子の生きづらさの原因は、必ず、親の心にある
情緒未成熟であることを自覚しない親が、社会通念や規範意識、道徳といった四角四面な融通の効かない、通りのいい正義を振りかざすと、子供の心は裂けてしまいます。
たとえば、その親は子供に対して、
悪口、陰口は言ってはいけない、という正義を振りかざしながら、ご近所の人を悪く言います。
家族愛を語るのに、夫婦喧嘩が絶えません。
隠し事は悪い事だと言いながら、子供に隠す事が沢山あります。
子供に真っ直ぐである事を求めながら、自身は曲がっています。
子供に光りであれ、と叱咤しながら、自らは深い影を創ります。
子供には、その言行不一致がバレていないと、その親は思っていますが、
子供は、感じ取って、います。
幼い子供は無力であるが故に、親を慕い尽くす事で生きる仕立てになっています。
幼い子供にとっては親が世界、親が全てなのです。
だから敏感に感じ取ります。
子供だまし、という言葉があります。
子どもをだますときに使うような見えすいた方法を指します。
子供は経験が乏しく、判断がつかない事は沢山ありますから、大人が騙すつもりになれば、騙す事は容易ではあります。
しかし幼い子供は、述べた様に、徹底的に無力な存在であるが故に、親を慕う仕組みになっています。
慕う子供は、経験が乏しく判断がつかず、騙されますし、誤魔化されますが、親の感情には敏感です。
理屈は解らなくても、親のズルさを感じ取ります。
親のズルさを感じ取っても、幼い子供は親を慕う仕立てになっていますから、
気がついてはならない親のズルさを光りの速さで無かった事にします。
と同時に、親に対する疑念、親に対する反感、親に対する怒りを、心の一番奥、
意識と無意識の狭間に隠蔽します。
それも光りの速さです。
言葉や態度に出さなかったとしても、親のズルさは、非言語のメッセージとして子供の白く柔らかな心を容赦なく傷つけます。
子供が親のズルさを無かった事として心の奥に隠蔽しても、子供の心には大小様々な傷が刻まれます。
幼少期は母子にとって、双方の生涯を通じて、唯一の特別な季節です。
双方、と言いましたが、この季節に母子に心理的な隔たりはありません。
隔たりが無いから、母子一体の特別な季節、なのです。
子供の心に問題が有る時その根は、必ず、親の心に伸びているのは、
幼少早期は、母子に心理的な隔たりが無く、一つだから、です。
親の心の不健康は、子供の心を傷つけるのです。
言葉に出した、態度に出した、暴力をふるった、といった次元ではありません。
非言語的なメッセージこそが問題なのです。
非言語的なメッセージは、親の心で造られます。
子の心の問題の原因が、必ず、親の心にある理由です。
その親は感情が滑らかに動いていません。
どうして、そうなったのかについては、本記事では、触れませんが、
感情は常に動いていて然るべき仕組みになっています。
思考は必要な時に限定的、集中的に活性化する仕組みです。
しかし、感情が滑らかに動作しない人の、思考、は動き辛い感情を補って、常に動く様になります。
すると、その人は思考一辺倒の人になります。
思考一辺倒の人が親になったら、子育ても思考一辺倒のステージです。
先に述べた、母子が一体になるべき幼少早期も、慕って止まないその子の感情は宙に浮きます。
母親の感情が滑らかに動かず、子供を受け入れる事が出来ない為です。
つまり、特別な受け容れの季節に、その子は否定され、拒絶され続ける事になります。
親はその事に気がつきません。
感情が動いていないから気がつきません。
思考一辺倒だから気がつく事が出来ません。
気がつかないばかりか、自分は子育てが上手である、と悦に入ってさえいます。
ここで叱ればこの子はこう思うだろう、
ここで褒めたらこの子はこう動くだろう、
そう脳内でシュミレーションした通りに動く我が子を見て、自分は子育てが上手だ、と悦に入るのです。
しかし、それは無条件に受け容れられて然るべき特別な母子密着の季節に、受け容れを拒否されたその子が、
必死にしがみつこうとする事によって、上手な子育て、に見えている、という事に、その親は気づきません。
ここで褒めたら、ここで叱ったら、この子はこう動く、というシュミレーションが、
その子を尊重する事とは真反対の、コントロール、であるという事がその親には解りません。
ママ友に、子供の上手な褒め方、叱り方を指南さえします。
「どうやったら、こんなにイイ子に育つんですか?」
というママ友に、
「こういう時はこう褒めて、こんな時はこう叱って、逃げ場を作ってあげる事も大事なの。」
と答えます。
自分は子育て上手だ、と悦に入っている、という事にも、
その叱り論、褒め論こそがコントロールだという事にも、
その子育てが、子供の心を傷だらけにする事で成り立っている事にも、
子供の痛みや悲しみにも、
気がつく事がありません。
感情が鈍麻して、思考一辺倒になっているから、気がつきません。
自分は愛情深い親だとすら思っています。
「結果として、ウチの子はずっといい子で、学校であった事も全部話してくれる様な親子関係で、反抗期すら無かったんです。」
と、胸を張ります。
本来、未成熟で我が儘であって然るべき年頃に良い子である子は、
限界まで我慢している子、である事を、その親は感じ取る事が出来ません。
学校であった事を全部親に話す子が、自他の感情を分ける心理的境界線を破壊されている事を、その親は感じません。
反抗期が無い子は、自分として生きていない事を、その親は気がつきません。
親が思う良い子の枠組みに、
エゴという彫刻刀で、
その子の心を削って、
無理矢理押し込めたのは、
親である、という事に、
せめて今、
気がついて欲しいのです。
歪なカタチになってしまう親子関係には、
心のこと、の残酷さを感じますが、
親の心が健やかになれば、
子の生きづらさが消え去る事には、
心の仕組み、の優しさを感じます。
子の生きづらさの原因は、
必ず、親の心にあります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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