家族ってなに? vol.29 〜大きな事件〜

祖父母との関係は高校時代も卒業後も変わらず微妙なままだった。
大学生時代もたまに会いにいくのみの生活。
でも、この辺から祖父母の間の関係性と私たち家族の関係性は大きく変わっていった

祖母はかなり足が悪く
以前の家での近所の人たちの人間関係や祖父との関係が原因でうつ病とうつ病による不眠症に悩まされていた。

仕事に明け暮れる両親とバイトに明け暮れる私。
学校で忙しい姉はその頃になると年に1回程度しか会いに行かなかった。

母もこまめに連絡するタイプではなく、母の日やお中元などをただ送る生活をしていた。
それに対して祖父母はかなり怒り心頭だった。

それが原因で父と母は祖父母の家を出禁にさせられた。
「もう来なくていい」
ただその一言で。

私はその関係をどうにかしようと、1ヶ月に1回いくようにした。
でも、それも私にはとても心に負担のかかる出来事だった。

なぜなら。
行くたびに祖父は両親の悪口を言い
店を持つために金を貸してやったのに何の言葉もないと罵られた。

祖母は祖父と一緒にいるのが嫌で
いつも部屋に引きこもり、私が行くとそのストレスを発散するかのように祖父の悪口と両親の悪口をひたすら聞かされる

二人にとってはストレス発散だったのかもしれない。
けれども。私には聞きたくもない話を聞かされて家に帰ってから何度も泣いた。
このことを親にぶつける日もあった。
それでも親は真剣に受け止めず。老人の戯言と一蹴した。
叔母も同様だった。


そんな日々が数年続き私も社会人になり仕事をしていた。
仕事で忙しい中でも両親に代わり祖父母の様子を見に行っていた。

そんなある夏の日、仕事中祖父から電話が来た。
「婆さんが倒れて病院に運ばれた」
その声からは、覇気がなかった。

いつも冷静な私も、さすがに戸惑った。
とりあえず病院名を聞き、上司にも事情を話し、タクシーで病院に向かうことにした。

向かう途中
叔母、両親、姉にも連絡した。
祖父は病院到着後真っ先に私に連絡してきたらしい。

何とも言えなかった。
実の子供より末孫の私か。。。。
なんだこの責任はと思わずおもってしまった。

病院に到着し祖父がうな垂れるように椅子に座っていた。
他の家族が到着するまでの間、祖父に経緯を聞いた。

祖母は真夏の中一人でいつものように部屋にこもっていたらしい。
祖父が様子を見に部屋に行ったところ、エアコンもつけられていない灼熱の部屋で祖母が倒れていたそうだ。
そして、祖父は救急車を呼んだと。

そんな話を聞いていると、担当医師から説明をしたいからきてくれと言われた。

祖父と私で診察室に入り話を聞いた。
医師も看護師も祖父と孫という組み合わせに戸惑いを見せながらも説明してくれた。
病名は熱中症と脱水症。
高齢(90歳近かった)の為事態は深刻で、もしかしたら今夜が峠かもしれない。現状意識は戻っていない。

そんな、深刻な話の中でも私と祖父は取り乱しもせず冷静に聞いていた。
私はこれを両親と叔母に伝えなければならないという責任感とここで祖父に何かあったらと考え冷静にならざるえなかった。

祖母は集中治療室に運ばれ治療を受けておりその時は
面会も出来なかった。

先生の話も終わり面会ができる時まで病院で待つことにした。
その間に叔母や母、姉が到着し経緯を全て説明した。
全員冷静に話を聞き、祖母と会えるまで待つことにした。

祖母の治療が終わりICUのベッドに運ばれ面会する事ができた。
その時の祖母の姿は管や機械に繋がれ眠っていた。
あまりにも弱った姿に心が痛んだ。
灼熱の部屋にいた祖母に申し訳ない気持ちが溢れた。
祖母ともう少し話せばよかったと思った。
愚痴ばかりの話でも祖母にとってはストレス発散だったそれをもっと聞いてあげれば良かったと思った。
そんな思いばかり頭によぎり、声がかけられんかった

祖父はベッドに横たわった祖母の手を握り、
「婆さん。婆さん」と声をかけていた。
その姿を見てなんだかんだ文句言ってたりしたけど何十年も寄り添った夫婦愛し合ってたんだなと思った。
初めて祖父母のそんな姿を見た。

その姿を見てただ私たちは黙ってた。
祖母はその日が峠と言われていたが、容体が安定していった。

その後、
祖母は驚異的な生命力で一命を取り留め、意識も戻った。
でも、後遺症として脳に大きなダメージを受け発語が出来なくなり、体に一部麻痺が残り、歩行もできなくなった。
自由に動けないことやストレスで暴れることも多くなり、ベットに身体拘束されることになった。

祖母が入院中祖父は毎日のように様子を見に行った。
私たちも月に数回様子を見にいった。

祖母は一般病棟に移った後も身体拘束は続き、そんな祖母の姿に
今までの知っていた祖母と違う姿に本当に心が痛んだ。
あんなに優しかった祖母が、看病をする祖父を睨み、叩いた。

それでも祖父は一生懸命看病し文句も言わなかった。
その光景が苦しくてたまらなかった。

私が祖母に話しかけるといつもの優しい祖母だった。
発語が難しくなっても、いつも何かを伝えようとしていた。
だから、私はその言葉を最大限汲み取ろうとした。
そうしたら、祖母が言いたい事がわかるようになってきた。
嘘だろうと思うかもしれないが、本当に分かってきた。

看護師や医師、家族も理解出来なかったようだが祖母はしっかり伝えていた。

「病院が嫌」
「ここが痛い」

麻痺で自由に動かない身体でも鉛筆を持って紙に字を書いて伝えてきた。
読めるような字ではなかったが私は何故か唯一私は解読出来た。

祖母は脳にダメージを受けたが思考には問題はなかった。
ある程度の意思疎通はできた。

その、状況に看護師と医師も少し驚いていた。


一度は生死を彷徨った祖母は2ヶ月ほど
その病院で入院した。
その後、拘束具が取れなかった問題と緩和ケアに行くように勧められたなどの理由で転院した。

次の病院では
拘束具を付けられず祖母も暴れる事がなくなった。
(きっとあの拘束具が相当ストレスだったんだと思う)

そして、
祖母はリハビリを始めた(理学療法と言語療法)
祖母は元気になっていたように見えた。
リハビリの先生ともうまくいっていた。
完全な発語は難しいものの以前よりも喋るようになった。


そんな姿に安心していた。




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