身がもうこの世にはいないため、書き手の意図を確認することができない。
よって西洋哲学において、文字は「記憶する意欲を奪い、外の力を借りてしか物を思い出せなくなるとともに、書き手の意図を離れてお構いなしに点々と巡り歩いてしまい、真理が保証されない」ものとして断罪されてしまう。随分な言われようだ。
図にすると以下のようになるだろう。
それに対して、デリダは「反復可能性がパロールにも含まれるものである」ことを明らかにし、その優位性を崩す。
5.3 パロールとエクリチュールの脱構築
デリダの主張はこうだ。
音声が言葉としての意味を持つためには、同じ言葉として再認されなければいけない。
つまり、例えば「本物がほしい」という音声を発言する時、私が話すときとあなたが話すときで音の強さや高さや長さなども含めて完全に同じ音になることはないだろう。私自身が繰り返し話したとしてもそれは同じだ。
それでもなお、音声が意味を持つためには、少なくとも「本物がほしい」という音として聞き手に認知されなければならない。
そして聞き手が認知した、つまり伝わったことを証明するには、繰り返し「本物がほしい」と反復できなければならないのだ。
反復ができるということは、やはり文字と同じように、意図が正しく伝わらないという危険性を持つことになってしまう。
よって、二項に完全に別れていたはずのパロール(音声)とエクリチュール(文字)の間には、本来文字が劣っている根拠であったものであるはずの、反復可能性という共通の要素(これを「原エクリチュール」という)が存在する事になり、
もはや音声と文字に優劣をつけることも出来なければ、はっきりと二項に分けることもできなくなる。
デリダはこうして、パロールとエクリチュールの階層秩序的二項対立について、本来その二項を完全に分けることが出来ないはず(決定不可能性)であるのに、無理やり分けているにすぎない、ということを示した。(決定不可能性の暴力的抹消)
改めて脱構築の定義を振り返ってみよう。
これが脱構築の意味するものだとすると、
確かに、音声と文字の階層秩序的二項対立は脱構築されたと言えるだろう。
6.脱構築を他の例で
もう少しわかりやすい例として、
文系・理系の二項対立を考えてみよう。
(これは私が考えた例なので細かい部分はひょっとしたら少し無理があるかもしれないが、脱構築の概念の大枠を掴んでもらえればと思う。)
世にある学問は文系か理系のどちらかに分けることができるだろう。
そして、先程「4. 階層秩序的二項対立とはなにか?」の章で書いたとおり
形而上学では、二項が完全に互いを排除しあっている、つまり「どちらか一方が持つ要素を、もう一方はまったく持っていない」という状態が究極なので、理系が持つ要素を文系が持ってはいけない、ということになる。
理系といえばやはり数学との親和性が高いと言えるので、
数学を活用する学問が理系である。という分け方をしてみよう。
なんとなく理系文系を分けられそうに思える。
しかしながら実際のところそう単純には行かない。
例えば経済学のミクロ経済学やマクロ経済学などで数学は必須の知識となるし、心理学などでの用いる統計技法などでも理系顔負けに数学を活用していく。
逆に理系の分野においても、論文を書くために語学力や先行研究に関する読解力などと行った文系的要素を活用することは必要不可欠だといえる。
よってやはり、文系・理系の二項対立においても、その2つを完全に分けることは難しくなり、優越をつけることは難しいといえるだろう。
こうして文系・理系の二項対立は脱構築できる。
※ここで身もフタもない事を言ってしまうと、文系・理系という分け方は日本固有のものなので、西洋哲学においてはこのような議論はないのだが。
他によく見られる例としては、男性・女性の二項対立もある。
厳密に男性と女性を分けていくために男らしさや女らしさ、という点に着目しても、実際には女性らしさを持った男性も、その逆も存在するので、
やはり完全に分けることは出来ないだろう。
あるいは生物学的な特徴を持ち出したとしても、トランスジェンダーなどの例を考えるとやはり同じだと言える。
7.自分と他人の二項対立は崩せるか?
~差延について~
では、更に一歩掘り下げて、一番脱構築が出来なさそうな二項対立について考えてみよう。自分と他人だ。
ROLANDではないが、自分か自分以外か。これを脱構築するためには、
自分の中に自分と異なる要素が入っていることを示さなければならないので、不可能なように思えてくる。
しかしながら、時間の概念を持ち込むことで、自分の中に異なる要素が見えてくる。
それが、差延(différance)だ。
この差延がとても難解な考え方なのであるが、詳しく見ていこう。
7.1 差延とは
差延についての辞書的な意味は下記のとおりだ。
これはつまり
差延には、「差異」に加えて「時間的なズレ」が含まれている。
ことを意味している。
どういうことだろうか。自分と他人の例に戻ってみよう。
7.2 私は私だが私ではない?
「私は私である」「私以外私じゃないの」 以上。
これで自分と他人を完全に分けられたようにも思えるが、
この「私は私である」について考えてみたい。
「私は私である」と言った時、最初の私(私1とする)と、次の私(私2とする)は同じものだろうか?
これが実は同じではない。
「お前は何を言っているんだ」と思うかもしれないが、詳しく見ていこう。
まず、「私は私である」と言っている時、自分自身を対象化していると言える。客観視していると言い換えてもいいかもしれない。
つまり、主体的な私(私1)と客観視した私(私2)を比較して、同じものである、と言っているわけだ。
この時、「客観視した私」と「それ(私1と私2)を比較している私」には、僅かながら時間的なズレがある。
客観視するためには、(比喩とはいえ)自分を一旦外から見る必要があり、
その上で比較を行うわけだから、客観視と比較は順を追って行われなければならず、どうしても時間的ズレは発生するということだ。
また、「私は私である」と言っている自分と、それを聞いている自分にも同じように時間的なズレが有る。
「私は私である」と文字に書いたときのことを考えてみよう。
文字を書いているときの自分と、書いた後にそれを読む自分との間には、タイムラグ、時間的なズレが有ることがわかるだろう。
同じように、「私は私である」と言う自分と、それを聞いている自分にも、文字の時よりももっと微細ではあるが、時間的なズレが発生する。
では、時間的なズレがあるとして、それがどうしたというのか?
ズレがあるなら、同じものとは言えなくなってきてしまうのだ。
人間の細胞は新陳代謝により、約3ヶ月で完全に入れ替わるという。
また内面だって時間と共に変化していくことに異論はないだろう。
これらの変化は、あるタイミングで急に行われるわけではなく、今この一瞬一瞬にも絶え間なく起こっているわけだ。
これと極めて近い意味を示す東洋の言葉をきっと聞いたことがあるだろう。
「諸行無常」だ。
ここで「私は私である」の話に戻ろう。
私自身が常に少しづつ変化しているとすると、
客観視した自分と主体的な自分との間にたとえほんの微細だったとしても時間的なズレがあるのならば、その微細なズレの前後で自分もわずかに変化している、ということになる。
これにより、「自分は自分だ」として、自分と他人を別のものだと分けようとしたはずが、自分の中にある差延、つまり自分の中の微細なズレが含まれてしまうことになるため、
自己と他者の二項対立は脱構築されるのだ。
以下の図がそれを示している。
例えばk-1時点が対象化した自分(私2)だとすると、k時点が私は私と言っている自分(私1)、k+1時点がそれを聞く自分となる。
※注釈
自分の中にずれがあるからと言って、瞬間ごとに他人になる、ということを主張しているわけではない。あくまで、自分というものにも差異は内包されている、ということだ。
これについては、「テセウスの船」というパラドックスが理解の助けになるかもしれない。
テセウスの船・概要
この問題は「何をもって同じとするか」によって解釈こそ変わるが、多くの場合同じものである、と認識されている。
この例に限らず、巨人の選手や三期WANDSや創業以来継ぎ足されている秘伝のタレのように、もともと構成していたものが変化していったとしても、同じものであると認識されているという事自体は、我々の身近なところにも存在している。
今回の「私は私である」のズレは、それよりもっと小さい、微分レベルの極小の時間に起こるズレであると言える。
8.なぜ脱構築するのか
ここまで、脱構築の考え方について整理してきたが、
脱構築は手法・手段であり、目的ではない。
では、なんのために脱構築はあるのだろうか?
8.1 少なくとも階層秩序の転覆ではない
脱構築は階層秩序的二項対立を崩すための手法ではあるが、
トランプの大富豪における革命のように、二項間の優越をひっくり返すためのものではない。
なぜなら、脱構築は優位であるものの中には劣位の要素が含まれていて、それを排除することが出来ない、という論理で優位性を崩したわけだから、
単純に優越をひっくり返しても、同じ理屈で再びその優位性は崩されてしまう。
8.2 何でも良いじゃん、という無気力主義でもない
かといって、2項の対立に対して、優越なんて決められない、どっちもどっち、なんでもありで議論すること自体が無意味なものだ、とするニヒリズム的な考え方でもない。
(脱構築を提唱した当初は上記のような無責任な思想だとしてボロカスに叩かれたらしいが。)
8.3 じゃあ何なのか?
デリダ自身はこのように語っている。
これはどういうことだろうか?
デリダは、これについて正義、贈与、歓待性などを例に論じている。
今回は「正義」を例に考えてみたい。
8.4 法と正義と脱構築
デリダは自身の著作「法の力」の中でこのように述べている。
なかなか難解だ。
もう少し簡潔にこのようにも述べている。
これを掘り下げていこう。
かいつまんで言うと上記の3つは
①法は脱構築できる
②正義は脱構築できない
③脱構築は正義と法の隔たりの間に存在する
だと言える。順番は前後するが②から見ていこう。
8.5 正義は脱構築できない
まず「正義」とは何を意味するのか確認しておこう。
ここでは1の意味で用いられる。
では、「完全な正義」というものは存在するのだろうか?
理屈の上では、あるいは概念としては存在し得るかも知れないが、実際のところ「誰にとっての人の道にもかなっていて、誰にとっても正しい」というものなど存在しないのではないだろうか。
完全な正義とは、宇宙の果てのようなものなのかもしれない。
宇宙の果て、も理屈の上では存在するはずだ。138億年前には点だった宇宙にビッグバンが発生し、そこから膨張し続けているのだとしたら、どこかに宇宙の果てというものが存在するだろう。
しかしながら、宇宙は光よりも速いスピードで膨張していると言われ、我々が観測可能である464億光年よりも遠くに存在するため、決して観測することは出来ないし到達も出来ない。
(なぜ138億光年ではないのか?については、以下サイトを参照)
それと同じように、完全な正義についても、実は存在はするかもしれないが、到達できない無限に遠いところにある理想のようなものなのではないか。
正義に到達することが出来ないのだとしたら、それを脱構築して枠組みを見直すようなこともまた不可能と言えるだろう。
(※なぜ正義は脱構築できないのか?については、はっきりと言及しているものに私が出会わなかったので、おそらくこうではないかという私の理解に基づいている。)
8.6 法は脱構築できる
続いて、「①法は脱構築できる」について見てみよう。
「法」は、先に見た正義の意味の3番めを見てもわかるように、正義を体現するものであるはずだ。
しかしながら、法と正義は完全なイコールではない。
法は完全な正義を体現することは出来ないのだ。
なぜならば、法には必ず、それではカバーすることの出来ない特異な他者というものが存在するからである。例外的な状況と言い換えてもいい。
完全な正義というものは、誰にとっても正しいものであるはずなのだから、正義と法が完全なイコールであるならば、例外などは存在しないはずだ。
これにより、正義と法はイコールではなく、また正義が到達できないものだとするならば、今も今後も法は完全な正義にはなることは出来ないという現実に直面してしまう。
こうなった時に、2つの対応が考えられる。
A.諦める
どれだけ頑張っても完全な正義にならないなら、法なんて無意味だ、と諦めてしまうかも知れない。こうなると、秩序はなくなりアナーキー(無政府状態)になっていくだろう。
脱構築を危険思想と批判する人たちはおそらくこういった解釈をしているのではないだろうか。
しかし、デリダの主張はそうではないようだ。
これは明らかに、脱構築が諦めてしまうことを推奨してなどいないことを示しているだろう。ではどうするのか。
B.目指し続ける
たとえ完全は無理だとしても、少しでもその隙間を埋めて正義へと向かうため、現状の法でカバーすることの出来ない特異な他者を切り捨てずにケアするために、法を見直していく、つまり法を脱構築する。
特異な他者との関係性を開く、ということが脱構築が本来目指すものである。
8.3の最初に示したデリダのインタビューで語られた「他者性への肯定的な応答」が意味することとはこういうことだろう。
法は完全なものになれないとしても見直し続ける事ができる、これはつまり「法は脱構築できる」ということを意味している。
8.7 脱構築は正義と法の隔たりの間に存在する
最後に、「③脱構築は正義と法の隔たりの間に存在する」について見てみよう。
もうここまでの内容で殆ど言ってしまったも同然だが、法が正義とのギャップを少しでも埋めて近づくために脱構築する、ということは「脱構築できない”正義”というものがあるからこそ、法は脱構築できる」と言い換えることができる。
仮に法が完全な正義にたどり着いてしまったとしたら、もはや法は脱構築できなくなる。
なぜならば完全な正義になってしまった以上、救うべき特異な他者はもはや存在せず、法を見直す必要がなくなってしまうからだ。
特異な他者を救うために法を正義の方向へと脱構築していくわけだから、「脱構築は正義と法の隔たりの間(隙間)に存在する」と言えるだろう。
(隙間と呼ぶには大きすぎるかもしれないが)
これを図にするとこのようになるだろう。
※このように表すのならば正義は無限に大きいものであるはずだが、この図の正義はそれを表現できていない点はご容赦頂きたい。
8.8 まとめ
ここまでの内容を踏まえた上で、改めて先に示したデリダの言葉を見てみよう。
正義の例においては、脱構築は
・法を無意味なものとするわけではなく
・特異な他者を切り捨てるわけでもなく
・むしろ正義ならばケアできているはずの特異な他者がいるということを原動力に
・特異な他者を救うために
正義に向かって行われるものだと言えるだろう。
正義に限らず、広く一般的なケースに置いて考えると、
脱構築は既存の制度や枠組みを疑うが、
それは制度や枠組みそのものを否定するためではなく、
その制度を更に理想に近づけるために、
制度を変容させてより良い方向に持っていくために行われる
ものなのである。
9.おわりに・参考文献
本記事では、私がこの2ヶ月程度で脱構築について学んだ内容を整理した。
書くにあたっては、2ヶ月前の「デリダ?小杉の駅前にあるスーパー?」というレベルの私が読んでも理解できるような内容を目指して記述を行った。
本記事はあくまで脱構築の概要レベルの内容に過ぎないので、重要なはずだが触れていない内容も多い。
例えば、デリダが脱構築という言葉を作るきっかけとなったハイデガーや、その他レヴィナス、ブランショといった影響を与えているはずの先人の思想について一切触れていないし、
現前(の形而上学)や、パルマコン、散種、Oui Oui と言ったキーワードについても取り上げなかった。
差延についても広い意味のごく一部だけしか取り上げられていないと思われる。
何より私がまだまだ理解できていない部分も多いし、正しくない部分もあるかも知れない。
それでも、脱構築ってなんなんだ?と思った方にとって、ある程度でも理解の助けになれば幸いである。
そして上記のキーワードを含め、ここからもっと知りたいと思われた方のために、私が主に参考にした文献についてご紹介しておく。
デリダ 脱構築と正義(高橋哲哉 著、講談社)
デリダの生い立ちからパロールとエクリチュールの脱構築、正義についてまで主要なキーワードに関して広くかつ詳細に取り上げられている。階層秩序的二項対立の脱構築や、法と正義と脱構築の部分を中心に広く参考にした。
デリダとの対話: 脱構築入門(ジャック・デリダ 著 ジョン・D・カプート 編、 高橋 透・黒田 晴之・衣笠 正晃 訳、法政大学出版局)
2章構成になっており、1章では大学の円卓会議の場においてデリダ自身が参加者と議論した内容がそのまま掲載されており、2章ではその内容をベースにしたジョン・D・カプートによる詳細な補足が行われている。
主に法と正義の部分について参考にした。
デリダ本人の言葉をベースにそれが解説されているため、理解しやすい構成になっている。
原著タイトルは「Deconstruction in a nutshell」、つまり脱構築を一言で、を意味している。「一言でなどというのはデリダの作品を一言も読んだこともないものが行う馬鹿げた要求だ」といいながらも、様々な角度から脱構築を一言で表現している。(と同時に、一言だけで理解できるものではないことも教えてくれる。)
世界哲学史8 ―現代 グローバル時代の知 (伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富 信留編、ちくま新書)
現代哲学について取り上げられており、3章にてデリダを始めとするポストモダンがまとめられている。
才華さんにご紹介を頂き、まず最初にこれを読んだのだが、正直に言うと当時の私にはあまり理解できなかった。しかし、他の本を読んだ上でこの本に戻ってくると、とても簡潔に要点がまとめられていることが理解できる。
現代フランス哲学入門(川口茂雄・越門勝彦・三宅岳史編、ミネルヴァ書房)
同じく才華さんから紹介いただいた本である。
現代フランス哲学における主要人物が人単位で解説されている。
デリダの項目も簡潔にまとめられており、差延に関する説明部分で一部参照した。
史上最強の哲学入門(飲茶 著、河出書房新社)
代表的な西洋哲学者の思想が時系列ごと・人物ごとに取り上げられている。
とにかくわかりやすい。哲学書にありがちな、入門といいながら初学者を殺しに来るような難しい表現が殆どない。
デリダの項については、脱構築とは何かについては触れられていないので参考にはしなかったが、デリダ以前のソクラテス・プラトンから始まる西洋哲学の大まかな流れを知る上では最適と思われる。
なお、バキの知識は全く必要ない。
人工知能のための哲学塾 第4夜「デリダ・差延・感覚」
こちらはYouTube で公開されているセミナーである。スクエアエニックスの三宅陽一郎さんが人工知能開発・研究セミナーのテーマとして哲学を取り上げており、28分ごろからデリダが登場する。
私はこれで差延についてようやく理解することが出来た。
今回の内容とは関係ないが、このセミナーで述べられている
「人工知能に"自己"を認識させるために差延をモデル化して取り入れる」
という考え方は非常に刺激的だった。
スライドも以下に公開されている。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
本記事が脱構築について少しでも理解できた、あるいはもっと知りたいと思ったきっかけになれば大変光栄です。