政府を監視する
福島の処理水を海に流すことを不安視する漁業関係者の声を新聞で読んだ。
gotoが原因で、新型コロナ患者が増えて、医療崩壊しそうだと訴える尾身会長の姿をテレビで見た。
自粛で不景気になり、住むところもなく、困窮して自殺をする人が増えたと指摘するNPOの代表者の話をテレビで見た。
問題が噴出している。
原発の処理水をためておくタンクの置場所がなくなりつつあるための海洋放流であり、経済を守るためのgotoであり、コロナを押さえるための自粛だ。
政府は問題があるから、対策を考えて実施する。
もちろん完璧な対策はなかなか見つからない。
政府の対策からこぼれ落ちる弱者が、どうしても出てくる。
その弱者の声を届け、問題点を指摘するということは、政府を監視するという、メディアや野党の大切な役割のひとつだ。
しかし、わたしはそんなメディアや野党に、なんとなくモヤモヤする。
メディアの指摘はとても大切で、必要なものだということに、異論はない。
わたしがモヤモヤするのは、メディアの指摘の中に、非難が含まれているように感じるからだ。
どんなに小さな問題でも、完璧な答えなどない。
政府が、なるべく多くの人が救われる政策をとるのは、当たり前だ。そこに助けきれない人たちが出てくるのは仕方ない。それをメディアや野党が指摘するのは、正しい。
指摘するのは正しいが、同時に、こんなやり方しか出来ないのか、といったバカにしたような態度がかいまみえるのが、いやだ。
切磋琢磨と足の引っ張りあいは、全く違う。社会を良くするための指摘と非難の違いは、わかるものだ。
それがモヤモヤに繋がってい
たのだ。
最初に書いた、困窮者を支援しているNPOの代表は若い女性だったのだが、彼女は、こんな人たちがいる、私たちは支援するにあたってこんなことが困っている、自治体にはこんな風にしてほしい、と、非難するのではなく、たんたんと話していた。
その姿は、前向きで好ましいものであった。純粋に応援したくなるものなのだ。
若い人たちが、社会を良くすることを、自分事だととらえて、前向きに対応しているのを見ると、メディアや野党に対して、より厳しい目で見てしまう。
政府を監視するという意味を考えさせられるテレビだった。