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星降る夜に出掛けよう 下調べ

(※はてなブログから移管しました。内容は何も変わってません。
・お月さまへようこそ編 5/26投稿
・星の王子さま編 6/12投稿
6月見た限りのことを言えば、お月さまへようこそは履修したほうが楽しい人は楽しいかも。星の王子さまはあまり必要なさそう。
舞台を見るときに物語を知らないまま行くと、物語の構造や進展ばかりが気になってキャストの演技とかが全く頭に入らない、つまるところ私のような人向けです。)

 2023年6月及び10月に舞台「星降る夜に出掛けよう」が上演される。演出は坂東玉三郎さん、出演で髙木雄也さん、中山優馬さん、髙地優吾さん。自担が出演しているため、色々調べてみている。

 題材として使用されることが名言されているのは、「お月さまへようこそ」というジョン・パトリック・シャンリィ作の戯曲集に収録された「星降る夜に出掛けよう」、「喜びの孤独な衝動」の2編。それに加えてサン・テグジュペリ作「星の王子様」で計3篇。¹⁾

 この3篇(もしかしたらシャンリィの作品だけかもしれない)に対し演出の坂東玉三郎さんは「何だか分からない戯曲」「シャンリィの短編はポエム的であって、大河ドラマ的な(分かりやすい)ストーリーはないんです。」と発言している。それに対し、髙木雄也さんは「分からない、というのが台本を最初に読んだ時の感想です」、髙地優吾さんは「最初はマジで分からなかった」と。²⁾

 私もよく分かっていないので、主題や命題を拾ってストーリー展開していくのか、もしくは筋書きがほぼ無い公演なのか、と読んだ当初思っていたのだが、5月16日の記事で“ウォルター”役髙木雄也さんと“ジム”役中山優馬さんの情報が取材会³⁾から落ちてきて驚いた。ウォルターとジムは「お月さまへようこそ」に収録されている6編の戯曲の中の一つである「喜びの孤独な衝動」の登場人物である。

 色々インタビューを読んだ限り、見に行くにあたって粗筋の把握は不要なのだろうという気がしているが、上記を踏まえて一応①物語の粗筋、②解説で気になったところ、③作者に関して、あたりを調べたいと思ったので、備忘録を書いておく。

 (「お月さまへようこそ」現在絶版となっているため入手方法が限られる。市場の出回りも少ないのかかなり高い。今回の舞台もあり、値段はさらに上がったと思われる。図書館で借りるのが割と現実的な印象。)

お月さまへようこそ/Welcome to the Moon 

概要

 ジョン・パトリック・シャンリィ氏の短編戯曲作品集である。舞台初演は1982年のニューヨーク。私が読んだのはもちろん原文ではなく、鈴木小百合さん訳・白泉社出版のものである。当時のシャンリィ氏は短編戯曲という形式に興味を持っており、この作品集で自分の気持ちや体験を率直に書いてみたかったと言っている。6本の短編は独立しているが、同じテーマを持っていることが解説で述べられている。‘本来孤独な人間同士がふれ合い、心を通わせたときの喜びであり、それを達成できないときの悲しさである‘と。

 日本初演は1990年であり、南果歩さんが出演されている(この記述はまだ夏の夜にいる私の趣味に基づきます)

 収録作品数は6編。収録順に並べると

  1. 赤いコート

  2. どん底

  3. 星降る夜に出かけよう

  4. 西部劇

  5. 喜びの孤独な衝動

  6. お月さまへようこそ

という感じである。今回の舞台は前述の通り3と5を取り扱っている。

 冒頭の作者ノートにて「できるだけ、素直に素朴に上演すること」が考えとして述べられている。舞台のセットは最低限でいい、何ならパントマイムで処理するといいと。作品の順番を入れ替えてもいいと記載しているが、抜き出しについては記載がない。

 また音楽についても触れられており、作品の繋ぎとして使用するのも一つの手だと述べている。

「わざとらしく誇張した演技に頼ってしまいがちなものもあるが、信じてほしい、それでは上手くいかない。私が自分の心で書いたのと同じように演技も、それが最もふさわしい。」

お月さまへようこそ 作者ノート


星降る夜へ出掛けよう/Let Us Go Out Into the Starry Night

 一言で言えば、孤独な女と男がバーで出会い、真剣な話を通して心を通わせ、星空に囲まれてその喜びを分かち合う話である。

粗筋を書いてみる。(最初に言っておくが非常にくどい。)

 登場人物は男と女。
 男は幽霊や妖怪に囲まれており、頭を噛んだり、引っかいたりしている。女は友達とお世辞まみれの下らない会話をしており、自分に無関心な、この愚かな女と話していても時間を浪費するばかりである、と感じ始めるところから戯曲は始まる。
 そして女は男に気づき、ドストエフスキーに似ている彼と話すべきだと考える。テーブルを離れる理由として、自分の頭にコップの水をぶちまけて男のテーブルに向かう。
 女には(他の人間には見えない)幽霊と妖怪が見えており、男に「あなた、孤独なの?」と問う。男は孤独であると答え、ついでに絶望的だとも言う。対して女は苦しんでいるのは自分たちの人生を真正面から捉えようとしているからだと話し、”真剣に話がしたい”と男に持ち掛ける。

 途端に幽霊や妖怪は男に構うのをやめる。

 女は真剣な話をする準備として、女友達(演出上実は人形と指定されている)に対し、友情が偽善であると言い放ち女友達(人形)をお払い箱にする。そして男のもとに戻ってくる。
 そこには醜い幽霊がおり、聞けば男の母親であるという。生前の容姿は普通だったが、男の創り出した母親の幽霊は醜く、生前男に威張りちらしていたと。
 その話を聞いた女は男に対して安心感を得て、”真剣に話すために悩みを打ち明けてほしい”と懇願する。物事を軽く扱いたくない、とも女は重ねる。
 それに応えた男は正直に生きたりするつらさを話題に挙げる。女は姉を話題に挙げ、姉は自分を取り巻く‘幽霊や妖怪‘を否定しており正直に生きてはいない。それでも苦しんでおり、つまりは誰でもつらいのだと話す。男はそれを聞いて楽になったと言い、心を通わせた二人はお互いが輝いて見えるようになる。

 そして二人は星と惑星に包まれる。(演出上は垂れ幕を下すことになっている)

 二人はその美しさに歓喜し、夢が叶ったようだと話す。いつも人間は孤独だが、この喜びを感じることは可能なのだと男は気づく。女は生きている実感を得て、「キスして」と男に声をかける。二人はキスをしたような素振りを見せる。男のどうやってここに辿り着いたのかという問いに対し、真剣になったからだと女は答える。

※引用ではありません

これで終幕である。

※ここまで読ませておいて何だが、10Pしかないので粗筋読むより普通に読んだ方が早いまである。

 見知らぬ者同士が会話を通じでお互いを知っていく、そして心が通じあえる喜びを書いている。これは遠い昔から存在する・これから先も永遠に存在する喜びなのにも関わらず、人間はその美しさに気付かないまま時を過ごしてしまう、と解説では述べられている。「これは人間が生きていくうえで必要な『愛』と『自由』を象徴しているのではないだろうか」とも。

 これは完全に余談になると思うが、孤独な男と女がバーで知り合い、お互いに相手を求めるという点において同氏の作品である「ダニーと紺碧の海」との類似が解説で指摘されており、「星降る夜に出掛けよう」の方が告白に関し落ち着いていてロシア的であると言われている。本人がドストエフスキー、中でも代表作である罪と罰にドはまりしていたと。なるほど作中でも大々的に名前が使用されている。

 読んでいてSF・幻想的すぎて???となる人は多いような気がしているし、私も何度読んでも???となっている。
個人的な感想としては、読んでいてボリス・ヴィアンの「うたかたの日々(日々の泡)」を思い出した。私の大雑把な分類では近い感じ。これはうたかたの日々が幻想小説であるからだと思う。「現実世界にはありえない幻想的な出来事が頻発する」「SF的なアイテムが登場する」「独特のリアリズム」(5おそらくこの辺りが似通っていると感じた要因である。でも流行の時期も傾倒先も国も全く異なるため多分全然違うんだろうなーと。
 でも後に書く喜びの孤独な衝動の解説では、彼の作品の‘おとぎ話的要素‘について触れられておりこの辺が引っかかっているのかもしれない。

 とりあえず読むと主題はある程度分かる(気がする)。妖怪や幽霊の比喩や女や男があげる例の意味は若干人に依ると思う。


喜びの孤独な衝動/A Lonely Impulse of Delight

 登場人物はジム・ウォルター・サリー。ウォルターが親友のジムに、恋人の人魚・サリーと会ってほしいと話すが、理解を得られずジムが自分のもとを去ってしまう話である。

 夜、池のほとりでジムとウォルターがしゃがんでいる場面から戯曲は始まる。
 ジムはパーティーで素敵で馬鹿げた女と上手くいきそうになっていたにも関わらず、ウォルターに突然池まで連行されている。何のために来たんだと頻りに彼を問い詰めるが、ウォルターはとにかく池を見ろとしか言わない。もう時刻は2時である。
 ウォルターは夢を持ったことがあるか、とジムに問う。絶対にあり得ない、最高に素晴らしく、そして最高に悲しいことが自分に起こっており、未だ誰も知らないのだと言う。ジムは何が何だか分からず降参だと言ったところで、ウォルターは自分が恋をしていることを明かす。
 ジムは己の靴や夜をぶち壊してまで話すことではないと呆れ、憤りを見せるが、ウォルターは重ねてその相手がセントラルパークに住んでいる人魚であることを打ち明ける。ジムはからかうばかりで本気にせず、自分たち本当に何をしているんだと呆れている。
 ウォルターは光るかぼちゃの玩具を取り出して明かりをつけ、これが人魚の逢瀬の合図なのだとジムに話す。このハイテク技術は誰が考えたのかと、からかい混じりにジムが尋ねると、ウォルターは夢で見たという。更にジムはウォルターを信用できなくなり、おざなりな返事を返す。
 やがてウォルターは彼女の名前を呼び始めるが、その姿を見てついにジムは帰ると宣言する。ウォルターは人魚に恋をしていることの素晴らしさ、悲しさ、自分のものにならない人を愛するつらさ、彼女が夢かもしれないつらさを説き、ジムが自分にとって一番の親友であり、この気持ちを分かってほしいと懇願する。
 しかしジムの理解は得られず、一緒に帰ろうと促されるがウォルターは拒否する。ウォルターは”自分とジムはなんでも同じ見方ができた、不可能なんてなかった、大の仲良しだったじゃないか”と説得を図るが、逆にジムに心配される始末である。大丈夫だとウォルターは言うが、ジムは大丈夫じゃないと断言しその場を去ってしまう。
 その後、ウォルターは孤独を感じるが、すぐに人魚のサリーが現れる。名前を呼びあい愛し合っていることを確認する。誰にも証明できない、たった一人の恋人であることを認識する。

※引用じゃないよ

以上で暗転、終幕。

この作品に至っては8ページである。

 また解説から色々抜粋するが、題名である「喜びの孤独な衝動」はウィリアム・バトラー・イエーツの作品の一節から取られている。「自分の死を確認する前のアイルランド人飛行士」という暗く、悲しい詩であり、ある飛行士が自分での呪われた運命を知り、自分の最後の飛行を「喜びの孤独な衝動」と称する。

 ウィリアム・バトラー・イエーツ(1865-1939)はアイルランドの詩人であり、アイルランド人として初のノーベル文学賞受賞者である。上記の詩は詩集「クールの野生の白鳥」(1919)に収録されており、ロバート・グレゴリー(一般には知られることの無かった画家)の死を歌ったもの。⁶⁾第一次世界大戦中、戦後にて激変する国内外の情勢に関連して、身近な人々の生死が反映されているのが特徴的である。またこの時期のイェイツは心霊主義に関心を抱いていたとも言う。

 訳者の著作権が切れていないので全文は紹介できないが、一部のみ。

「法務も、義務も、政治家も、歓呼する群衆も、私に戦えと命じはしなかった。 孤独な歓喜の衝動が この雲の騒乱に私を駆り立てた。」

高松雄一訳:対訳 イェイツ詩集


 当該戯曲では、一人の男が夢について、死について、孤独について友人と話そうとするが相手に通じない。彼にとっては一番大事な話なのにも関わらず、相手は去ってしまうという悲しい物語であると解説で述べられている。

 ここまでで「星降る夜に出掛けよう」と「喜びの孤独な衝動」は本当に対照的な戯曲であると感じる。前述の通り六篇とも主題は同一なのだが、私なりにものすごく、とんでもなく簡易化すると
 ”見知らぬ男女”が”通じあった”/”親友同士”が”通じなかった”
 みたいな感じで認識している。人間が孤独なのはこの作品集の前提であるため関係性の違いはさして考慮する必要はないかもしれないが。
 通じ合えるのならば喜びが生まれる、通じ合えないのであれば悲しみになる。星降る夜に出掛けようの命題に対して喜びの孤独な衝動は裏をとっているし、逆も然りだと思うがこれは私がかなり強引に話を持って行っている。玉三郎さんもロジックで説明できる戯曲ではないと言っているし。

 解説に話を戻すが、‘人魚‘に関しておとぎ話を彷彿とさせることにも触れている。シャンリィ氏は大のおとぎ話ファンであるという。幼少期からアメリカ・イギリスは勿論、アラビア・ドイツ・スペイン・ロシアの童話も読んでいたとのこと。日本の「狐の嫁入り」はお気に入りの童話の一つだという。ひとつ前の項でも記載してしまったが、ここからくるおとぎ話要素は彼の作品の特徴であると解説では述べている。

  • ついでに作中に出てくる「そして神の聖霊は水の上を進んでいった」。軽くインターネット検索に引っ掛けたところどうやらマタイによる福音書14節でイエスが水の上を歩き、風を沈めたエピソードがあるらしい。凪いだ水を見てこの言葉が出てくるウォルター、というキャラクター性の強調なのかなと思う。もしくは単にお国柄かも。

  • ここまで書いて、ジムとウォルターどっちがどっちだったっけと思ったのだが、髙木さんがウォルター、中山さんがジムである。本当に申し訳ないが造詣が深くないので成程な…としか思わなかった。見た目の印象的に私は逆だと思ってて本当にごめんなさい。

ジョン・パトリック・シャンリィ氏に関連して

  • 劇作家及び映画監督。代表策として挙げられるのはアカデミー賞脚本賞受賞の「月の輝く夜に」「ダウト~あるカトリック学校で~」(後者は監督も務めている。)「ダウト、寓話」は舞台もピューリツァー賞、トニー賞などを受賞している。⁹⁾

  • 1950年10月13日、ニューヨークのブロンクス生まれ。破天荒な人物であり、幼稚園は退園処分、小学校は教室から追い出されており、高校は3回退学処分。本人「私は自分の意見を率直に表現する性格だったので、カトリック系の学校には合わなかったようだ」。

  • ニューヨーク大学に進むも休学し、海軍に2年在籍。その後ニューヨーク大学に戻り演劇額を学び、卒業生総代として卒業。留学の話があったものの、これを断りアルバイトを転々としながら劇作を書いていた。⁴⁾

  • 彼の創作は詩から始まっており、元来詩人希望であった。しかし、大学で劇作と出会い、自分を最も満足させてくれる芸術的表現方法に出会ったという。今回取り上げている「お月さまへようこそ」は劇作家として同氏が初めて認められた作品である。⁴⁾

  • 同氏の作品では宇宙、星、月、惑星が人間の行動や運命を変えてしまうほど、大事な要素になっている。例としては「お月様へようこそ」「月の輝く夜に」「ジョー、満月の島へ行く」。これは彼の生まれ育った同氏の育ったイースト・ブロンクスが全体的に墨で薄汚れた地域であったが、建物が低層であったため、空は大きく広がっていたことに起因する。昼には太陽を、夜には月と星を眺めて育ち、自分が宇宙の塵より小さな存在であることを思い知らされたそうだ。

  • 同氏は月に関し、自分にとっての月は「花にとっての水」だったり、「救世主」と語ったりしている。「人間と宇宙の関わり」は永久不滅のテーマであり、作品に普遍性を持たせていると鈴木氏は述べている。⁴⁾

  • シャンリィ氏にとって一番大事なことは自分に忠実であること。

「ある女性と結婚したいと思って、その女性に優しく寛大な態度をとる。楽しいデートをして、素敵な時間を過ごす。その女性が何をしても怒らない。本当に頭にきているときでも怒らない。すると、その女性は私を愛していると言ってくれる。でも、私は本当に自分をさらけ出していないので、その女性は本当の私を愛しているのではない。従って、その愛は無意味なものになってしまう。これは物を書くときも同じで、いくらほかの人に絶賛されたとしても、その作品が自分にとって真っ赤な嘘だとしたら、何の意味も持たない。自分の仕事も、人生も、自分に忠実であることによって守られる。また、物を書くときに批評家の立場で物事を見てしまっては、悲惨な結果に終わるだろう。何かを心から信じて、バカになれることが大事なんだ。」

お月さまへようこそ 解説

シャンリィ作品のその他記述と所感

  • ダニーと紺碧の海も目を通したのだが、巻末の鈴木小百合氏によるシャンリィとのインタビューが掲載されていた。その中にお月さまへようこその観客の反応で‘‘初演で観客がよく笑っていた‘‘という記述がある。シャンリィ氏も‘‘僕もあれは面白いと思っている‘‘と返答。喜びの孤独な衝動もかなり笑いがあったとの鈴木さんの言に、シャンリィは本当に?と返している。本質的に悲しい話ではあるが、鈴木さん曰く二人の男の次元の違いや、会話のかみ合わない面白さみたいな部分で笑えたようだ、と。ニューヨークでも観客はかなり笑ったとのことであり、割と笑いはとれる演目のようである。¹⁰⁾

  • ダニーの後書きでは「大自然の神秘」がシャンリィ氏の永遠のテーマであることも触れられている。それに関連して日本の俳句にも(松尾芭蕉、小林一茶)手を出している様子。黒澤明のファンでもある。¹⁰⁾

  • 男の女の性質の違いについて「マンハッタンの女たち」付録のインタビューで触れられている。マンハッタンという場所は日の入り・日の出を意識させず、土に触れる機会がない。非常に機械的であり、そういうところに住む女性は自己管理を強いられていて、ノイローゼになっている人も多い。人間的なふれあいに欠けており、人恋しいときに電話で長電話する、面と向かっては話さず、距離を置くことが普通になってしまっているとの意見をシャンリィ氏が述べている。 この思考は星降る夜に出掛けようの女の背景にも通ずる箇所はありそう。¹¹⁾

  • ・配役について。王子、ウォルター、ジムは確定っぽい。髙木さんの青年が、不時着した男なら(2、星降る夜に出掛けようは中山さんと髙地さんに消去法でなりそうなんですが、そんな単純じゃないのかも。今日あたりから雑誌もいっぱいでるので分かるのかな~と。  ➡今月発売のステファンで出てました。星降る夜に出掛けようはやっぱり男役が髙地さん、女役が青年で中山さん。女役が青年なのはどういうアレンジになるんでしょう。でも男役は青年とは呼ばないんですね?とか。青年と男の星降る夜に出掛けよう、主題をやるには人物設定は特に老若男女問わないかなと個人的には思っています。ただ孤独であれば。

  • 割とやっぱりよく分かんない箇所が多くて大変嬉しいです。よく分からない舞台と自担見るのが一番興奮するかもしれない。

通しで読んで本当に面白かったです。赤いコートからのお月さまへようこそがお気に入りだし、これを書いたあとシャンリィが10年連れ添った妻と離縁したエピソードが本当に好きです。おいおいおい正直だな!って。

参考・引用【お月さまへようこそ編】

  1. 2023年 5月 (tamasaburo-bando.com)

  2. 京都南座で6月、坂東玉三郎演出「星降る夜に出掛けよう」 ジャニーズ3人出演|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞 (kyoto-np.co.jp)、2023/5/16

  3. 高木雄也、中山優馬、高地優吾3人が一人二役! 坂東玉三郎演出の舞台「星降る夜に出掛けよう」で挑戦 - サンスポ (sanspo.com)、2023/5/16

  4. ジョン・パトリック・シャンリィ、鈴木小百合訳:お月様へようこそ、白泉社、1990

  5. 日々の泡 - Wikipedia

  6. 中林孝雄:W・B・イェイツ 詩集「クールの野生の白鳥」、個人書店 銀座店、2003

  7. 伊達恵理ほか:アイルランド文学 その伝統と遺産、関文社、2014

  8. 高松雄一訳:対訳 イェイツ詩集、岩波書店、2009

  9. 現代演劇研究会:現代演劇Vol21<特集 トニー賞・ピューリツァー賞>、新水社、2015

  10. ジョン・パトリック・シャンリィ、鈴木小百合訳:ダニーと紺碧の海、白泉社、1991

  11. ジョン・パトリック・シャンリィ、鈴木小百合訳:マンハッタンの女たち、白泉社、1992


星の王子さま/Le Petit Prince

 舞台に使用される河野万里子さん訳の「星の王子さま」及び、関連書籍、解説系の書籍をちょっとだけ見たので(読んだというよりかはどちらかというと”見た”)、気になった・もしくは個人的に好きな内容を備忘録としてまとめておこうという趣旨の文章になる。もう本当に舞台とは関係なくてただただ発端になっている。私の趣味しかない。
 前回記事「お月さまへようこそ」と違い粗筋の記載をしておらず、ただただ物語の解釈を集めて私なりにまとめたものになるので、万が一目を通される方がいたら訳本がないと何が何だか分からない、という代物です。

 作品の発表順で語るのであれば星の王子さま→お月さまへようこそで考えるべきだが、今回はタイトルが「星降る夜に出掛けよう」であるためお月さまへようこそ、ひいてはシャンリィ作品を土台として色々適当な感想を喋った箇所が多いことをご了承いただきたい。

星の王子さまについて Le Petit Prince 

 1943年4月6日にニューヨークで出版されたアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリによる物語である。英語版とフランス語版の同時出版であった。現在世界諸国(270以上)で翻訳され、現在までで1億4500万部以上売れている。これは2014年の記載なので現在はもっと売れていると思われる。翻案も多彩であり、映画、オペラ、バレエ、アニメ等々。ちなみに最初の演劇は1963年、パリで上演されている。

 作者はもともとフランス生まれフランス育ちであるが、「風と砂と星と」がベストセラーとなったことで、出版社からアメリカに来るように誘われ、1940年アメリカに亡命している。ちなみに第二次世界大戦が1939年開戦、1940年にフランスはナチスドイツに降伏した年。愛国心の強いサン・テグジュペリがニューヨークに行った目的はアメリカの参戦を求める宣伝活動のためであった。当初は4週間の滞在予定であったはずが、2年以上アメリカに滞在することとなり、その間に生まれたのが星の王子さまである。

 長期にわたりアメリカに滞在したが、アメリカ嫌いの作者は英語を学ぼうとしなかった。これに加えアメリカのフランス人社会でもサン・テグジュペリは孤立していた。彼らはド・コール派とヴィジー政府派に分かれて論戦を戦わせていたのだが、サン・テグジュペリは頑なに中立を守っていたのである。この態度が同朋に快く思われるわけもない。

サン・テグジュペリのアメリカでの生活は孤独を極めていたのだ。孤独から生まれた本と表現している解説も存在する。王子さまの孤独は、この物語を書いていた時期のサン・テグジュペリの孤独と重なる。

孤独の主題もまた、ニューヨークに深く関わっていると思われる。サン・テグジュペリにとっては『人間の大地』のような作品において人間の絆を繰り返し宣言しようとも、人間とはこの世界にあって癒し難く「孤独」なのだ。

 (ここで一つ思い出すことがある。シャンリィも出身はブロンクスでお月さまへようこそ及び赤いコートの舞台はニューヨーク。マンハッタンの女たちもニューヨーク。行ったことないけど滅茶苦茶関係が希薄になってしまって孤独を感じやすい場所なんでしょうか。二人の背景は全然違うので一概にこうってわけじゃないけど。)

 1942年の夏、若い読者向けの原稿を任せてみてほしいと出版社側から作者に提案したという。‘‘クリスマス用の童話‘‘として年末休暇用に売り出す予定であった。

 きっかけは、カーティス・ケイトによる伝記と、ステイシー・シフによる伝記で述べていることが異なるため、正確にはわかっていない。共通している点は、サン・テグジュペリが手慰みに描いていた少年を友人が物語にするよう提案したという箇所である。挿絵も最終的に彼自身が描いたものを使用している。

 この物語の誕生と同じ年に、彼は自ら強く志願し連合軍の原隊に復帰した。すでに42 歳であったが(パイロットは32歳までと決められていた)、条件つきで飛行が許された。結局これを守らず何度も偵察飛行に飛び立ち、44歳の飛行で帰らぬ人となった。

 星の王子さまは、27の章に分かれている。
ここから先は章ごとにいくつかの解説を書き留めておきたい。

章ごとに解説抜粋

0.レオン・ウェルトへの献辞文

 サン・テグジュペリは自分の本を友人に献呈する習慣があった。レオン・ウェルトはエッセイや小説などを執筆していた自由思想家であり、サン・テグジュペリの22歳上の友人である。ユダヤ人であったため、第二次世界大戦時は身を隠して過ごしていた。 
 献呈相手は間違いなく大人であるが、この本の読者にはこどもが想定されている。この矛盾に対し、作者は冒頭で3つも弁明を重ねている。これは祖国に残って困難な状況を生きている友人、ひいては抑圧に耐える同郷人の形象に関連して、‘‘慰め‘‘を必要としている友人のために彼はこの本を書いたということの強調になっている。

 また、この献辞において既に子どもとおとなの対立構造が示されている、おとなの読者は子どもだった頃の自分で読む本なのだと認識する。また、子ども向けの本は理解するのが易しい訳ではない、大部分のおとなは子ども向けの本を全く理解しないという皮肉の/警告の成分も含まれているという見方をする筆者もいる。

1.「この絵こわい?」

 全編を通して、読者は飛行士/語り手/僕のことをほぼ知らない。詳しい肖像を描くことはできないが、それでも物語中で語り手について一番詳細に書かれているのがこの章である。最初のデッサンを書き上げたにも関わらず、相手にされない。語り手のおとなたちに対する無理解への失望はこどもを味方につける効果がある。読者もまた、語り手と同様におとなとこどもの世界を隔てる距離に気付き、苦い気持ちを味わう。

 語り手が感じ取った恐怖を共有しようとすること、それを共有できずに失望する。星の王子さまではおとなとこどもの対立構造であるが、これは相互の無理解であり、喜びの孤独な衝動と同様の面があると感じる。

2.「おねがい……ヒツジの絵を描いて!」

 本当に心を許して話し合える友人もなく、僕は孤独に生きてきた。

星の王子さま サン・テグジュペリ 河野万里子訳

 という一文がある。逆説的に言えば王子さまとの出会いが、心を許して話し合える友人との出会いとなったわけである。孤独の主題はここで明確に提示されている。この物語における砂漠は重要な場所となる。イメージとしては不毛性や人間の不在、孤絶性。しかし王子さまと共にいればとたんに豊穣の土地となる、ということだ。

 ボアを見せて即中身を見抜いた王子さまは、その言葉一つで‘僕‘友達の資格を得たのである。ヒツジに関して、結局小箱を描く語り手だが、これはすでに大切なものは目に見えない・中身を見抜くのはおとなではなく子供であるという主題の提示にもなっている。王子さまは外見を超えて真実を見ることができたというとらえ方をする筆者もいる。

私はここの木箱、子供の発想力や想像力の賞賛なのかなと思ってたし、その想像を共有しようとする対話のすばらしさなのかなと適当に思ってました。

 孤独の主題はやはりお月さまへようこそ、ひいてはシャンリィ作品との共通点である。砂漠が豊穣の土地になるのも、星々に囲まれるのと同じなのだ。他者と気持ちを通わせるのに周りの環境は関係ない。

3.「じゃあ、君も空から来たんだね」

 語り手が王子さまに対する知識を深めていく場面である。目の前に現れた不思議な少年という「神秘」が徐々に明らかになるという物語構造である。ちなみにここで王子さまも語り手も空から落ちた、ことが指摘されている。サン・テグジュペリも同様に何度か「落ちた」経験がある。

4.「だから王子さまはいたんだ」

 小惑星B612を用いたおとな批判である。小惑星の数字を示したうえで、これは数字崇拝のおとなのせいであると揶揄している。

【数字】

  • これに関しては揶揄しながらも作中で割と出てくるのでその矛盾が割と議題に挙がっている印象。ただ星の王子さまに出てくる数字は利便性ためだけでは無いことが指摘されており、言葉遊び(千マイルはフランス語でミルミルっていうらしいよ)にも使用され詩の作用を生み出している。

  • 語り手は常におとなと子どもの対立構造で(訳文がやや対立構造をとりがちなだけで、フランス語のニュアンス的に言えばそんなに対立はしていないと述べている筆者もいる、ただ対比しているのは事実である)、実際にはおとなを批判するが、これは大人が読者にいなければ成立しないため、常におとなの読者を対象にしていると捉えることもできる。ついでにこの章で常にこども側で話していた語り手は自分が木箱の羊が見えない=老いていることを意識する。

5.「じゃあ、バオバブも食べる?」

【バオバブ】

  • バオバブが危険である、という警告から多くの解説者が第二次世界大戦と絡めた見方をしている。例えば三国同盟だとか、例えばファシズムだとかである。戦争のほのめかしを考えるのは時代背景的に当然のことかもしれないが、私はあんまり好きじゃない。これはおそらく好みの問題。

  • 大まかに言うなら、今日できることは明日に引き伸ばさない!とっても単純な警告内容である。バオバブはこの物語における危険の代名詞とも言える。

  • バオバブって何?なぜこの木?というのもどうやら最初に出てくる‘ウワバミ‘と‘バオバブ‘、フランス語だとほぼ同じ韻の踏み方をするから、との考察もある。

6 .「陽が沈むのを、一日に四十四回見たこともあったよ!」

 語り手が王子さまに「きみ」と語りかける唯一の章となっている。冒頭、今は地球上にいない王子様に語り掛けているのだ。

7.「大事なこと![…]おとなみたいな言い方だ!」

 語り手にとって飛行機の修理は生死に関わる「まじめな」作業ではあるが、おとなみたい!と批判されると途端に恥ずかしくなっている。無茶な非難であるが、無茶であるからこその純粋性が見える。
 ここで語り手は生命よりも大事なものがあることを知る。

語り手は基本子どもの立場の人間として自分を定義している。それが木箱の件で自分の老いに気付く⇨この批判で恥ずかしさを感じる、という流れなんだな~と私は思っている。
 あとここの「キノコだ!」の罵り方めっちゃかわいい。好きポイント

8.「あの花の言うことを、僕は聞いちゃいけなかったんだ」

 花(後にバラということが分かる)を中心とした物語展開。魅了される王子さまと気難しい花の出会いと真面目な王子さまの苦しみである。余談だが、モデルも踏まえるとやはり女性との恋愛関係を想起させる。ここで王子さまはふるまいで彼女を理解するべきだったと後悔しているが、これは勿論物語後半でキツネと出会ったことによる。

「言葉の嘘」、「行動の大切さ」、「矛盾」サン・テグジュペリ文学を貫く哲学である。

【バラ】

 この物語における一つの起点。王子さまにとって美しい、魅力的な存在でありながら、高慢で見栄っ張りで、浮気っぽく、不満ばかり言う登場人物の一人である。バラは西洋において愛のシンボルとなっている。物語も、王子さまとバラの花の困難な愛の物語の一面がある。バラの価値を認識し、成長する物語となっている。
 モデルとして挙げられることが多いのは、サン・テグジュペリの妻であるコンスエロ。

  • 気性が激しい、気まぐれ、虚言癖があった、等々バラの性質と共通点が多く指摘できる。

  • 持病に喘息があることがせき込むバラにつながる。

  • 彼女自身がバラのモデルは自分であると明言している。彼女の手記にもそのエピソードは記載されている。

  • (元居た国では…とバラが話す箇所があるが、コンスエロの生まれたエルサルバドルが南国である)

  • (花は、緑の部屋にかくれたまま、美しくなるしたくにかかりきりだった。という一節があるが、彼女が身支度で人を待たせていたと言われていた他、バスルームは自ら緑に装飾していたという話がある。)

 以上がモデルではないかと言われる根拠である。サン・テグジュペリは彼女に献辞を捧げたかったが、彼女自身がレオンウェルトを勧めたとされている。

 フランスは階級意識の強い国であり、身分を超えた結婚はタブーに近い。サン・テグジュペリは貴族出身であり、家族はコンスエロのことを快くは思っていなかった。二人の結婚生活も平穏とはいかず、お互いに幾度となく不貞を働き、何度も離婚寸前となっていた。しかし、結局は最後まで元の鞘に収まっている。

私を失わないで。あなたも自分を失わないで。ではまた近いうちに……

 サン・テグジュペリが最後の飛行の際に所持していたとされるコンスエロの写真の裏に描かれていた一節である。

 この他、サン・テグジュペリが若い時の婚約者であったルイーズや母親ととらえる説もある。

9.星を出ていくのに、王子さまは渡り鳥の旅を利用したのだと思う。

 お別れだね、と王子さまは花に声をかけるが、フランス語において「また会いましょう」の意味を持つ別れの挨拶でなく、「もうこれ限り」の意味を持つ方の言葉を使用している。
 また、前章からこの章にかけて花に対する王子さまの声かけが原文で見ると徐々にフランクになっていることも指摘されている。
 この経過でこの花は自分にとってのかけがえのないバラとなっていくのが分かる。

10.「おお、民が来たか!」

 命令しかしない王さまとの出会い。彼には臣下がいないため、行為として不条理で意味の無いものである。
 ここから始まる星巡りの旅は、おとな批判のようにも思えるが、‘‘へん‘‘だと王子さまは思っているだけで特段否定はしていない。6者6様にユーモラスである。この星巡りの目的は「仕事をみつけ、知識を身に着けること」と書かれている通りなのだ。この星巡りを通じて、彼は他人に対する知識を増大させ、彼らが重要としていることに疑問を覚え、自らの価値観を形成する。
 おとなたちってずいぶん不思議~という文もあり、この出会いを「おとなたち」と一般化していることから、こどもとおとなの対比の構造は勿論ある。この一文は星巡りのなかで、点灯人以外の5章すべてに出てくるが、おとなに対する形容詞はどんどん強いものになっていることから、王子さまの気持ちの強くなり方が伺える。

 王さまは、社会性を果たすためだけに命令を出し続けている。これを政治家批判であると論じる解説もある。

11.「さて!さて!私を称える者が来たぞ!」

 2番目の星、誉め言葉しか耳にはいらない大物気取りとの出会い。

12.「飲むことを恥じている!」

 3番目の星、ひたすら酒を友とする酒びたりの男との出会い。前述の二人との差異は他者を必要としていない箇所である。

13.「だが、私は有能な人間だからな!」

 4番目の星、計算に命を懸ける実業家との出会い。7章で王子さまが例に挙げて怒ったおとなは実業家を指している。サン・テグジュペリはこういった人間に対し不信感を抱いている。

14.「ガス灯を消すこと。こんばんは」

 5番目の星、ガス灯の火をつけては消す点灯人との出会い。点灯人に対してのみ王子さまは態度が異なり、友達になれたかもしれないと感じるのである。
 少なくとも点灯人は自分のことだけを考えているのではない、自分以外のことに専念している。だからこそ王子さまはこの点灯人が好きになるのである。

15.「花は、はかないからだ」

 机にかじりついて大きな書物を読んでいる地理学者との出会い。不変の事物に関心を抱く地理学者は、王子さまにとって大切な「はかない」の意味を教えることになる。この章で話は再び花に回帰する。そして、「はかない」存在であることを認識し、この時点から責任の意識は芽生えていることが伺える。

そうして行先として地球を提案するのである。

16.こうしたわけで、七番目の星は地球だった。

 そうして星巡りで出会ってきたすべての人種が住んでいる、地球に辿り着く。この本が書かれた際の人口である20億人という数字が出てくるが、20億人は「おとな」の数である。この物語を通じて出てくる子どもは王子さまと6歳の語り手のみなのである。列車の下りで子供に言及されているが、個人としての登場ではない。

17.「人間たちのいるところでもさびしいさ」

 この抜き出し、言ってることがシャンリィと一緒かもなと思っている。

 上記の台詞から、人間の絶対的孤独というこの物語の主題を見出すことができる。更に、砂漠は孤独を象徴的に表している場所だ。サン・テグジュペリ自身は砂漠に対し以下の感想を残している。

私は生まれて初めて、私の人生は私のものであり、その責任は私にあるのだという気がした

 そしてヘビと出会うが、ヘビは王子さまに対し「純粋」「弱そう」「かわいそう」と述べている。おとなではなく、ヘビが王子さまに憐憫と同情を寄せる。そして王子さまが自分の毒をいつの日か必要とするだろうと予言するのである。

【ヘビ】

 星の王子さまにおいてヘビは3度出てくる。①大蛇ボア②本章③王子さまが星に帰る前。
 この物語において一貫して重要な役割を果たしており、最後には毒を使って、王子さまが自分の星に帰れるように手助けをするのである。ヘビは死を与え、旅立ちに伴う困難を解消することによってあらゆる問題、あらゆる謎を解決に導く。「おれにはすべてが解ける」のだ。
 また、王子さまとヘビは、「互いに手なずけ合った友だちではなく、彼らは直観的に、超自然的な英知によって知り合う。彼らは秘密を共有してはいないが生と死の謎を分かち合っている」と指摘される。
 ヘビのウロボロスとしての性質に触れている筆者もいる。自分の尾を噛むヘビは永遠性の象徴であるが、毒は死を与える。星の王子さまでもヘビは王子さまに死をもたらすと同時に永世を保証している。

18.「根がないんだもの、ずいぶん不便でしょう」

 この根に関しては、不動の信念を持たない、とか確固たるよりどころがないといった解釈を多く見かける。更には地球上においてほとんど無であるにも関わらず、自らに大層な価値があると信じているおとなへの皮肉ともとれる。真の価値を持たずにむなしく動き回っているだけ、という。「どこにいるんですか、人間たちは?」の解である。

19.「こんにちは……こんにちは……こんにちは……」

 そうして王子さまはまた奇妙な人間に出会う。話しかけても繰り返すことしかできない、恐ろしいほど想像力に欠けている‘‘こだま‘‘である。こだまと出会うことで自ら話かけてくれていた花を思い出し、孤独をさらに深める。

20.そんなものだけじゃ、僕は立派な王子さまになれないよ……

 そんな最中に五千本のバラと出会うのである。実業家に対し、王子さまは一輪のバラと三つの火山を所有していることを述べていた。ひとつに庭に五千本ものバラを持っている人と、一本しかもっていない自分を比較するのである。自分の所有しているバラの価値が揺らぐ。この時点では、立派な王子さまの定義として、何を所有しているかを重視している。

21.「いちばんたいせつなことは、目に見えない」

 いよいよキツネと出会う場面である。キツネは手なずけられることによって自分の世界が一変することを知っている。黄金色の髪を持つ王子さまに手なずけられることで、小麦畑は特別な意味を持つ。キツネにとっては小麦畑が王子さまのメタファーになる。後述するが、これと同様に語り手にとっての王子さまのメタファーは夜空の星々となる。

 キツネは教導者として王子さまに様々なことを教える。

  • 手なずける、とは絆を作ることである。

  • 絆を作るとお互いが「この世でただ一つ」になる。王子さまのバラは「この世でただ一つ」だということを教える。前章で泣き伏していた王子さまを救う。

  • 我慢強さとならわし。飼いならすには時間が必要であり、ならわしがあるからこそ幸福が生まれる。

  • いちばんたいせつなことは、目に見えない。ボアの絵から一貫して現れているテーマである。物事は心で見なくてはよく見えない。花の言うことをきいちゃいけなかった、の一文もここにつながる。うわべでなく物の本質を見ることを教える。

  • 時間を費やすもの。かけがえのないものとなった理由。

  • 自分が手なずけたものに責任があるということ。王子さまはここで自分のバラへの責任を自覚する。

 なぜキツネと別れなければならないのかの説明は一切ない。キツネは思い出を得ているものの、王子さまと絆を結んだのはバラだけでなくキツネも同様であるが。

この教えは24章で語り手に受け継がれたことが確認できる。

【キツネ】

  • キツネと書かれてはいるものの、挿絵として描かれているのはフェネックである。サン・テグジュペリはフェネックを飼いならしたとされており、それに関するいくつかの文章が残っている。

  • これも、ずいぶん忘れられてしまっている、という前置きから語りだすので、古い英知の継承者という見方ができる。そもそもフランス中世の狐物語から知恵者とみなされることが多く、彼の言葉は先導者としての重みを帯びる。

  • 愛する者への責任感という面においてキツネモデルとなったのは、飛行士としてのサン・テグジュペリの友人アンリ・ギヨメとする説もある。真冬のアンデス山脈で妻を思い5日間生き延びたのである。

22.「人は自分のいるところに決して満足できない」

 物語のラストに突入することを読者は予想するが、この章は物語の展開とはあまり関係しない章であるため当惑する。どこで見たかわすれてしまったが、確かサン・テグジュペリの章構成は順番にあまりこだわりがないという記述を見た記憶がある。

 王子さまは人間と会うことを目指していたが、ここで鉄道員に出会っても、次で商人に出会ってもさしたる喜びはなさそうである。
 ここでは何を探しているかもわからず移動する人間を風刺している。ついでに18章で語られた「人間には根が無い」のエピソードも思い出される。意味もなく右往左往する大人と違って、こどもはキツネの教えのとおり時間をかけることを知っているので。恒例のおとなとこどもの構造である。

23.<もし五十三分あったら、そっと、ゆっくり、泉に向かって歩いていくよ…>

 前章同様、のどの渇きを止める薬を必要とする・時間を節約する人間たちの風刺である。のどが渇いたときに水を飲む喜び、という価値を忘失している。

24.「砂漠が美しいのは[…]どこかに井戸を一つ隠しているからだね。」

 ここで話は語り手の遭難物語である6年前に戻ってくる。王子さまの「たとえもうじき死ぬとしても…」という箇所は一見話がつながっているように見えるが、これは王子さまの死の覚悟に対する言葉である可能性が高い。

 井戸を一つ隠しているから~に関して。宝物ははただそれが隠れていると想像するだけで十分宝物としての役割を果たすのだ。これも本質を見る、ということなのかもしれない。
 勿論砂漠で井戸を探すのはばかげた行為であるが、ここで「事物は、存在するという目的だけのためにあるのではない」と述べる解説書も存在する。
 そうしたやり取りを経て、「家や、星や、砂漠を美しくしているものは、目に見えないね」と語り手は言う。前述の通り、ここで王子さまはキツネの教えがきちんと語り手にあることを感じる。また、語り手は王子さまのバラの存在を知り、彼の‘‘はかなさ‘‘を意識するのだ。語り手にとって王子さまは生命の危機と無縁の存在のように言えていたが、ここでその認識が変わったのである。

【井戸】

  • 井戸は豊穣と生命の源のシンボルである。「真実は井戸の底にある」という諺がフランスにある。

25.「でも目では見えないんだ、心で探さなくっちゃ」

 そうして王子さまと語り手は不思議な井戸を見つける。語り手は王子さまと出会った時点でファンタジー世界に迷い込んでいるが、ここでさらに深く現実世界から離れ、幻想世界の中に入る。サン・テグジュペリ自身が砂漠で遭難した際に、灼熱の太陽の下を3日も歩き続けると蜃気楼に従うようになると述べている文書もあるため、ここから着想を得ている可能性もある。

 水に対し語り手は「からだが必要とするのとは、まったく別の水だった」と言うが、これは勿論、時間を費やしているからだ。

 王子さまは星に帰る準備を始め、語り手に口輪を描く。語り手も別れのときを予感し、その上で自分が王子さまに手なずけられてしまったことを認識する。

王子さまが語り手の前に現れるのも、井戸を見つけるのもすべて明け方なんだな、と。

26.「あぁ!きみの笑い声を聞くの、大好きだ!」

 21章から死の予告は始まっている。五千本のバラに向かって、君たちのためには死ぬことができない、と述べているのだ。そして26章の毒という言葉、王子様自身が死という言葉を2度口にする。語り手は、壁から落ちてきた王子さまを受け止めて、猟銃で撃たれて息絶えようとしている、鳥の鼓動のようだと感じている。

 王子さまは語り手に出会った瞬間に、機械の壊れてたところが分かってうれしい、という。普通に考えれば飛行機のことであるが、これを語り手自身の精神だと捉える本もある。2章でエンジンのどこかが壊れた、と言っているが、ここから砂漠の中で王子様と数日間を過ごし様々な発見と気づきと学びを繰り返し、彼の中で壊れていたところが分かった、とする説である。

王子さまが見たのは飛行機でなく語り手本人であり、本質を見たのも語り手の本質を見ているのだろうから十分あり得る仮説である。

 地球にきてから一年経った、同時に語り手は王子さまを必要としなくなった。そうして王子さまは帰るのである。

 そうして王子さまは、語り手に星を送る。ここで語り手の王子さまに対するメタファーが空の星々になるのだ。「君には星という星が全部笑ってるみたいになるってこと」「きみはぼくのずっと友達だもの。これからも一緒に笑いたくなるよ」

語り手はこの先、星空を見上げるたびに王子さまに会える、そして笑い合うことができるのである。うわ~~~ここはすごく‘星降る夜に出掛けよう‘を感じる。星々のなかで心を通じ合わせる、星々を見れば手なずけられた友人と笑い合うことができる。

 最後に王子さまはバラに対する責任があることをもう一度表明する。彼は、この物語における探索に成功し、その結果を宣言している。
 そうして声も上げずに、ゆっくりと木が倒れるように、くずおれる。

27.<あのヒツジはあの花を、食べたかな?食べてないかな?>

 彼は夜、星々の笑い声に耳を澄ませるのが好きになった。キツネ同様、思い出を得て、語り手は現実世界に帰ってくる。

 おとなには~のくだり。そうして最後に語り手はこどもの立場に戻ってくるんだなと思う。

  • あとがき ※28章ではない。

 王子様のいない無彩色の砂漠の絵は語り手の心象風景である。

この本かったとき、「うわ、さすが大ベストセラーの新訳だけあって手が込んでる!フルカラー装丁だ!」とか思ってたんですけど、作者自身が絵を描いている・色彩でこちらに伝えることがあるという点においてこの本の挿絵はめちゃくちゃ重要なんだななどと思った。

王子様とは

  • もともと「不思議な雰囲気の小さな男の子」「輝くばかりに愛らしかった」としか語り手は王子さまについて使っておらず、作中でなぜ彼が「王子さま」に関して一切の説明がない。彼が自分を王子さまに規定するのは20章の泣き伏しているときのみである。

  • 王子さまはまず、声で登場する。次いで第3章ではとてもかわいい声で笑い出したとあり、そうして最後の贈り物として星々とそこから聞こえる笑い声を残していく。

  • 王子さまはこどもなのか。子どもらしいかわいさを見せるものの、とにかく特異さが先に際立っている。砂漠の中において、何も恐れていない。また、夕陽のエピソードで憂鬱な地面を覗かせる。エンジンが直った際には、作業に成功したことを知っている、すべてを知っているようにも見える。子どもの外見をまとっているが、経験は必ずしも子どものものではない。むしろこの物語ではおとなしか出てこず、おとなの世界で生きているように見受けられる。問いかけに一切答えない3章も特異さが表れている。

  • 王子様は救世主ともとれる。生命、希望、未来のシンボルであり、生死の境にあるパイロットの目の前に姿を現すのである。語り手は同時に王子さまが星に帰ったことを確信しており、語り手の中で、そして読者のなかで永世的に生き続けるのである。

  • 一つの神秘である。砂漠のなかで彼は魔法のように現れている。自己と真理を探し求めて、知恵と無知を合わせ持った彼はその能力を活用して質問を投げかけ続ける。

  • 読者は語り手にしばしばサン・テグジュペリを見るが、王子さまにもサン・テグジュペリ本人の要素はいくつかひそんでいる。金髪の幼いアントワーヌは‘太陽王‘と呼ばれ、かわいがられた。わがままなこどもだったが、彼は大人になってもわがままだったとも言われている。

  • 最後の王子さまはサン・テグジュペリの弟を想起させることもある。14歳で亡くなった彼の弟は、死の床につきながら「こわくない、苦しくなんかない」と言い続け、「これは単に発作を止めることができないだけ。体がやっているだけ」と言う。

語り手と王子さまの関係についての考察

  1. 自己との対話。もしくは大人であるパイロットが小さいこどもだった頃の自分自身との対話:どちらの人物像もサン・テグジュペリに重ねられることによる。

  2. 父子関係:地の文では語り手は王子さま、と呼ぶものの、声をかける際はぼうや、と呼びかける箇所がある(もしくはきみ)。また別れの間際で王子さまを宝物のようだと例え、守ってやらねばならないと考えている。

  3. 逆転した父子関係:この物語は王子さまの成長物語なわけだが、同時に語り手は多くのことを王子さまから学んでいく。語り手にとっても成長物語の体をなしている。王子さまは物語のはじめから終わりまでおとなから教えを受ける者ではなく、おとなに教えるものとしてあらわれている。

星の王子さまその他

  • 有名な話だが、タイトルを直訳すると「小さな王子」となる。最初の翻訳者である内藤濯氏の発想によって日本語訳は「星の王子さま」として親しまれている。

  • 韻について。サン・テグジュペリは若いころ、友人との文学談義において「リズムを間違えるぐらいなら、フランス語を間違えた方がマシだ!」と言い放っているが、この本こそ韻を大事にされた本である、という指摘さは多い。その証拠にテキストを朗読したCDがフランスでは多く売られている。テキストのなかでも重要な文章が繰り返されていることにより、歌のようなリズムを感じさせると。

  • 決定稿に収められなかった部分がいくつか存在し、その中にマンハッタンが舞台のものもある。50階建てのビルに覆われたら人類全体がマンハッタンに住むことができる、と。

  • 「死、それは私にはどうでもいいことです」と1940年台の手紙には書かれている。

  • 2000年に王子様のマントの色は緑に統一された。

日本語訳文はたくさんある。今回使用したのは河野さん訳だが、解説文は内藤氏のもの(初訳)を使用したものがかなり多い印象を受ける。

参考・引用文献

  1. サン・テグジュペリ作 河野万里子訳:星の王子さま、新潮文庫、2006

  2. クリストフ・キリアン著 三野博司訳:星の王子さま百科図鑑、柊風社、2018

  3. 三野博司:「星の王子さま」辞典、大修館書店、2020

  4. 鳥取絹子:『星の王子さま』隠された物語 サン・テグジュペリが伝えたかったこと、KKベストセラーズ、2014

  5. マリーズ・ブリュモン 三野博司訳:『星の王子さま』を学ぶ人のために、世界思想社、2007

  6. 塚崎幹夫:星の王子さまの世界、中公新書、1982

  7. 北杜夫:大人のための「星の王子さま」、KKベストセラーズ、2000

  8. 小野寺優:星の王子さまとサン・テグジュペリ、河出書房新社、2012


マジで好き勝手書いてめちゃくちゃ楽しかったです。ここまで読んでくださる方はそうそういないと思います。もしいらしたらこんなに人に読ませる気の無い文章を読んでくださって本当にありがとうございました。

ビートルジュースもやりたいんだけど(???ブロードウェイミュージカル作品で何をするのか)まだチケットがご用意されてないんですよね。
⇒ご用意されたしやりました


(2023/10/1追記)再編作業してて、なにもかも忘れてることに気付いてウケました。ちょこちょこ解説と本文読み直してから行きたいです。

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