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ネガティブからの報酬を受け取っていないか

人はネガティブに惹かれがち、です。

放っておくとネガティブに傾くのが人という生き物なんだそうです。

火事やケンカに野次馬が群がり、

有名人のスキャンダルでワイドショーの視聴率が上がり、

SNSでも失敗、失言をした人に誹謗中傷のコメントが殺到します。

人はネガティブに吸い寄せられ易いのです。

その基本的な特質は、心に大きな傷を負っているか否かに関わらず、
人には、その様な傾向があると思って良さそうです。


あくまでも諸説ある中のひとつの説なのでしょうが、

太古の昔、他の動物と比べると、運動能力や戦闘能力に劣る人間の先祖が生き抜くには、

知能をより発達させ、群れを形成すると同時に、

危険をいち早く察知する為に、用心深くなる、臆病になる必要が有ったので、

ネガティブ寄りの特質になり、発達した知能はその増幅装置の役割を果たし、

ネガティブを察知するばかりか、ネガティブに惹かれ、ネガティブを楽しむ様になった、と言います。

説の正誤はわかりませんが、

確かに、バンジージャンプやスカイダイビングにお金を払うのも、

絶叫マシンやお化け屋敷に長蛇の列を作るのも、

好き好んで、恐怖と言うネガティブ感情を味わいたい訳ですから、

辻褄は合います。


基本的にネガティブに惹かれる私達ですが、ここで、個々人の心の状態によってネガティブ感情との付き合い方に違いが出る様に思います。

個々人の心の状態とは、
起きる出来事と、自分の存在価値は無関係であり、何が起こっても「自分には価値が有る」という自分に対する「安心感」が有るか、

心に「自分には価値が無い」という「無価値感」の思い込みが貼り付いていて、自分の存在に「安心感」が無く、起きる出来事に直接的に自分の存在が脅かされてしまうか、

という違いです。


自分の存在に「安心感」が有ると、自ずと余裕が有ります。
視野を広く保てます。
起きる出来事に呑み込まれません。

自分の存在に「安心感」が無い場合は、余裕が無く、追い詰められた悲壮感が有ります。
視野が狭くなり、
起きる出来事やネガティブ感情に、どうしても呑まれてしまいます。

ポジティブが良くて、ネガティブが悪いなどとは思っていません。

心の在り方に善悪、正誤、優劣は無いと思っています。

私達は生物の種としてネガティブ方向に向きやすく、その中で自分の存在に対する「安心感」がどの程度有るかによって、

グラデーションになっている
「ポジティブ↔ネガティブ分布図」の、
どの辺りに位置するか、に違いが有るというお話しです。

特性として、ポジティブな感情(嬉しい、楽しい、好き等)は快い感覚で、
ネガティブな感情(悲しい、怖い、寂しい等)は不快な感覚を覚えます。

それでも、先に触れました様なバンジージャンプや絶叫マシンで恐怖を買い、
時にバッドエンドの映画や、別れをテーマにした楽曲に涙します。

本質的にネガティブに惹かれる私達は、好き好んでネガティブを味わう訳です。

ただ、代表的なネガティブ感情を思い浮かべても、
悲しみ、怒り、恐怖、寂しさ、等など、

長く味わい続けるのは、苦しい感情ばかりで、個人的には、時折、味わうのが良いと思っています。

しかし、本人には自覚が無いことが多いと思うのですが、

どっぷりとネガティブ感情に浸ることを選ぶ人は沢山います。

ネガティブ感情は苦しいのですが、その人にとっては、苦しさよりも魅力が勝っている、と言えるでしょう。


友人、家族、親類など親しい人の訃報を聞いたとします。

誰しもショックを受けると思います。

親しいとは言え、何らかの事情が有って仲が良くなかったとしても、衝撃は小さく無いと思われます。

何ら特別な事情が無ければ、親しい人との今生の別れは、最大級の悲しみを感じるでしょう。

しかし、ネガティブにどっぷりと浸っていない人は、

失った人がどんなに親しい間柄であっても、その人と自分を同一視することは無く、自分は自分、その人はその人であることを知っています。

ひとしきり悲しみ、共に過ごした時間を思い出し感謝します。
そのとき、フォーカスは自分の人生から、失った人と共有した時間に移るでしょう。

そして前を向きます。
自分の人生に再びフォーカスします。
自分の人生を再び歩き出します。

訃報を聞いたのは、お昼前で、朝はトースト1枚を牛乳で流し込む様な食事でした。

ショックで昼食を食べることすら忘れていましたが、

自分の人生にフォーカスをもどしたら、お腹は空きます。

あいにく気の利いた食料は家に無く、カップラーメンを、すすります。

早朝にトーストを食べたきりだったので、カップラーメンは美味しいのです。


一日の中で、打ちひしがれたり、お腹が空いたり、心理的には忙しい、さながら悲喜劇ですが、

生きている限り、お腹は空くのです。


失った悲しみから、何日も食事をとらず、寝込んでしまうことを愛情深いとする捉え方は、私は少し違うのかな、と思っています。

冷たいと思われるのかも知れません。
起きる出来事と割り切ることばかりが良いのだ、とは言いませんが、

得てして、出来事やネガティブ感情に呑まれることを、美化することが有ると思っています。

その捉え方は、ネガティブから報酬を得ている状態で

自分の中に「生きづらさ」を見つけて、それを手放し、
「安心感」を育てたい、と願ったとき、

ネガティブからの報酬は受け取らない、と決める必要がどうしても有ります。

例に挙げた、親しい人を失ったときに限ったことでは無く、

何か出来事が起きたなら、

自分は
ネガティブに呑まれていないか、

呑まれることを望んでいないか、

ネガティブからの報酬を受け取っていないか、

受け取る為に、口実を作っていないか、

注意深く探って欲しく思います。


受け取る為の口実は、

妙に優しく、やたらと綺麗な様相です。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム







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