賢者のセックス / 第15章 指輪とコンドーム / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと
第67話 惜別
大磯への一泊旅行から戻ったソラちゃんは、それまでとは打って変わって快調に小説を書き進めているようだった。毎晩メッセージで「今日は三〇〇〇字書いた」「今日は二五〇〇字」「二章まで終わったよ」「もうちょっとで三章終わる」といった具合に、その日の進捗を教えてくれるようにもなった。伝奇ものやセカイ系というアイデアは捨てたらしいけれど、どんなものを書いているのかは「秘密」なのだという。
「どこかで見たようなものを追うのは止めたんだよ。いつ何があるかわからないもんね。もしかしたら来週には新型コロナで死んでるかもしれない。これが私が書く最後の小説になるかもしれない。なら、自分は何をこの世に残して消えるのか。消えたいのか。そう考えたら、自然に方向性もこれだって決まった。自分でも狂ってるんじゃないかって思ったけど、これしかないって。これがファンタジー小説なのって思われるかもしれないし、何でこんなものを送って来たってポイッとされるかもしれない。正直に言えば、怖いんだよ。でも、ファンタジー小説の歴史はそんなチャレンジの積み重ねだったはずだからね。私もその歴史に参加したいなって」
久しぶりにお気に入りのエールを飲みながら、ソラちゃんは訥々と語ってくれた。
僕は創作活動をしたことがない人間だから、小説を書くことがどれほど大変なのかはわからない。全く新しいものを書いて新人賞に送るのがどれだけ怖いことなのかも、想像出来ない。セックスと小説のプロジェクトのパートナーとしては、ソラちゃんのやりたいようにやってくれたら良いとだけ思っている。
東京では再び緊急事態宣言が出され、そのまま五月になった。ファンタジー小説の賞の締め切りまではあと二ヶ月。ソラちゃんの小説は「ちょうど三万字を越えたところ。規定の最少枚数の三割くらい」と聞いた。
ということは、全部で一〇万字を書かなければいけないわけだ。僕は卒業論文でも三万二〇〇〇字しか書かなかったから(これでも多い方らしい。他学部は二万字が普通だとか)、一〇万字を一人の人間が数ヶ月で書いてしまうということが信じられない。しかし、僕の傍にもそれに挑んでいる人間がいるのだ。
また、僕たちは以前のように沢山の話をするようになった。春シーズンの新作アニメの話、特撮の話、そしてもちろん古今東西のファンタジー小説の話。
セックスの回数も少し増えた。ただ、僕たちのセックスは大磯に行く前とは少し雰囲気が違ってきていた。強いて言うならば、以前よりもソラちゃんはセックスに対して貪欲になっているように思える。もちろん、自分の快感だけを果てしなく追求するような貪欲さではなく、例えばコンサートの後の手拍子がいつまで経っても鳴り止まないような。そんな貪欲さだ。
去りゆく何かへの惜別のような。
まるで、これが僕たちの最後のセックスだとでも思っているかのような。
そんなソラちゃんの雰囲気の変化を、僕はどう受け止めれば良いのかわからなかった。
わからなくても毎日、朝が来て、夜が来て、ソラちゃんの小説は完成へと日々進んでゆく。五月の一五日には小説は六万字を越えていた。一日二五〇〇字のペースだ。相変わらずソラちゃんは小説の内容については何も教えてくれない。ただ「書き上がったら最初に読んでもらうから」と言うだけだった。
その表情は、僕にはまるで神様の言葉を預かってきた天女のように感じられた。故郷の街が僕たちの夢を見ているのだとしたら、街が僕に風景の幻を見せたのはこのためではないか。この小説を書き終えた時、ソラちゃんは天に帰ってしまうのではないか。そんなことを考えた。
僕にはもう、ソラちゃんを大地に繋ぎとめておくことが出来ないのかもしれない。
でも、仮にそうだったとしても、素直にあきらめてソラちゃんを見送るつもりは僕には無かった。僕は届く限りの遠くまでこの手を伸ばして、ソラちゃんを捕まえてみようと心に決めていた。
それは僕がソラちゃんと共同生活を始めてからこれまでに自覚した、三つめの欲望だった。一つはソラちゃんの身体に触れたいという欲望。その次はソラちゃんに気持ちよくなってもらいたいという欲望。では、三つめのこれはどんな欲望なのだろう。自分でもわからない。ソラちゃんを我がものにしたいというものではない気がする。
でも、とにかく行動しなければならないことはわかっていた。
第68話「一つの指輪」
五月二五日が来た。僕たちが共同生活を始めて丸一年。ソラちゃんの小説は既に九万字を越えているという。何万字で完結するのかはわからないが、書き終わるのもそう遠くない話だろう。
この日はオフィス出勤日だったから、ソラちゃんはいつものイングリッシュブレックファストを食べて出かけて行った。僕は午前中で仕事を切り上げると、近所の花屋で値段も聞かずに「片手で持てる限界の大きさの花束」を作ってもらった。それからソラちゃんのお気に入りの洋菓子店に行って一番値段の張るケーキを2ピース注文し、慎重に家まで輸送した。参考までに、一ピース四四〇〇円である。僕の想定より三三パーセントも値上がりしている。
無事に家までの花束と洋菓子の輸送に成功した僕は、昨日買っておいた一〇〇グラムあたり一七九八円の和牛の赤身肉でローストビーフを作った。前菜としてコーンポタージュとトマトのサラダと焼き野菜も作り、最後にとっておきのロイヤル・ドルトンの食器をテーブルに並べた。
ソラちゃんが帰宅したのは午後六時過ぎだった。僕はリビングルームの入り口で花束を差し出した。ピンク色のバラの間に紫色の小さな花が差し込まれている巨大な花束だ。
「お誕生日おめでとう」
ソラちゃんは「ついに私もバルサの歳になっちゃったね」と言って、笑顔で花束を受け取ってくれた。『精霊の守り人』だ。ここまではお互いに想定内というやつだ。
パイパー・エドシックのシャンパンで乾杯したところで、僕は想定外を開始した。目の前に置かれた小さな箱を一瞥したソラちゃんは、じろりと僕を睨んだ。
「これは何?」
「もう一つのプレゼント」
「開けた方が良いのかな?」
「是非ともそのように」
箱の中身をそっと指先でつまみ上げたソラちゃんは、興味深そうにそれを観察している。
「随分高そうなものだね」
「まあまあ、かな」
「ここ、ダイヤモンドみたいなものがついてる」
「お店の人はダイヤモンドだって言ってました」
「ふーん」
ソラちゃんは丁寧過ぎる手付きで指輪を箱の中に戻して、僕の目を見た。
「他に言いたいことは?」
「ソラちゃんと結婚したいです」
「君が?」
「もちろん」
「なるほどね」
ソラちゃんは不思議な笑いを浮かべた。
「とりあえず食べようか」
それから僕たちはソラちゃんの誕生日を祝うディナーを楽しんだ。ローストビーフはうまく焼けていたし、コーンポタージュもサラダも上出来だった。デザートのケーキは言うまでもない。ソラちゃんはディナーの間、よく笑い、色々な話をしてくれた。いつものソラちゃんのままだった。指輪の箱はダイニングテーブルの上に置かれたままだったけれど、それについての話は一言も出なかった。
そして食器が全て片付けられ、大きなローソクの火が一つ灯っているだけになったテーブルの向こうで、ソラちゃんは居住まいを正して僕を真っ直ぐに見た。
「さてと、それじゃあさっきの続きの話をしよう。私も君と結婚する選択肢はまだ捨てていない。でも、一つ条件がある」
「条件。どんな?」
ローソクの赤い光に照らされたソラちゃんの顔は、本当に魔女のように見えた。
「コンドームを着けずに私とセックスをして、私の中に射精して欲しい。君に出来るかな?」
「……まあ、出来なくもないと思うけど」
「今日、これからすぐにここで出来る?」
「これから、いきなり?」
「そう。いきなり」
「ここで?」
「そう。ここで」
一瞬の沈黙の後、ソラちゃんはふっと笑って言葉を続けた。
「冗談だよ。君の気持ちは嬉しい。私も君のことが好きだ。でもこれは受け取れない。君はもっとまともな女の子と結婚した方が良い。君にはそれだけの価値があるし、これは君だけの問題でもない。君の子供がどんな母親を持つかという話だからね。プロポーズを受け入れる代わりに今すぐ自分の中に射精してくれなんて言い出す女は、私もいかがなものかと思うよ。だから止めておきなさい」
第69話 「永遠とともにあるもの」
僕はしばらくの間、無言だった。次に何を言えば良いのか考えていたからだ。
もちろん、断られることは半ば覚悟していた。僕たちは恋人ではなくて、あくまでもルームメイト兼セックスパートナーなのだ。でも、この断られ方は想定外だった。ソラちゃんの考えていることがよくわからない。
「ええっと、色々とわからないんだけど、まず、何でその、コンドームを着けずに射精ってところにこだわってるのかな?」
「小説だよ」
「小説?」
「そう。私は小説を書き進めていくうちに気づいたんだ。私たちはこれまで色々なセックスをしてきたけれど、唯一やり残しているものがあった。君のペニスと私の膣を直接触れ合わせて、私の中に君の精液を出してもらうこと。これはまだ試していない。そうだよね?」
「たしかにね」
「でも、それをすると私は妊娠してしまうかもしれない。私は良いんだよ。お金ならいっぱい稼いでるし、一人でも子供を育てることは出来ると思うんだ。正直、君の子供なら欲しいしね。でもさ、それっておかしいでしょ。君の都合や子供の都合を無視してる。なのに」
ソラちゃんは寂しそうに笑った。
「一旦それに気づいちゃったら、もう気になって気になって、頭から離れないんだよ。私と君がコンドームを着けずにセックスしたら君は何を見るんだろう。君が私の中に精液を出す瞬間、何が起こるんだろうって。だって、あの街はそれを夢見てたんだから。君に私を強姦させようとまでして。まさに生殖だ。x軸の反対側。コミュニケーションの対極」
それからソラちゃんは目を閉じて、何かを小声で唱え始めた。どうやら英語らしい。呪文だろうか。
「それは何?」
「コリント人への第一の手紙、一三章。標準英語訳聖書」
「何て言ってるの?」
「……もしも私が男たちと天使たちの言葉で語ったとしても、愛とともに語るのでなければ、騒々しい鳴り物が鳴っているのと同じことでしょう。もしも私が神の言葉を聞くことが出来て、全ての秘密と全ての知識を手に入れられるとしても、そして山を動かすほどの信念の力を持っていたとしても、私が愛を持っていなければ、何も持っていないのと同じでしょう。もしも私が貧しい人たちのために全ての財産を投げ出し、焼かれるために私の肉体を差し出したとしても、愛によってそれをするのでなければ、私は何一つ得ることがないでしょう。愛は寛容なもの、そして情け深いもの。愛は妬まない。愛は驕り高ぶらない。愛は見せつけない。愛は粗野にならない」
ソラちゃんは目を閉じたまま聖書を読み上げている。
「……愛は永遠に失われない。預言者はいつか死に、言葉は滅び、知識は消え去るでしょう。私たちが知っているのは一部であり、預言がもたらすものもまた一部なのだから。全きものが訪れた時、断片は消え去ることになるでしょう」
僕はソラちゃんの言葉の響きに引き込まれていた。子供の頃に読んだ本で、こんなシーンがあったかもしれない。でも、何という本だったのか思い出せない。
「信念と、希望と、愛。この三つだけが、永遠とともにあります。でも、この中で一番大切なものは……」
ソラちゃんはまぶたを開けて僕を真っ直ぐに見た。ソラちゃんの瞳は潤んでいるように見えた。
「前に君は、私のことが好き、私を愛してるって言ってくれたよね」
「うん」
「私も君のことが好きだったし、今も好きだよ。君とセックスするのも好き。大好き。君は私史上、最高の男だ。それはかなり前からわかってた。なら、何で私は素直に君の好きを受け入れて、君の恋人になれないんだろうって。それがずっと不思議だった。自分でも。その理由が今、やっとわかった」
ソラちゃんは寂しそうに微笑んだ。
「きっと、これなんだよ。私の中には狂気が宿ってたんだ。創作への狂気。ファンタジー小説を書くことへの狂気ね。だってそうでしょ。たかがファンタジー小説だよ。たかがファンタジー小説を書くために、避妊をしないでセックスする。正気を疑うよね。自分がファンタジー小説を書くために、好きな男と、もしかしたらこれから生まれてくるかもしれない我が子の人生を利用する。どう思う? フェアじゃないよね。そこに愛はあるのかな?」
そういうやり方もアリかもしれないな、と僕は思っていた。でも、それを口にはしなかった。ソラちゃんは今、全てを吐き出したいのだ。
第70話 「夢から下りない」
「狂ってるのは薄々、自分でもわかってたんだよ。でもその同じ自分が、ついにここまで来られたんだって喜んでるのも感じるの。ついに私も狂気の門の入り口に立つところまで来たって。私が背中を追い続けてきた偉大なクリエイターたちは、みんな苦しんだり悩んだりしながらここまでたどり着いて、結局はこの門を開けて進んでいったはずだからね。もうね、私はこの門を開けたいの。先に進みたい。そこに何があるのかを見たい。でも、そこまで君に付き合わせることは、いくらなんでもアンフェア過ぎる。あんた、どこまでこの男を食い物にするんだって自分でも思うもん。だから……」
ソラちゃんは両手で顔を覆った。
ソラちゃんが何故そこで黙ってしまったのかが、僕には何となくわかった。
僕はソラちゃんと一緒にいられることやソラちゃんとセックス出来ることと引き換えに、ここまでソラちゃんの小説執筆プロジェクトに協力してきた。それは悪くない取り引きだったと思っているし、たとえ今から半年前に戻ったとしても、僕は同じ道を選ぶだろう。何度でも。でも、それは僕の恋愛感情ゆえだ。はたから見ればソラちゃんが僕の恋愛感情を利用して小説の取材を続けてきたように見える。
理屈ではたしかにそうだ。
とはいえ、僕はソラちゃんの先に進みたいという気持ちを、他の誰よりもよくわかっている。ここが一番大事なところだと思う。僕たち二人は、いや、僕たち二人だけが、あの街が見ている夢の中の住人なのだから。
そしてソラちゃんは、街が見る夢の中でもなお夢を見続けている。その夢の中に、僕はいる。夢のまた夢の中に。
それは、なんたる特権だろう。
僕はソラちゃんの夢に自分の人生を差し出すことが出来るだろうか?
それについては、もう一〇回以上も考えた。
答えはいつも同じだった。
僕はソラちゃんの夢から下りない。それが僕の見ている夢だからだ。
夢のまた夢の中で見る夢。
「ソラちゃん、顔を見せて」
ソラちゃんの手がゆっくりと下ろされた。
「目を開けて、僕を見て」
ソラちゃんの目が開かれる。涙で濡れたまつげ。
僕はソラちゃんを安心させるように笑顔を作ってみせた。
「僕たちはもう、フェアとかアンフェアなんて言葉で話をする場所にはいないと思う。だからそれは気にしていない。ソラちゃんがどれだけファンタジー小説を愛しているか、僕は知ってる。僕はそんなソラちゃんを愛しているから。でも、一つだけ教えて」
ソラちゃんが無言で頷いた。
「もしもこの小説が六〇〇本のうちの一本に選ばれなかったら、どうする? 大賞に選ばれなかったら。この小説が誰にも届かずに消えてゆく運命だったとしたら」
「また書くよ。何度でも書く。届くまで書く。でも……」
ソラちゃんの目から涙が溢れている。あとから、あとから。とめどなく。もしもソラちゃんがこの涙を見たならば、一体どんな言葉にするのだろう。どんな小説を書くのだろう。僕はそれを読んでみたい。ソラちゃんと僕の物語を。
「……忘れないよ。私たちが二人で作った小説だから。絶対に忘れない。私たちの小説のことは」
「ありがとう。僕も忘れないよ。それで充分なんだ。それにさっき言ってたでしょ。愛は寛容なものって。だからね、今、僕たちに必要な言葉があるとしたら……」
そこまで言って、僕はソラちゃんから一瞬、視線を外した。こんなに話しづらいのは、前の彼女との別れ話以来だ。今、僕たちがしているのは別れ話ではないはずだけれど。
僕はテーブルの下で両手を組んだ。何かを祈るように。
ソラちゃんは静かに泣きながら僕を見つめている。
「一緒に行こう、だけじゃないかな。僕はずっとその言葉を待っている気がする」
今度はソラちゃんが僕から視線を外す番だった。ゲーミングチェアの軋む音。
僕はソラちゃんの次の言葉を、ただひたすら待った。二人の間でローソクが燃えている。
しばらくして、ソラちゃんが下を向いたままクスリと笑ったのが聞こえた。
「一瞬、どっちなのか考えちゃったよ。そうだね。私は難しく考えることは得意だし、決断力もある方だと思うけど、一番大事なところでは君に甘えっぱなしだ。でも、それはしょうがないんだな」
「そこまでソラちゃんが完璧だったら、僕の出番がないからね」
「私は理屈が得意なだけの女で、完璧には程遠いよ。でも、そうだな。一つ誇れることがあるとしたら」
そう言ってソラちゃんは立ち上がると、ゆっくりと僕の隣まで来て、そっと左手を差し出した。
「君を見つけたことだと思う。これだけは自分を全力で褒めたい。一緒に行こう。たしかに私は君を愛してるよ。ずっと前からね」