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向上心は他人軸? 変革の時を粛々と生きる
変革の時
時代は、かつて無い変革の時を迎えている、と言われています。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。
資本主義の根幹が揺らいでいるのは、紛れもない事実だと思います。
正確には、もう随分前から揺らいでいたものを、帳尻を合わせ、帳尻が合わないことは、強引に、揺るぎ無いかの様に見せていたのでしょう。
この膨張し続けることを前提とした経済の仕組みは、いつしか実態があやふやになり、空洞化しているのに、あたかも問題無く回っているかの様に見せかけてきました。
一旦、綻(ほころ)ぶと、次々と矛盾があからさまになっていきます。
本当に根幹が危ういことに、庶民が気づき始めているように思います。
自分軸、他人軸
人の心の問題は、時代の流れに左右されます。
不安定な時代は、不安定な家庭を産み、不安定な人を造ります。
時代が変革を迫られる時、人も変化することを余儀なくされるのです。
昨日までの常識が、非常識になることさえ、あるのです。
膨張し続けることを宿命付けられた時代、に生きる人々は、向上し続けることが至上命題になりました。
今に満足してはならない。
それは、堕落であり、怠惰であるという風潮が、確かにありました。
この先、世の中がどのように変わっていくのかは、分かりませんが、変わらざるを得ない時を迎えたことは確かです。
世に連れて、人の在り方が変容することは必然です。
世が膨張することを宿命付けられ、人は向上することを至上命題とされたことは、前述しました。
テープ式心理学では、人は生まれた時、誰もが例外なく、
満ち足りて、
幸せで、
美しく、
愛そのものである存在、と定義します。
これは原型、アーキタイプと呼ばれます。
誰もが皆、存在するだけで価値がある、という捉え方です。
照らし合わせると、向上しなければ、ならないという人の在り方とは、真逆の様にも受け取ることが出来ます。
もちろん、そのままで価値ある存在だから、怠惰でありなさいと言うことではありません。
人は、そのままで価値があると認識出来ると、自分にこの上ない「有価値」を感じます。
この「有価値」感は、様々なポジティブな感情を造り出します。
「有価値」感に満たされた人は、ポジティブな感情である純粋な好奇心を持ちます。
この好奇心を推進力に、様々なことに取り組む様になります。
生産的、非生産的に関わらず、純粋な好奇心の趣くまま、各々が様々な方向を目指すのです。
有価値感に満たされた人が、怠惰であり続けることは、難しいと思います。
なぜなら、満たされた人は、行動の原動力である好奇心を持つからです。
ただ、その好奇心が生産的な事柄に向くか、非生産的な事柄に向うかは、別の話しです。
それは、多様性と言えます。
向上することが至上命題の人は、目標を設定します。
好奇心を推進力にする場合もあるでしょうが、大半が目標達成のための手段に取り組みます。
目的は、地位、名誉、名声、富などなどを得ること。
先ほども言いましたが、好奇心に突き動かされて、或いは、手段に取り組むうちに、途中から好奇心が湧く事もあります。
とはいえ、ほとんどの場合は、結果に重きを置き、得られる果実にフォーカスします。
動機は、積極的な人は競争心、虚栄心など。
消極的な人は、負ける恐怖であったりします。
ここに挙げた、動機、
競争心には、競う相手が居ます。
虚栄心には、羨まれる相手が必要です。
負ける恐怖にも、争う対象が在ります。
全部、他人が居ないと成り立たないものです。
自分軸、他人軸などといいますが、向上することそのものを命題に掲げる時、その動機は他人を軸に成り立ちがち、であると言えるのではないでしょうか。
「好きなことで生きていく。」という言葉が流行りました。
湧き上がる好奇心を推進力にしよう、ということだと解釈しています。
好きなことだけして生きていけるなら苦労はない、甘っちょろい考えだ、と切り捨てる論調も有ったりしました。
好きなこと「だけ」して生きる、という意味ではないと思うんです。
自分の内側の興味、関心、好奇心をエネルギーに生きるなら、「好きなこと」の周辺に生じる障壁すら「好きなこと」の一部分と捉えて、淡々と生きることが出来る、粛々と歩むことが出来る、という意味だと考えます。
甘っちょろいという論調には、生きるには、苦労と我慢が必須である、という考えが内包されている様に感じます。
他人を軸に据えて生きる時、目標達成の為の障壁を越えるには、苦労と我慢が必要になるのであって、
軸が自分なのであれば、現れる障壁すら自分の興味、関心、好奇心の範疇であるということです。
そこには苦労と我慢が生まれないということです。
言葉をどう解釈するかは、脇に置くにしても、世の中の空気が、向上しなければならない、高みを目指せ、というものではなくなっているのは確かだと思います。
この空気の変化を経済の停滞による人々の意欲の低下と捉える意見も耳にします。
経済の停滞によって意欲が低下すること自体、軸が自分以外にあるように思います。
自分を軸に据えているということは、諸条件に左右されないということです。取り囲む環境に影響されないということです。
取り囲む環境には、経済の動向も含まれます。
粛々と歩む
時代は今、かつて無い変革の時を迎えています。
世の中の仕組み、経済の構造までもが、問われる契機と言えます。
そんな時代のうねりの中、私達がいま一度見つめるべきことは、すべて、自分の内にあるのではないか、と思います。
世の中がどのような変貌を遂げるのか、わかる人は居ません。
飛び交う評論は、全て予測に過ぎません。
どんなに高名な評論家の意見であろうと、どれだけ世間に影響力を持つ有識者の見解であろうとも、その意見を述べる人の聡明さ、見識の有る無しに関わらず、全て予測に過ぎないのです。
予測不能な、変革期に於ける、ひとつの予測に過ぎません。
つまり、その予測は意味を持ちません。
そんな今、私達が取り組むべきは、取り囲む環境に対して、辛辣な批評を浴びせることでも、正義の判決を下すことでもありません。
心は健やかであるか、
純粋な好奇心に沿って生きているか、
気分は軽やかか、
そして、
本当の意味で、自分の内に軸はあるか、
そういったことを、自問することが、先ず、
求められていると感じています。
変革の時であるからこそ、
粛々と歩む人で在りたい、そう願うのです。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム