日向坂46のライブから考える、「がむしゃらさ」と「中級の谷」仮説
日向坂46・四期生の新参者公演が終わりました。この公演を見た人たちからは、四期生たちのがむしゃらなパフォーマンスに感銘を受けたという声が目立ったような気がします。たとえば、
「四期生が日向坂のがむしゃらさを受け継いでる」
「このがむしゃらさこそが日向坂だ」
「まるでひらがなけやきの頃を見ているようだ」
というような感想がありました。自分自身、本編ラストの畳み掛けでは、心の中で「いけー!!!ラストやー!!!」と叫ぶくらい、胸が熱くなりました。四期生みんな、ほんとうに今できるすべてを発揮してくれたと思います。
その一方で、グループ全体に対するこんな声もありました。
「以前は日向坂全体に存在していたがむしゃら感だ。」
「このがむしゃらさこそが、今の日向坂に足りないものだ。」
「日向坂は、このがむしゃらさを再び思い出すべきだ。」
四期生のパフォーマンスを見て抱いた「がむしゃらさへの郷愁」とでもいうようなこういった声は、がむしゃらな頃を知っているからこそです。つまり、長く応援している人から発せされている切実な想いなんだと思います。
そんな「がむしゃらさ」とは一体何なのでしょうか?そして、「がむしゃらさ」とは常に追求し続けるべきものなのでしょうか?
最初に述べてしまうと、自分の考えは、
「がむしゃらさは追求するものではなく、超えるものであって、追求すべきはクオリティである」
というものです。
「それは昔を知らないからそう思えているだけでは?」という疑問に対しては、自分は2016年の結成当初(もっと正確に言えば2015年の11月30日)から応援し続けているということを先に述べておきます。
そんな自分がなぜそう思うのかについて書いたのがこの記事です。もちろん、特に何かを批判する意図はありません。
「スキルレベル」と「満足度」の関係は線形ではない
ライブ等において、ダンスや歌やステージングなどのスキル向上と、それを見た観客の満足度はどんな関係にあるでしょうか?直感的には以下のように、スキルが伸びればそれだけ観客の満足度が上がると考える人が多いのではないでしょうか。
しかし先にも挙げた通り、がむしゃらであった昔を懐古する声が挙がっている事実があります。そういう人にとっては、昔のほうがより満足できていたということなんだと思います。昔をたとえば、2016年から2019年のデビュー年くらいまでとしましょうか。その頃と比べれば今の方が確実に総合的なスキルは向上しているはずです。なので先述した直感的な関係であれば、昔を惜しむ声が出るどころか、「今が一番最高!」となっているはずです。しかし現実にはそうなっていない人もいます。
ということはおそらく、「スキルの向上」と「観客の満足度」は線形な関係ではないということになりそうです。
実際、世の中には「質の向上」と「受け手にとっての価値・評価」が線形な関係にならない事例が色々と存在します。以下に3つ紹介します。
質の向上が価値と線形関係にならない例
言語学習のU字型発達曲線
英語などの第二言語の習得は、勉強すればするほどどんどんレベルが上がり続けるというような足し算的に単純に進むものではなく、一度学んだことがうまく使えなくなる時期があるそうです。これを一般に、以下の図のように「言語学習のU字型発達曲線」と呼びます。
こちらのサイトによると、言語の発達プロセスはおおむね以下の3つの段階を経るとされています。
限定的な言語使用(暗記)
聞いたり読んだりしたことをそのまま記憶していくことが中心
教科書の英文や単語帳のフレーズをまるごと再生したり、教師が言うことをオウム返ししたりしているだけ
誤りの数はさほど目立たない
しかし知識が少なく、表現の幅が狭く、言えることは限定される
創造的な言語使用(規則抽出)
いままで得た情報をもとに、パターンや規則を見いだそうとする
しかし例外を知らずに、規則を何にでも過剰に当てはめてしまいがち
ゆえに誤りの頻度が高まる
柔軟な言語使用(規則活用+習熟)
外部から得た情報と、脳内で構築した知識体系の間でバランスのとれた言語能力を獲得する段階
規則と例外の両方に順応し、柔軟に言語を使いこなせる
ここで「限定的な言語使用」を初級者、「創造的な言語使用」を中級者、「柔軟な言語使用」 を上級者とすると、初級よりも中級のほうが学習にかけた時間は多く習熟はしているにも関わらず、正確さが下がり、誤りが多くなるということになります。
以下は、そんな中級の誤りが「余計な誤解」に繋がったという例です。
一定の知識はあるものの、必要十分な知識が備わっているわけではないため、「今手持ちにある単語」を当てはめてしまい、誤解を生んでいます。まさに先ほど述べた中級者に相当する「創造的な言語使用(規則抽出)」の例ですね。受け手からすると、「かなり喋れているのだから、こんなニュアンスもきっと意図して言っているに違いない」と感じてしまうわけです。これがもし初級者でまだまだ英語がたどたどしければ「きっと語彙が少なくて変な言葉を選んじゃっただけなんだろうな」と事情を汲むこともできますが、なまじ一定のレベルに上がっているからこそ生まれてくる誤解になります。
不気味の谷
よくロボットの世界などで言われる言葉に「不気味の谷現象」というものがあります。ざっくり言うと、ぬいぐるみやロボットなどの顔を人間そっくりになるようにどんどん近づけていくと、ある一定のラインまでは好感度が上がり続けるのに、そのラインを超えると一旦好感度が下がり、その後また上がっていく現象のことです。
たとえば以下の図を御覧ください。
おそらく、左から2番目のペッパー君くらいなら「かわいいな」と思えるものの、その右隣りくらいから「おっ?」という感じになり、さらにその右隣りになると「おぉ・・・キモチワルイかも・・・」となるんじゃないでしょうか。一方でそこを超えて右から2番目くらいになれば「うーんちょっとマシかも」と少し好感度が戻ってきて、完全な人間になれば「人間やな(スンッ)」ってなるのではないでしょうか。
以下はテレビのキャプチャですが、林先生のこんな例もあります。
林先生の精巧度は右に行くほど常に上がっているにも関わらず、真ん中にあるCGっぽさが残るリアルさになるとその評価(好感度)が一度落ちてしまっています。
ハイプ・サイクル
最後はテクノロジーに関するものです。昨今AIが世を席巻していますが、そのような新しい技術が登場すると、最初はたいていその実態に対して過度な期待が寄せられます。そんな新技術の成熟度や社会への適用度を示すものがハイプ・サイクルです。
技術が市場に登場したばかりの頃は、「これは画期的な技術だ!」「世にイノベーションを巻き起こすものだ!」「既存の〇〇はもう終わった!」みたいなセンセーショナルな話題で持ち切りになりがちなのですが、それが「過度の期待のピーク期」です。そしてだんだん、「なんかあんまり精度よくないな」とか「思ってたんと違う」みたいに期待が落ち着いて「幻滅期」に入り、メディア等でチヤホヤ取り上げられることは減るものの、技術はコツコツ進化し続け、徐々に適切な期待感で市場に浸透していく、みたいな感じです。
技術自体は時間経過とともに着実に進化しているものの、市場の期待は(非現実的な期待なども相まって)極端に上がったのちに下がる、という構図になっています。
クオリティ・サイクル仮説
このように、世の中には「質や精度は向上していっているのに、受け取り手にとっての価値や期待がガクンと落ちるフェーズがある」という例がいろいろあります。お笑いでも「めっちゃ出来るか全然出来ないか、どっちかに振り切れ」みたいな事をよく言うように、中途半端に出来るくらいなら出来ないほうが価値が高かったりします。
同様に、ライブ等における「スキルの向上」と「観客の満足度」においても、以下のような「クオリティ・サイクル」とでも呼べるような構図があるんじゃないかというのが僕の仮説です。
ここでいう「クオリティ」とは、単にダンスが上手いとか歌がうまいなどの個別スキルの高さを指すのではなく、「観客が強く感動し、他の人に薦めたくなるほどの体験を与える力」のことを指します。様々なスキルに加えて楽曲や演出、さらにはそれらを実現するチーム力なども含めた総合的な力です。
もしかしたらすでに学術的な何かしらの概念が提唱されているかもしれませんが、少し探した程度だと見つからなかったので、一旦このモデルで話を進めます。以下で「がむしゃらの丘」「中級の谷」「上級の山」がそれぞれどういう概念なのか説明していきます。
がむしゃらの丘
スキルレベルはそれほど高くないものの、観客の満足度がある程度高いフェーズです。ここでの観客にとっての価値はスキルレベル以上に、「初期の初々しさ」だったり、「つたないながらも全力である姿勢」、「今しか見れないもの」のような情緒的な観点が大いに含まれていると思います。見る側がいろんな観点で物語を補足し、解釈して、将来への期待をも含めて肯定的に捉えることで、満足度が上がる時期だと言えます。子供が幼稚園のお遊戯会で、下手くそながら一生懸命何かをやっているのを見て親が涙するのと同じような感じでしょうか。ハイプ・サイクルにおける「過度な期待のピーク期」に近いように思います。
中級の谷
スキルのレベルは「がむしゃらの丘」よりも上がっているものの、観客の満足度がそこよりも下がってしまうフェーズです。スキルが上がっているので出来ることは増えていますし、それにより難易度の高い表現に挑戦することも増えます。しかし、それを表現し切るには実はまだスキルが足りていなかったり、ある曲で獲得した表現力が他の曲の表現に影響を与えてしまったりして、総合的には表現力が下がっている「ように見える」ことで、満足度も下がってしまうことがありそうなのがこのフェーズです。
たとえば既存曲の表現について、以下のような例があるんじゃないでしょうか。
「これまでのAではなくA'であるほうがより適切な表現になるはずだ」と思ってアップデートしようとしても、A'を正確に表現する技術が無いために、観客から見ると「なんか前のように全力でやってないな。抜いてるな、流してるな」と誤解されてしまう
以前はスキルと体力不足ゆえに必死で踊っていた振り付けが、スキルと体力の向上により余裕を持って、表情も柔らかくして踊ることができるようになった。しかしまだまだ個々のスキルに甘い点は多く見られるし、全体として見ても微妙に揃ってないようなところがあるにも関わらず余裕だけは感じられるので、「なんか前のように全力でやってないな。抜いてるな、流してるな」と誤解されてしまう
これらは言語学習のU字型発達曲線の中級に近く、生じる誤解も似ているように思います。
くわえてもう一つ満足度を下げさせてしまう要因として、「中級は世に溢れていて珍しくない」という点がありそうです。初級でいられる時間は長くなく、上級に至るのは難易度が高いため、一般的に中級は初級や上級に比べて多数派になります。人は相対的に希少なものに惹かれやすいと思いますが、多数派の中級にいるとそもそも目立ちにくくなります。「これくらいなら他にもあるしな」とか「これ見るくらいなら他のを見るわ」などとなりやすいのも「中級の谷」を生む一つの要因であるように思います。
上級の山
さらにスキルが上がり、諸々のスキルも噛み合い応用力もつき、狙い通りのパフォーマンスも柔軟な表現も両方を高次元に達成することができるようになって、観客の満足度が再度高くなり「がむしゃらの丘」を超えるフェーズです。多くのトッププロアーティスト(人気トップとは限らない)はきっとここに到達しているんだと思います。
一般的に言っても、この「中級の谷を超える」というのは、とても難しいことだと思います。0点から60点までにかけた時間と同じ時間が、80点から83点へ上げるのに費やされたりします。同じ時間なのに、方や上積みが60点なのに対し、方やたったの3点です。時間に対する成績の伸びが悪くなってどうしても停滞感が出ちゃうことが多いですし、今までのやり方と質を変えないと成績が伸びていかない段階もやってきます。
しかも、80点までの世界と90点以降の世界というのは、全然景色が違うこともあります。80点までの常識が90点以降では非常識で、逆に80点までの非常識が90点以降の常識だったりします。考え方自体を変えたりもしないといけないのがこの谷を超える大変さです。上級の山にたどり着くのは本当に大変だと思いますが、同時にそれだけやりがいもあります。
がむしゃらさは維持するものでは無く、超えるもの
このクオリティ・サイクルは仮説ではありますが、がむしゃらであった頃を知る人たちの声の一部を見る限りでは、似たような構造は存在しているように感じます。
さて、この構造を前提とし、もし今立っているのが「中級の谷」だったとすると、右か左、どちらへ進むべきでしょうか?どちらへ進んでも満足度は上がるので、選択する余地はありそうです。
この方向を決めるために大事になるのは、メンバー自身の「意志」です。メンバー自身は日頃から、「もっと多くの人におひさまになってほしい」とか、「もっと日向坂のことを知ってほしい、好きになってほしい」「全国におひさまの輪を広げたい」という願いを口にしています。それらを踏まえれば、おのずと「満足度のピークがより高くなる方向」へと進むのが健全だといえるでしょう。より高い満足度を感じさせることができる集団のほうが、より多くのファンを獲得できる可能性が高いはずだからです。なので、「がむしゃらの丘」への回帰ではなく「上級の山」への登頂が目標になるはずです。それはつまり、様々なスキルを向上させ「クオリティの追求」をするということでもあります。
昨今のストリーミングチャートの上位を席巻し、真の意味で音楽シーンにインパクトを残しているアーティストを思い浮かべてみてください。Ado でも YOASOBI でもヒゲダンでもミセスでもなんでもいいです。あなたがそれらのアーティストを語る際に、その魅力を表す言葉のファーストチョイスが
「がむしゃらであること」
になっていますでしょうか?おそらく、そうではないと思います。もっと具体的にどんなところに感動しているのかを言葉にするのではないでしょうか。このように、トッププロはしっかりと「上級の山」で勝負しているはずです。
そもそも「がむしゃら」という言葉は、暗黙的に技術的・体力的な未熟さを意味合いに内包しているように思いますし、だからこそ未来永劫続くわけではない刹那的な情緒も含むように思います。「がむしゃらの丘」の説明でも述べたように、あの丘は「未来」に対する様々な期待や解釈が大いに含まれた評価なわけで、その「未来」はちゃんと作らないといけません。そのためには「中級の谷」を超え、「上級の山」に挑む必要があります。当然、日向坂も「がむしゃらな丘」にとどまっていては「よりたくさんのおひさまを作る」ことは達成できないし、おそらくですが、とどまるつもりもないと思います。
ドキュメンタリー映画「希望と絶望」でエグゼクティブプロデューサーの今野さんは、全国おひさま化計画2021の広島公演後、メンバーにこのような言葉をかけていました。
今野さんのこの言葉は、「がむしゃらの丘」へ回帰するような過去を向いた視点ではなく、本質的な特徴に着目した上での、止揚的な、未来を向いた言葉なんじゃないでしょうか。つまりより高いクオリティで圧倒せよという、USJ風に言うと「NO LIMIT!」みたいなことなんじゃないかと思います。
新参者で素晴らしい姿を見せてくれた四期生たちは今、「がむしゃらの丘」の終わりに差し掛かっているように思います。今後も新参者で得た自信を胸に努力をし続け、スキルはもっと伸びていくでしょう。なので必然的にいつかは「中級の谷」に差し掛かります。すると恐らく、今の先輩方と同じく、こんな声が届くようになるはずです。
「新参者の頃が一番良かった。」
こういった声が挙がってくる事自体は仕方のない事だと思います。なんせそもそもスキルと満足度の関係がそういう構造になっていそうに思われるので、(多数派かどうかはおいといて)どうしてもこういう声は挙がってきます。なのでこういう声に反応して迷うのではなく、見据えるべきはその先の「上級の山」です。新参者で力いっぱい表現した姿は素晴らしく尊いものであることは認めた上で、さらに上を目指すべく昇華・飛翔していく。将来、メンバー自身が新参者を振り返って、「今見ると、あのクオリティでちょっと恥ずかしいな。」と思えるくらいにクオリティを追求し、本当の意味で「初心忘れるべからず」であることが肝心だと思います。
とはいえ、四期生はすでにそんなことすらも分かっているように感じますし、おぼろげながらに言葉にしている子さえいますよね。なんとも頼もしいです。ホンマに10代ばっかりなん?と思っちゃうくらいすごいです。
念のため、誤解のないように補足しておくと、クオリティの定義を「観客が強く感動し、他の人に薦めたくなるほどの体験を与える力。(メンバー自身の)様々なスキルに加えて楽曲や演出、さらにはそれらを実現するチーム力なども含めた総合的な力」としたように、個々のダンスや歌のレベルをもっと上げましょう、という単純な話ではありません。ライブ等に関わるあらゆるすべてのことを総合した力を上げることで、観客を感動させる必要がある、ということです。クオリティに関わる要素のうち、どの要素を高めるべきかは一概にはいえません。どんな要素を高めていくか、どんな要素は高めずにおくかの取捨選択自体がアーティストの個性であり哲学となります。
日向坂にとっての「クオリティ」とは何か?これは結局「最強とは何か?」、ひいては「私たちはどういう理念で活動しているのか?」と同じ問いになるわけですが、四期生も先輩たちと一緒に、日向坂としてのスタンスを取り、必ず谷を超え、頂の上に立ってほしいなと思います。
なぜがむしゃらさを求めてしまうのか?
「あの頃のがむしゃらな日向坂が良かった」と回顧する人は、おそらくその人にとって日向坂が、「中級の谷」にハマっているように感じているのではないでしょうか。以下の図のように、現在のスキルラインで得られる満足度が「がむしゃらさの丘」のラインを超えられておらず、それゆえに「前のほうが良かった」と思っているようなイメージです。
一見すると、「別にスキルの低かった頃に戻れと言わなくても、上級の山を目指せと言えばいいのでは?」と思いそうですが、それはシンプルに、
「上級の山」に登った日向坂の姿を見たことがないから、かつて経験したことのある「がむしゃらの丘」を求めてしまう
というだけのことではないでしょうか。
人は経験したことがないものを欲しがることはできません。車が発明される前の人が「もっと速い馬をくれ」と言い、iPhone が誕生する前の人が「もっと良いガラケーが欲しい」と言っていたのと同じで、車や iPhone が発明されて初めて「そうそう!これが欲しかった!」となるわけです。実際に目の前に示されて初めて、人は自分が見たかったもの・欲しかったものを理解します。
同様に、「上級の山」という「見たことない山」は求めることができませんから、経験したものの中でよりベターなものを見たいと純粋に願っているだけなんだと思います。
なので日向坂には「上級の山」へ登ってもらい、そのクオリティを見せつけて、「そうそう!こんなスゴいライブが見たかったんだ!」と、「がむしゃらの丘」を懐古するファンを満足させることが必要なのかなぁと思います。それは単に既存ファンを満足させるのみならず、多くの新しいファンをも満足させることに繋がるはずですし、もちろんそれは常日頃メンバーが願っている「おひさまの輪を広げる」ことに繋がるはずです。
以前、以下の記事を書きましたが、個人的には有望な勝ち筋があるように感じてます。この形じゃないにしても、魅力的なメンバーが揃っている限りは素晴らしく高い頂に登り詰める可能性は十分にあると思うので、やっぱり未来に期待したいですね。
まとめ
世の中のいくつかの事例と同様、スキルの向上とライブの満足度の関係にも「クオリティ・サイクル」とでも呼ぶような線形でない関係があるのではないか、それに基づけば「がむしゃらの丘」ではなく「上級の山」を目指すべきではないか、ということを述べました。
とにかく個人的に期待したいことは、
「とんでもないクオリティで観客をぶん殴ってくれ!」
ということ、ただそれだけです。
フェスなどでは、「普段そんなに曲を聴くわけじゃないけど、ライブは楽しいから行こう」とか「あのアーティストは絶対楽しいからこの時間は一緒にあっちのステージ行こうぜ」というようなアーティストっているじゃないですか。それってやっぱり「クオリティ」を持ってるってことですよね。曲とかあんま知らんけど、行けば絶対になんかしら楽しませてくれる。それが「クオリティ」を持つアーティストだし、「ブランド」として認識されるということだと思います。日向坂も、もっともっとそんな風になれたらなぁと願わずにいられませんし、なれるとも思います。
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