昔の地球【環境問題小説】
玄関先に立った7歳になる息子が私の方を見て、ニコニコしている。私はその小さな顔の鼻と口を塞ぐ空気清浄マスクを付けてあげる。
それを少し遮って、息子は相変わらずニコニコしながら唐突にこう聞いてきた。
「パパ、昔の地球はどんなところだったの?」
それはあまりにも深く長く、一言で答えることはできない質問であった。私がこの星に生まれてから50年と経たないのに、私が小さな頃生きていたこの星はもう姿を変えてしまった。なくなってしまったようなものだ。散歩に出るために空気清浄マスクなんてしなくても良かったあの頃の話を、そろそろ7歳になる息子に私はやはりしなければいけないだろう。
「公園に行って座って話そうか」
息子は頷いて、私はマスクを装着した。そして、胸に会話ボードを付けた。マスクを付ければ声は聞こえづらくなり、胸につけたボードに言葉が現れるようにしておかなければ、会話などできない。
私は二段式の扉を順に開けて息子と共に外に出た。青い空も白い雲も昔のままのように思えた。太陽が照らす道も街路樹も道を走る車も、そのほとんど全てが昔と何ら変わらないと思う。そこを息子の手を引いて私は歩いていく。公園まで10分ほどである。横を歩く人と会話はできない。昔と違うのはそういうところだ。何となく昔一番大事なのではないかと思っていた、そんな些細なことに限って失われてしまったように思う。
公園に着いて、面と向かえる椅子に座った。3人の子供を連れたお父さんが砂場で一緒になって服を汚している。そういう所も昔とあまり変わっていないように思う。
ヤヤは行儀良く座っている。ヤヤの目はいつも奥の方に輝きがあって、笑窪は笑わずともくっきりしていて、地面に付かない足をバタバタさせながら、なぜか手を膝に置いて行儀良く座っている。透明な空気清浄マスクはヤヤの息を教えるように曇っては消え、曇っては消えを繰り返している。そのせいで表情は半分見えないけれど、それでもヤヤがニコニコしているのはよく分かる。
「ヤヤ、昔の地球は今とそんなに変わらなかったんだよ。朝、太陽が台地を暖めた頃に目を覚まして、カーテンを開けて日の光を浴びて、顔を洗って朝ごはんを食べるんだ。それで皿を洗って、みんな思い思いに出かけるんだ。学校とか仕事とか買い物とか遊びに行ったりね。全部終わったら家に帰ってきて、夕方になったらご飯を作って夜ご飯を食べて、家族みんなと話すんだ。今日は何があったかをね。学校で友達と喧嘩したとか、綺麗な鳥が飛んでいたとか、仕事で少し褒められたとか、そういうちょっとしたことをね。それが終わったら風呂に入って寝るんだ。今と何も変わらないでしょ。
変わったのはね、小さなことなんだ。昔は玄関のドアは一つしかなくてね、それはまぁ二つもいらなかったんだね。それから、学校に行く時も今みたいにマスクなんてしなくて良かったんだ。友達の顔ももっとよく見えたし、一緒に歩いてる人ともっとたくさん話すことができたんだ。学校についたらカーテンを開けて窓も開けてたんだ。体育っていうのは外でもやっていたし、学校のみんなとピクニックに行ったり、プールの授業も外でやってたんだ。
先生達はヤヤに、外は怖いから一人で行ったらダメだっていうでしょ。でも、本当は怖いところではなかったんだよ。暖かい日も雨の日も、外はいつも自由で広くて優しいところだったんだ。雨が降ると雨の匂いがして、春にはほんのり花の香りがして、秋には金木犀が外に出た瞬間どこからか匂いを飛ばしてくるんだよ。それがちょっとだけ楽しくてね、楽しみにしてるみたいなところもあるんだ。今はそういうことはできないね。雪が降ったらそれを浴びて、雨を浴びたかったら浴びてたよ。外って言うのはそういうところだったな。
休みの日になると、家族で山登りをしたり、海に泳ぎに行ったり、釣りに行ったり、キャンプをしたり、全部そういうのは楽しみだったな。今もそうだけど、前はもっとこう自由だったかな。空気がもっと綺麗だったんだ。それだけが違うことかな。
何で空気が綺麗でなくなってしまったのかって?そうだよね、そう思うよね。地球という星はとてつもなく大きくて、海の上にも陸の上にも有り余るくらい空気があって、それは陸や海とその間を満たしてるんだ。そしてずっと循環してる。ヤヤが吐いた息はどこかに消えてしまう訳ではなくて、地球のどこかまで行ってまた戻ってくるかもしれないし、また誰かがその空気を吸うんだ。地球はとてつもなく大きいけど、全て繋がっていて一つなんだよ。植物も動物も、もちろん人間もね、みんな同じ空気を吸って吐いて、それを繰り返してるんだ。信じられないかもしれないけど、海の中にも空気はたくさんあって、土の中にもあって、空気は地球の生き物たちには必要なものでみんなそれを分け合って使ってるんだ。
僕たちのせいなんだ。僕たち人間のせいなんだ、空気が綺麗ではなくなってしまったのは、きっとね。ヤヤ達のせいではないよ。ヤヤが生まれるずっと前から、つまり僕が生まれる前から人間が発展というもののために、地球を汚していることは問題だと言われてたんだ。当時は外を走る車が黒い煙を出して、電車も黒い煙を出して、工場も家も煙突から黒い煙を出してたんだ。でも、そういうのは良くないからって人間はみんなで協力して、地球を汚さないようにしようって決めたんだ。人間は頑張ったんだ。みんなで協力して空気を汚さないように取り組んだんだ。黒い煙は出なくなったし、変な水が海に捨てられることも減ったんだ。人間は本当に頑張ったんだと思うよ。自分たちが吸う空気のために、そしてヤヤたちみたいに将来を生きる子供たちのために協力したんだ。
でもね、全然足りなかった。頑張ってたと思うけど、全然駄目だった。黒い煙は出なくなっても汚れた煙を出してることは変わらなかったんだ。見てもわからなくなったら、解決したように言う人たちもいた。世界中の国や人がみんな頑張って取り組んだわけではなかったんだ。工場から汚れた空気を出し続けた国もあったし、それが楽だからわざわざその国に行って工場を作った会社もあった。空気が綺麗だって嘘をついて毒みたいなものを空に向かって出していた人たちもいる。みんな最初は少しだけ頑張ったけど、多くの人が途中からやる気がなくなってしまったんだ。隣の人がちゃんとやってないなら自分もやらなくていいって言ってね。ゴミを土に埋めて無かったことにした国もあったし、そのゴミを他の国に持って行って捨てる国もあった。自分の国は綺麗だと言い張る人たちもいた。でもね、地球はとてつもなく大きいけど、全て繋がっていて一つなんだ。だから、自分の国が良いって言ってても意味はなかったんだ。道端でゴミを全部燃やす国もあったんだ。ペットボトルもビニール袋もナイロンも何も関係なく、全部道端で燃やしていたら、その空気がどんどん空に溜まっていくんだ。それがいつかあちこち回って、ヤヤが吸う空気になるんだ。だから、そんなことしたらダメだったんだよ。でも、みんな辞めなかった。それが楽だったからね。お金もかからないし、時間もかからないし、手間もかからないし、だから辞めなかったんだ。
みんな口先では子供たちのために、将来のためにって言ってたし、頭ではそれを分かっていたんだけどね、でも辞めなかったんだ。
海にたくさんゴミを捨てる人もいた。小さな小さなプラスチックが海の中にたくさん集まって空気と一緒に空に登っていくんだ。それを人間がいつか吸う空気になるのに、それをみんな分かっていたけど、辞めなかったんだ。
でも、それでもいつも頑張っていた人もいた。隣の人や家族とか友達が、ヤヤたちのために頑張るのをサボる中でも、ちゃんと毎日頑張る人もいた。地球が汚れないように気をつけることはそんなに難しくはなかったんだ。少しお金と時間と手間がかかった気もするけど、そんな大したことじゃなかったんだ。だから、ちゃんと頑張り続ける人もいた。
僕もそれなりに頑張ったんだよ。周りの知っている人が全然頑張ってないのに、自分だけ頑張るっていうのは難しいことなんだよ。頑張ってるのを褒めてくれたり、認めてくれたりする人がいなかったら、自分で自分を褒めることしかできないからね。でも、それでも、自分が自分に約束して、それを守ることは大事なことなんだ。
ヤヤ、友達の悪口を言わないって、この前お母さんに言ってたでしょう。そういう約束を守ることは難しくても面倒でも大事なことなんだ。
でもね、そういう人が少なすぎて、会社も国も世界中の人たちもイマイチ頑張らなくて、空気はどんどん汚くなってしまったんだ。変な風邪をする人が増えて、身体が弱い人が体調を崩すようになって、みんな何かおかしいって言い始めたんだ。それが人間の活動のせいだって一部の人は分かっていたけど、それをみんなが知ったのはだいぶ後だったと思う。偉い人たちはそれを隠してたからね。
みんなが汚れた空気を出すのを辞めなくて、それがどんどん空に溜まっていくうちに、地球はちょっと壊れちゃったんだ。汚れちゃったんだ。だから、今の地球にいる僕たちはこのマスクをしないといけなくなってしまったんだ。空気が汚れちゃったんだよね。
お母さんと僕はたまたま元気だった。早いうちから、色んなことに気を付けていたからかもね。それか、地球のために頑張っていたから神様がご褒美をくれたのかもね。だから、ヤヤは生まれたんだ。奇跡なんだよ。ヤヤみたいに元気な子が生まれたのは。
ヤヤ、ヤヤはきっと地球が昔そんな世界だったって言うのは信じられないでしょう?そりゃそうだよね。僕らもね、昔は今みたいな世界が来るなんて信じられなかったよ。地球が汚れていくのは良くないって知っていたけど、それがどれだけ深刻なことか全然分かっていなかったんだと思う。
世界はね、そんなたくさん変わったわけでは無いんだ。同じところもたくさんあるし、不便になったことも多いけど、それでも良い所が全部なくなったわけではないんだ。世界は一気に変わったわけではないんだ。でも、確かに変わってしまった。僕らはそれをちゃんと反省して、後悔して生きないといけないと僕は思ってる。」
ここまで話すのをヤヤは相変わらず行儀よく全部聞いていた。読んでいたと言った方が正しい。ヤヤは表情を変えていない。
「パパ、頑張ったんだね。」
「へ?」
「パパ、誰も褒めてくれなくても頑張ったんだね。」
「……あ、うん。」
「パパ、すごいよ。ヤヤが褒める!」
ヤヤがニコニコしながらそう言う。目がキラキラしているヤヤがそう言う。
「でもこうなっちゃったんだよ?ごめんね、ヤヤ。何もしてあげられなくてごめんね。」
私はヤヤの優しい言葉に泣きそうになりながらそう答える。
「良いよ。ヤヤは今の地球も好きだよ。」
ヤヤは何でそんなに優しいのか分からないが、ニコニコしてる。私は涙を堪えて、ヤヤに負けないくらいニコニコを返した。ごめんねを、あと何十回も何百回も言いたかったけれど、それを辞めてニコニコをヤヤにあげた。
「ヤヤありがとう。」
そう言うのが精一杯だった。ヤヤは、私のボードを指さしながら
「パパ、赤だよ。」
と言った。ボードの右上が赤く点滅している。ボードの充電が無くなってきたようだ。家に帰って充電しなければいけない。昨日は天気が良くなかったから、少し家の電気が足りていなかったのかもしれない。
「よし、帰ろうか?」
「うん、帰ろう。」
ヤヤはぴょんと椅子から降りて、私の手を握った。いつの間にか、砂場で遊んでいた親子も帰っていた。
昼間の月が微かに見えていた。昔はもっとくっきり見えていた気もする。そう思うのは歳をとった私の目が悪くなったせいだろうか。そう言えば、あの頃も一部の人は月や星が見えなくなってきていると言っていた。でも、誰もそんな話を相手にしていなかった。
ヤヤは今の地球が好きなのか。私も早く今の地球のことを昔の地球くらい好きにならないといけないのだろうか。そもそも、地球が好きかどうかなんて考えていることが、昔から考えると変なことかもしれない。
家に着いて、空気清浄マスクを外した。ヤヤがニコニコしている顔が全部見えて、私は満足だった。それから、ボードを充電器に挿して手を洗ってうがいをした。
そう言えば、最近、ヤヤは自分で私の両親の遺影に向かって手を合わせるようになった。数年前に、ヤヤと入れ替わるように亡くなった両親は二人とも肺炎だった。肺炎という名の病気は日々増えているらしいが、私の肺はいつまで頑張ってくれるだろうか。
私が私の肺のために頑張れば、きっと肺はその期待に応えてくれるだろう。私がかつて地球のために頑張ったのと同じように。
そうさ、きっと地球は結構頑張ってくれていたんだと思う。それでも、それに耐えられなくなってしまったんだろうな。
「そうそう、ヤヤ、今も昔も変わらないのは地球が頑張っているということなんだ。そう思うと、僕も地球は好きなんだ。」
《終》