笑いと楽しさと、ガスマスクの不気味さ ~井上ひさし「きらめく星座」(こまつ座)~
まじめであること、誠実であること。美徳とされるそれらは、社会的な規範となって上から押し付けられるものになったとき、尖鋭的になり、排他的になる。人格が否定される。ガスマスクを被った人の群れ。
体験談だけれど、学校で、ミダシナミを整えさせられる。髪を染めるな、制服の下に色つきのシャツを着るな、ボタンをいちばん上まで閉めろ。女の子なら、化粧をするな。なぜ、が問われなくなる、ルールだから従え、と。
画一的な人間を大量生産すると、一つの指示、指導で全員がそろう。楽だと思う。そこからはみ出したやつらは、徹底的に叩かれ、画一化される。多様性が否定される。
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井上ひさしは、どうしたか。その危険性に対して、笑いで、楽しさで、抗ったんだと思う。笑えなくなったら、楽しくなくなったら、それはヤバい。笑いで、楽しさで、その圧倒的な権力を、かわそう。対抗しよう。笑いがいい、楽しいのがいいじゃん!って感じなのが、井上ひさし、な気がする。そんなに井上ひさしの作品、読んで、観てないのだけれど。これから読もう、観ようと思っています。
こまつ座の演劇、「きらめく星座」を見てきた。こまつ座は、井上ひさしに関係する作品のみを上映する劇団。
どっかんどっかん笑いが起きる演劇で、でも、最後の最後、幕が下りたあとの、不気味さ。
(以下、少しだけネタバレ。でも、これを読んだあとでも、実際の劇の面白さは、微塵も損なわれないです。)
昭和15年、戦中の東京。レコード店オデオン堂は、整理の対象になっている。そこで暮らすのは、店主である信吉と、彼の後妻ふじ、娘のみさを、そして下宿している広告文案家の竹田と学生の森下。
彼らは、この暗い時代を、底抜けの明るさで生きている。その明るさを保っているのは、音楽と笑い。この店の長男である正一が軍隊から脱走しても、正一を追う憲兵がやってきても、みさをに婿入りした負傷兵の源次郎がどんなに軍国主義的でも、音楽と笑いで、のらりくらりと生きている。
彼らは、決して、軍から脱走した正一を否定しない。かといって、徹底的に反軍国主義の家なわけではない。軍国主義を振りかざす源次郎も正面から否定はせずに、音楽と笑いで丸めこむ。ただただ、音楽が好きで、楽しい暮らしが好きなんだと思う。それを保つために、のらりくらりと、生きる。源次郎も、彼らに感化されていく。
戦時下の深刻さを感じさせない明るさで、舞台は終幕へ向かう。空襲警報が鳴る。ガスマスクを被った彼らが、一斉にこちらを向く。勢いよく幕が下りる。終焉。
音楽と笑い。楽しさ。それを覆い隠す、ガスマスク。清く、正しく、誠実に、まじめに。それが尖鋭的になったとき、音楽と笑い、楽しさは否定される。ガスマスクは、それらを覆い隠す。
ガスマスクの、不気味さ。仮面は、文化人類学的に、ペルソナを付与すると言われている。ということは、逆に、もとの人格は消し去る。表情のない、ガスマスクの、不気味さ。清く、正しく、誠実に、まじめに、その排他性の、恐ろしさ。
広告文案家の竹田が、宇宙の視点で見たとき、今ここでこうして生きているのは、あれやこれやしているのは、奇跡。人間は奇跡だ、と言う。そんな、多様な人類への愛がにじみ出る、井上ひさし。