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ピカソのおいちゃん
小学5〜6年生の頃に、「101回目のプロポーズ」という武田鉄矢と浅野温子主演のドラマが流行った。とにかく武田鉄矢の顔が面白くて観るようになったのだけれど、小学生のハートも鷲掴みするような「大人の恋」というよりも「子どもの初恋VS大人の恋」のような内容に、どハマりした。そういえば武田鉄矢の顔は、典型的な福岡顔だなと思う。ウチの親父の顔はそこにより一層の野性味を加えたような趣なので、なんとなくそんな所にも惹かれたのだと思う。「あー、親父も笑うとこんな顔になるんだろうなあ」とか「あー、親父も不死身を誇示する時にこんな顔をするんだろうかなー」とかそういう感じ。
そしてもちろんテーマソングはCHAGE&ASKAの「SAY YES」で、一世を風靡した当時は大好きなウッチャンナンチャンもCHAGE&ASKAをコントにしていたのも助けて、俺は完全に虜になってしまった。
そこで母にその想いを伝えて、初めてのCDを買う事になったのだけれど、当時小学生だった自分からしてみると、CDショップなんて「大人の場所」というイメージで、ああついに自分の大人化がはじまってしまったのかと、なんだか早めにきた思春期のような気持ちに、1人でこそばゆくなっていた。そして当時はよくあった個人経営のCDショップ「ピカソ」に、母に連れられて行く事になった。まだあるのかな、ピカソ。息子の太郎くん元気にしてるかなあ。
コンクリート打ちっぱなしのオシャレな店、ピカソ。清潔感と落ち着きのある照明、ピカソ。優しいおじさん(以下、ピカソのおいちゃん)が営む素敵なCDショップ、ピカソ。この後にも何度となく訪れ、俺のお年玉の大半を吸い取って行ったピカソに初めて行ったのはこの時だった。
初めての緊張感と、どう振る舞って良いかわからない居心地の悪さと、当時から人見知りだった自分のあの感じと…色んな事を思い出す。今こうして頭の中に見える店内のイメージでは、レジのカウンターが高い位置にあったような記憶があるって、当たり前だけど本当にあの頃は小さかったんだなあと、なんだか不思議な感覚を覚えながら書いているのだけど、そんな事より当時の自分のあの感じが一番よく分かるのが、ピカソのおいちゃんに
「何のCD探しよるん?」
と聞かれて、自分がよく考えたらタイトルを知らなかった事だと思う。CDを買うなんて文化的な事はそれまで考えた事もなく、しかもハートは熱すぎるほど熱く、「大人の感じ」にドキドキするばっかりで、全く頭が使えていない浮き足だった状態。そういう自分にハッと気づいた時の恥ずかしさは、今でも繰り返し経験している事で、そこは全然変わってない。無成長人間。
タイトルは分からなかったけれど、製作者の名前だけは分かっていたので、
「CHAGE&ASKAの1番新しいやつやと思うんですけど…」
と伝えた。優しいピカソのおいちゃんが「これかねえ?」と言って持ってきてくれた1枚のシングルCDを買って、急いで店を出た。とてつもない大人な買い物をしてしまった事に対する羞恥心のようなものから解放された喜びと、欲しかった”例の最高にカッコいいやつ”を買った喜びとで、帰りの車の中はうるさかったに違いない。有頂天になった男子小学生を抑制する事は、そう簡単ではなかったはずだ。
帰宅してすぐに部屋に行って、ライサ(最高なシベリアンハスキー)の散歩で手に入れたばかりの小さいCDプレイヤーをセットし、ベッドの上であの細長いシングルCDのケースを開いて歌詞を読む準備をし、曲が始まるのを待った。そして遂に大人の瞬間を迎える時がきた。
「…。」
「…違う曲やないかこれは。」
ピカソのおいちゃんは確かに言った。早足で去る俺の背中に向かって
「CHAGE&ASKAの1番新しいやつやったら、それやと思うから大丈夫よ。」
と。確かにそう言った。しかし、CDプレイヤーのスピーカーから流れてくるその曲は、全然知らない曲。イントロも違えば歌い出しも違う。「余計な〜」じゃなく「君に〜」。こっちは「よ」を待っていたのに、耳に飛び込んできたのは「き」だ。「よ」を待っている人間が「き」に気づかないわけはない。もしかしてB面?裏返して再生すれば良いの?などと色々と考えてはみたが、歌詞を読んでみても、全然違う。…俺は知らないその曲を聴きながら、返品への漠とした不安、もしくはもう1枚買ってもらえるのかという親への漠とした不信感の中で、肩に重くのし掛かる疲労感と虚無感に少しも動けなくなっていた。
結局、返品ではなく新しく「SAY YES」をもう1枚買ってもらえる事になった。なぜならば、母親も俺と同様にCHAGE&ASKAを好きになっていたからだし、間違えて買ったそのCDに収録されている曲も良いものだったからだ。というか、むしろ間違えて買った1枚があったおかげで、「SAY YES」が良い曲だという印象から、CHAGE&ASKAが凄い人たちなんだという印象に変わり、それ以降数年に渡りピカソにお小遣いやお年玉を吸い取られる日々のきっかけになったくらいだ。
そして俺は今、音楽家をやっている。全てのはじまりはCHAGE&ASKAだ。いや、はじまりはピカソのおいちゃんだったのかもしれない。とにかくあの時、はじめて買ったCDというのは
「はじまりはいつも雨」
だ。
…ただ、分かる人には分かる事だけれども、これはCHAGE&ASKAの曲ではなくて、ASKAがソロで出した曲だ。ピカソのおいちゃぁ〜ん!!「SAY YES」あんなに流行ってたやんか〜!!