小さい頃から寡黙だった
自分の過去を思い出そうとするときに「急に面倒くさい」感覚になったり書いている途中で価値がないような気になってくる。
そんな感覚を押してでも書き上げたほうが良いのか、止めてしまおうか。。
そうして迷って生きてきた。
何をするにもこの感覚だ。
何か行動を起こそうとする前には、あの手この手と二の次三の次、先の先まで予想してがんじがらめの自分を自分自身が作り上げてしまう。
よくここまでクレイジーな思考を引っ提げて生きて来れたなと自分で自分を褒めてあげたい。
私は洗脳されていた。
親の敷いたレール
社会の「こうあるべき」という考え方
一般的とは何なのか⁈
はみ出さないように身体を縮こませて
目立たぬように
人に不快な思いをさせないように
迷惑をかけないでいることが、生きていても良い唯一の免罪符だと思っていた。
だから自分の言葉は「自分の中」にだけ留めていたのだ。
本当は誰かに聞いてもらいたかった。
それが「親」であって欲しかった。
父親、母親、祖父、祖母
伯父、伯母、叔父、叔母
ざっと見ただけでも取り囲む大人はたくさんいた。
だけどみんな子どもの私に愛をおしえてくれたかというと「?」という感覚である。
私のご先祖は先祖代々遡ってもきっと本当の愛を知らない。
そのような家系のカルマなのだ。
みんな自分のことで精一杯で愛を配ることなんて出来なかったのだろう。
それはそうでしかない。
愛されることがネイティブな状態にはなれない。
そのことに気がついたとき
私の目の前には途方もない宇宙の果てまで続く
長い転生の道のりが見える。
だから急いでも仕方がないのである。
今日一日をどうしあわせに生きたか⁈
そうして毎日その繰り返しをして生きる。