小坂菜緒さんの本質を見抜く力と、日向坂46の表現軸の変遷
前回、「最も日向坂らしいこと」とは何かについて考えてみた記事を書きました。
そんな事を考えるきっかけになったのが、TRIANGLE magazine 02 の小坂菜緒さんのインタビューでした。そこに書かれていたことが自分にとっては衝撃的すぎて、何が衝撃だったのかというと「自分の目(耳)が節穴だった」ことが証明されてしまったんですね。
以前に投稿した以下の記事では、主にA&Rの変更に着目して日向坂の楽曲の変遷を眺めていました。
今回は小坂菜緒さんの言葉をヒントに、改めて日向坂の表現の軸がどんな変遷をたどってきたのか考え直して整理してみたのがこの記事です。
ちなみにあとにも述べますが、おそらく「WE R!」を見に行った方はこの記事で考えようとしている事の答えを持っていると思います。自分は体調の関係で WE R! に行けないので、「こう推測したんだけど答え合わせさせてください!」という気持ちで書いております。なのでコメントやリアクション記事などどんな形でも構いませんのでよろしければご教示いただけますと幸いです!
※注意:1万4千字あります
※体調を崩して以来、公式ニュース以外の情報はブログやメッセージ、雑誌のインタビューやひなあい等も含めほぼ見れていないので、そういう意味でも周回遅れの話をしているかもしれません。
本質的な変化は「ひなたざか」から始まっていた?
まず、自分が衝撃を受けた小坂菜緒さんの言葉の一部が以下のとおりです。
読んでてホントに「えっ!?」と声が出ました。なぜなら上述したA&Rに着目した記事では、自分は以下のように推測していたからです。
デビュー以降のポップでキャッチーな路線を踏襲した「アザトカワイイ」でもデジタル指標において芳しく無く、
少し雰囲気を変えた「君しか勝たん」でチャレンジするも、指標はより悪化
抜本的な変更のため 6th から A&R を交代して「新しい日向坂の発見」へのチャレンジを開始
つまり自分が「ガラッと雰囲気を変えたな」と感じていたのは 6th からで、たしかに 5th では少し変えてきたなとは思ったものの、少なくとも 1stアルバムの時点で「ガラッと変えた」とは感じていませんでした。
「6th も含めた話なのか?」と一瞬思いましたが、リリースと休養の時系列が以下の通りなので 6th 制作期間に被っていたとは考えにくく、そもそも「そのあとのアルバムや」と言ってるのでやはり 1st アルバムと 5th でガラッと変わったということだと思われます。
2021年5月26日 5th「君しか勝たん」リリース
2021年6月26日 小坂菜緒 休養のお知らせ
2021年10月27日 6th「ってか」リリース
あるいは新規収録楽曲全体での雰囲気を言っているのかとも思いましたが、たしかに全員曲のカップリングとして 1st アルバムには「My fans」が、5th には「膨大な夢に押しつぶされて」と、それまでの日向坂には無かった強さのあるカッコいい曲が含まれていますがあくまでカップリングですし、ひらがな時代も含めればそんなに大きなギャップがあるわけでも無い気がします。
1st アルバム新録
My fans
ただがむしゃらに
どうして雨だと言ったんだろう?
See Through
この夏をジャムにしよう
5th カップリング
声の足跡
どうする?どうする?どうする?
世界には Thank you! が溢れている
Right?
膨大な夢に押しつぶされて
嘆きのDelete
くわえて、以下にまとめたようにその頃のライブも従来からやっている物語調のものなどが継続されているので、大きく傾向を変えたようなものじゃなかった気がしています。
2020年7月 HINATAZAKA46 Live Online, YES!with YOU! ~“22人”の音楽隊と風変わりな仲間たち~
2021年3月 日向坂46「デビュー2周年記念 Special 2days ~春の大ユニット祭り“おひさまベスト・プレイリスト2021”~」
2021年3月 日向坂46「デビュー2周年記念 Special 2days ~MEMORIAL LIVE:2回目のひな誕祭~」
そもそも全体の雰囲気に大きな影響を与えるのは、音楽番組での披露回数やプロモーションの多さを考えてもやはり表題曲だと思いますし、表題についてのイメージを「ガラッと変わった」と認識していたんじゃないかと想像しました。
「最も日向坂らしいこと」から逸れていった歴史
1stアルバムから「秩序」に傾いた?
では、どんな風にガラッと変わったのでしょうか。
前回の記事で「最も日向坂らしいこと」を「ハッピーがベースにあって、秩序と混沌のバランスがよいこと」と整理してみましたが、それに照らして見てみると、言われてみればたしかに 1st-4th に比べて「アザトカワイイ」は「秩序」に寄っているかもしれません。
大して音楽的な素養が無い素人の印象になりますが、1st から 4th までを振り返ると、3rd こそしっとりした「こん好き」ですが、それ以外は「キュンキュンキュンキュン」と連呼してみたり、ファを抜いて「ドレミドレミ」と連呼してるかと思ったら、一般的な言葉である「そんなことないよ」をカタカナにして「ソンナコトナイヨ〜!」と励ましてみたり、どこか引っ掛かりのある遊びがあったように思います。
一方「アザトカワイイ」では、今思うとそういったハッキリした遊びが無いかもしれません。歌詞やタイトルに含む語彙で遊んでるかと言われると、たとえば「釣る・釣られる」という言葉は当時すでにもう使われだしてずいぶん経っており新鮮味があるわけではなかったですし、「アザトカワイイ」という言葉自体も、前年の2019年にはパイロット版ですがすでにテレビ番組「あざとくて何が悪いの?」などで使われ始めているくらいには浸透しはじめていましたし、目新しさもそれほど無いように個人的には感じていました。
「君しか勝たん」も秩序に寄った印象は同様で、ハッピー感はありますがハッキリした遊びは無いように感じています。
思えば「アザトカワイイ」が公開された当時、自分が初見で思ったのは「シンプルで真っ直ぐなアイドルソングが来たな」、というものでした。もう少し踏み込んだ表現をするならば、「世に存在するキラキラした感じのアイドルグループすべてに似合いそうだな」、つまり「日向坂じゃなくても成立しそうだな」という感じでした。今思えばおそらく「ハッピーで上品だけどなんか引っかかる遊びがある」感じを「日向坂の曲だなぁ」と自分は感じていたようで、だからこそギャップを感じて「日向坂でもいいけど日向坂じゃなくてもいいな」という印象を持ったんだと思います。しかし、元気で明るくハッピーなイメージの曲調なので、そういう意味では「日向坂の曲ではあるか」と思っていたし、ガラッと変わったとまでは思っていなかったです。
こんな感じで、やや強引ですがこう整理してみると実は意外に「秩序に傾いていった」という本質的な変化があったようにも見えます。小坂さんが同じような視点で捉えていたかは分かりませんし多分違うと思いますが、しかしこういう見方でも大きな変化があったことは確かに確認できるなと思いました。
音楽に造詣が深い方は 1st アルバムと 5th シングルで「ガラッと変わったな」と感じていたのかしら?そこはご意見を伺ってみたいところではあります。
「ハッピー」からも離れた 6th 以降
さらに 6th 以降は A&R 交代もあって、分かりやすく如実に変化し、それまで以上にセンター個人にかなり立脚した曲になってるように感じます。6th「ってか」は「金村さんの発言を文字起こししました?」っていうくらい歌詞が金村さんぽいし、7th「僕なんか」は休養中に離れて日向坂を見ていた小坂さんの胸中に似ていて、8th「月と星が踊るMidnight」はそのまま京子さんの生き様のようです。9th「One choice」は最初「丹生ちゃんにしては意外な曲だな〜」と思ったりもしましたが、9th 頃の丹生さんの「理想的な活動ができない身体の状態への憂いと葛藤、それでもすでに出会ってしまった『アイドルとして叶えたい夢』、そして芽生えた『いつかセンターに立てるように』という想い」という背景を踏まえて、恋愛ではなく人生の選択シーン一般として抽象化して歌詞や曲調を捉えると、
「めっちゃ丹生ちゃんの曲やんけ」
ってなります。10thは「Am I ready?」と書いて「上村ひなの」と読めるくらいの上品なかわいらしさがありますし、2nd アルバム「君は0から1になれ」はキャプテンのメンバーをまとめ逞しく率いる姿に似合っています。
このように個人の個性が色濃く出ていますが、それは同時に日向坂総体としての個性が隠れることでもあり、つまり「ハッピーさ」が薄らぐ結果になっているとも思います。なので、1st アルバムと 5th で「混沌」から離れた次は、「ハッピーに」というスタンスからも遠ざかっていたように思います。自分はようやくここで「ガラッと変わったな」と思い始めました。
二段階右折で対極へ
以上をまとめると以下のような図になるかと思います。横軸が「混沌」と「秩序」、縦軸は「感情」のスタンスにしてみました。
縦軸については、「ハッピーに」が「喜怒哀楽」の「喜」に相当するなら、ほかは「怒哀楽」かなということでそうしてみました。だいたい以下のような感じで分けられそうな気がしています。後半ちょっと怪しいですが。
6th「ってか」:怒
7th「僕なんか」:哀
8th「月と星が踊るMidnight」:哀、憂い
9th「One choice」:哀
10th「Am I ready?」:カワイイ
2ndアルバム「君は0から1になれ」:自己啓発
こんな感じで、
1stアルバムから横軸が「秩序」に寄った
6th からは縦軸も「ハッピー(喜)」から別(怒哀楽、etc)に寄った
という2段階右折によって、最初に位置していた象限と対極にある象限に遷移していったように思います。
前回の記事で「最も日向坂らしいこと」とは「ハッピーをベースに、秩序と混沌のバランスが取れていること」なのではと述べましたが、一段階目で「混沌」から遠ざかり、二段階目で「ハッピー」から遠ざかったことで、坂道グループなら共通して持つ「秩序」や「感情表現とメッセージング」のみが残り、没個性的になってしまったのではないかなと思いました。
仮にこういう整理の仕方してみると、やや強引ですがたしかに 1st アルバムから大きな変更を始めていたっぽいことが見えてくるんですが、おそらく小坂さんは別の視点で、それでも「ガラッと変わった」と言えるほど本質的に大きな変化を当時若干18歳の時点で直感的に感じ取っていたわけですよね。スゴすぎないですか?ハンパないなと思いました。センサー高性能すぎて人生生きづらない?って余計な心配をしてしまいたくなるほどですが、それはともかく「アザトカワイイ」が公開された時点で「日向坂は大きな舵を切ったな」と感じていた人ってどれくらいいたんでしょうか?少なくとも僕はボケーっとしながら「パフォーマンス衣装が左右で色が違う〜」くらいのことしか思ってなかったです。あるいは、僕が知らないだけで大きく変わったのは周知の事実だとしたら、めっちゃ恥ずかしいのでそっとページを閉じてくださると嬉しいです。
さて、では 11th ではどうなったかというと、個人的にはこういう遷移をしたように感じました。
ハッピー側に戻って、横軸はちょうど真ん中くらいの印象を持っています。
「何をもって横軸は真ん中なのか?」と聞かれると引き続き言葉にするのが難しいんですが、
「なんかもうちょっとですごく面白くなりそう!」
「『カワイイ』とかより『ワイワイやってる感じ』が勝ってる気がする!」
「あれかも、編曲!たぶん編曲!なんか遊び心ある気がしてる!」
みたいな印象があって(語彙も解像度も全部ひどい)、そこが 1st アルバムや 5th とは違う印象でした。
とにかくハッピーさと面白さ(Interesting or Funny)が戻ってきつつ、それでもまだまだワンパクになれる余地はある気がするというか、何よりセンターの正源司陽子さん、めちゃくちゃカオスな人じゃないですか。もっと遊びがあってもいいんじゃないかな日向坂だし、ということで真ん中くらいかなと思いました。
しかし「最も日向坂らしいこと」に近づくための歴史
1st アルバムからは「最も日向坂らしいこと」から逸れていった歴史だったのではないかということを述べました。じゃあその期間は無駄だったかというと、むしろ必要で、粘り強くやってみたからこそ今のスタンスに自信を持って立てているとのではと思っています。
たとえば「BRODY(ブロディ) 2022年10月号」のインタビューなどを見ていても、メンバー自身が表現の多様性への挑戦に意識が向いているなぁと感じることは正直ありました。それ自体はごく自然なことだと思っていて、シンプルにいろいろやらないと飽きちゃう面もあるでしょうし、何より他人からすると羨ましがられるようなポイントに当の本人は飽き飽きしていたり嫌気が差してしまうことはよくあります。「日向坂46の余計な事までやりましょう」で金村美玖さんが、強みとなりえる自身の特徴ゆえの自分の振る舞いに嫌気が差しているようなことをよく発言しているかと思いますが、まさにそれです。
自分は以前に以下の記事で、6th からの A&R の交代を「市場成績に反応したもの」と推測していました。
ですがもしかすると、インタビュー等でも見られたメンバー自身の心境の変化自体を汲み取り、新しい表現を追求する必要があるという判断も含んでいたのかもしれないなと思い始めています。
実際、エグゼクティブ・プロデューサーの今野義雄さんは、「月刊MdN 2015年 4月号(特集:乃木坂46 歌と魂を視覚化する物語)」の中でこのような話をしています。
これは9年前の乃木坂についての話ではありますが、特に日向坂 6th からの動きを見るに今も原則、坂道のクリエイティブの基礎はメンバー自身にあると思います。なのでメンバーの心境に変化があれば、自ずとクリエイティブの表現軸も変わっていくのかもしれません。だからこそ A&R を変更した 6th からのチャレンジも長かったのかなと思います。
個人的には正直 6th 以降のアプローチは、外から見ると定量指標的に苦戦が続いている割にはやけに粘っているように感じていました。それは、メンバーがクリエイティブの基礎にあり、メンバー自身が多様な表現を模索したい気持ちがあったことに呼応したものだったのかもしれません。だからこそ、メンバー自身が話し合いで「ハッピーに」というスタンスを取ったならば、11th の仕上がりになるのも非常に納得感があります。
没個性が個性を研ぎ澄ませた?
以前に以下の記事で、書道家・柿沼康二さんの「没個性が個性を研ぎ澄ます」という観念を紹介しました。空海の書を大量にひたすら模倣する、つまり没個性的に書くことによって、むしろそこにどうしても出てしまう「個性」を感じ、それが個性を研ぎ澄ますことになる、という考え方です。
この観念を雑に図にしたのが以下です。自分ではない何かに近づこうとすればするほど、自分との差分、すなわち自分の「個性」が見えてくる、ということになるのかなと思います。
実は 1st アルバムから 2nd アルバムまで続き、Happy Smile Tour 2022 でも試みていた新しい挑戦もこれと似たようなところがあるんじゃないかと思いました。先に述べたようにその挑戦が実は「混沌」や「ハッピー」から遠ざかって没個性的になっていたように見えることを鑑みると、「メンバー自身が表現の幅を求め、新しく挑戦しようとした表現を追求すればするほど、逆に自分たち自身の本質が浮かび上がってきた」といえるのかもしれません。
なのでこの挑戦フェーズがあったからこそ自分たちの本質を受容できたんだと思いますし、Happy Train Tour 2023 追加公演・千秋楽での佐々木久美さんのスピーチでハッキリかつ堂々とスタンスを掲げることができたんじゃないかと思うわけです。
なので実は、最も日向坂らしいことから遠ざかっていたように見えて、ハッキリさせて近づくためのフェーズだったんかなと思っています。
温故知新としての「新しい風」
さて、そんな佐々木久美さんのスピーチでは、四期生の影響も述べられていました。
四期生は「新しい風を吹かせたい」ということをよく言っていましたよね。日向坂にとって(結果的に)個性を研ぎ澄ませることとなった数年に渡る旅の最後にその自覚をもたらした最後の「追い風」が、日向坂の本質に最も共感し、その本質に最もこだわり、「ハッピーオーラ」という言葉を口にし続け、「一体感」というスローガンにたどり着いた四期生であるというのが、なんだかドラマチックに感じます。
「新しい風」といっても、それはなにか全く新しい武器だとか、魔法だとか、銀の弾丸ではなく、「古典」ではあるけれども今受けるには新鮮な風として吹いたように思います。もちろん、学校の授業の古典ではなく、「本質を過不足なくまとめた原典」としての古典です。内容はそのままに、装丁だけ新しくなった新装版といったところでしょうか。
新しい表現を追求し尽くしたからこそ、総体としての自分たちが写像された古典(新装版)の登場によって「故きを温(たず)ねて、新しきを知る」ことになった。つまり「集団としての没個性の追求」の先に見えてきたぼんやりとした差分の正体が、「集団としての写像である古典の獲得」によって明らかになった。そういった温故知新としての「新しい風」が四期生だったんじゃないでしょうか。おそらく、追求なしに古典だけ手に入れても、子供の頃に受けた親の説教と同じで腹落ちすることはなかったと思いますし、古典なしに追求だけしていても、気づきを得るまでにもっと時間がかかっていたと思います。なのでどちらも将来へ向けて重要なピースだったように感じます。
「いつだって、未来は味方だ。」
これは 1st アルバム「ひなたざか」のCMで使われていたキャッチコピーですが、奇しくもこのアルバムから始まり長きにわたって続く挑戦の未来も、いずれ「自分たち」の写像として目の前に現れる四期生という未来も、どちらも今、味方をしてくれているように見えますよね、なんていう解釈をしてみたりして。
実はスタッフは古典を持ち続けている
さて、そんな温故知新をもたらした四期生はどうやって集まったのかというと、もちろん勝手に空から降ってきたわけではありません。四期生のオーディションを開催し、総勢5万1038人の中から選ばれて揃った12人だったわけです。ではその12人を誰が選んだのか。日向坂チームのスタッフですよね。
先述した柿沼康二さんの観念を紹介した記事では同様に、島田紳助さんの「X+Yの公式」についても紹介しました。「X」は自分の能力で、「Y」は世の中の流れを表します。
ここで「X」をどうやって見つけるかというとその一つが、それぞれ違う数多ある面白い漫才の中から「自分の笑いと同じだ」と思えるものを見つけていくと、それらを貫き結びつけるものが自分の個性、つまり軸「X」として具体的にハッキリ浮かび上がってくる、という考え方で、雑に図にするとこんなイメージになるかと思います。
これは四期生オーディションも同じなのではないかと思いました。
5万1038人それぞれが様々な個性を持つ中、「日向坂として採用するならどの子になるか?」という問いに12人が浮かんできたわけですが、その12人を結びつける軸「X」があったはずですよね。
この軸「X」によって導かれた12人が四期生として加入し、のちに温故知新を先輩たちにもたらす新しい風となるわけですが、であればこの軸「X」自体が「最も日向坂らしいこと」を表す軸に相当するのではないでしょうか。
その軸「X」を、暗黙的か明確にかは分かりませんが確実に持って12人を選んだのはスタッフです。つまりスタッフの中には「最も日向坂らしいこと」が宿ってることを意味します。スタッフは「日向坂とは何か」を知っているということです。
それを踏まえてもう一度今野さんのインタビューを確認してみます。
長く続いた挑戦の期間は、「最も日向坂らしいこと」は古典として分かりつつ、それでいてメンバーの心の機微をつぶさに観察し、それをクリエイティブに活かして「最も日向坂らしいこと」と両立させたうえでビジネス的にも成功させようという、愛情と野心にあふれる期間だったのかなぁ。そんな風にも思えます。それはもちろん相当難しい挑戦です。フタを開ければ、思うような結果を伴うことはできなかったように思いますし、迷いを生むことになったかもしれません。挑戦のプロセス自体のデザインも、もっといろいろできた部分があるかもしれないです。それをもって非難することはできますが、しかしそのプロセス自体は、こうして振り返る限りは必要だったんじゃないかなと思います。やっぱり納得いくまで実際にやってみないと、なんでも腹落ちしませんから。
原点回帰というよりも「止揚」
先述した図で、11th ではハッピーの象限へ戻ったことを述べました。
個人的に思うのは、これは原点回帰ではなくて「止揚」だということです。原点回帰だと、これまでのことを否定し「あっちじゃなかった、こっちだわ」というニュアンスを含むように思います。
しかし、1st アルバムから挑戦し始めた表現も、特にセンターのメンバー個々に着目した場合にとても説得力がある表現になっていると思うんです。であればそんな表現もまた当然、日向坂の表現として内包されるべきものだと思います。また、「それでも歩いてる」のように、その歴史を持って説得力を増す楽曲もあります。なのでこれまでの事を止揚し、
「日向坂のスタンスは『ハッピーに』であるし、メンバー個々や歴史に注目すればハッピーに拠らない多様な表現をも内包する個性がある」
というテーゼが生まれるんじゃないでしょうか。原点とここまでの過程をも両立し、統合したような状態が現在の日向坂なんじゃないかと思います。引きで見れば日向坂総体としてのハッピーが、寄りで見ればメンバー個々の個性や歴史的な詳細が浮かび上がってありありと見えてくるような、そんなイメージでしょうか。空間的な広がり(寄り、引き)と時間的な広がり(歴史、経緯)を両方持つ、と言ってもいいかもしれません。
1st アルバムからの期間は、原点(ハッピーとか元気とか)に対する「日向坂は総体として多様な表現を持つ」というアンチテーゼの真偽を検証するような期間で、それを追求し尽くし、四期生の芽が真に萌芽した時点で、止揚プロセスが一旦完了したように見えます。そのプロセスの中でメンバーが「ハッピーに」というスタンスを取ったように、「引き」、つまり総体の画はハッピーであることを改めてハッキリさせたのが「今の」日向坂なのかなと思いました。「覗き込んだとき最初に見えるデフォルトの位置は引きでハッピーだけど、拡大率とかレンズ位置調整したらいろんな個性も出てくるよん」みたいなことでしょうか。あるいはモザイク的に、単なる寄せ集めではなく引きで見ると全体として一つのハッピーな表現をしつつ、寄りでみると様々な個性があるさまなんだと思います。
前回の記事は今後ここに、「日向坂は混沌である」みたいなアンチテーゼで止揚プロセスに入っていくとさらに面白いんじゃないかと勝手に予想しているということなのかもしれません。自分が書いたことなのに人ごとみたいに言うてますけど。
ところで寄り道:小坂さんからのメッセージの解釈
もしメッセージアプリで小坂菜緒さんから 2022年10月26日 20時08分に送られてきたメッセージを確認できる方がいらっしゃれば、改めて見てみると感じ方が変わるかもしれません。
そのメッセージには僕自身は一度も思ったことが無かったことが書かれていて、当時はとても意外でした。しかし今こうして TRIANGLE magazine 02 での言葉を参考に改めていろいろ整理してみると、言わんとしていることが非常によく分かる気がします。そして、止揚プロセスを経て全ての表現を内包できるようになった今、小坂さんの捉え方も更新されているんじゃないかと推測してます。おそらく僕の1億倍くらい感性が鋭い人だと思うので、とっくに気づいてるでしょうね。この人本当にすごいな。それまで何度もライブで見てるはずなのに、デビューカウントダウンライブの「ときめき草」の姿を見てようやく「あ、この人ほんとにとんでもない人だ」と思いましたけど、そのスゴさは神通力というか本質眼というか、「見る力」とか「感じる力」から来てるのかなぁ。21歳の頃の自分なんて、さんま御殿見ながらゲラゲラ笑って「お金振ってこねーかなぁ」なんて夢見心地な事を思ってるだけでしたわ。
記憶に残る幕の内弁当はない
秋元康さんは「記憶に残る幕の内弁当はない」とよく言っていました。
実際、「ひなあい」の #250【時は来た!ロケ弁当争奪下克上バトル リターンズ!】で、幕の内弁当的なものを挙げていた人は少数派だったかと思います。
「ヒット」を考える時に何か軸となるものを1つ持つとするならば、日向坂総体としての「ハッピーに」はそれに相当しそうです。
さらには今野さんもこんな話をしています。
では、日向坂の個々のメンバーに注目した時、メジャー感を生み出す共通の性質は何が見いだせるのでしょうか?個人的には、週刊少年ジャンプの「友情・努力・勝利」的な「暑苦しさ」とか「少年ぽさ」がそれかもな、と思ったりします。
平岡海月さんは以前にブログでこんな表現をしていました。
平岡さんは本当に言葉を持ってらっしゃいますよね。尊敬しちゃう。炎属性多め、言い得て妙だと思います。これは四期生に限らず全体にも敷衍して言えるんじゃないでしょうか。スプラトゥーン3 坂道グループ対抗戦なんてそんな感じでしたもんね。
前回の記事で「日向坂はハッピーカオスである」と表現しましたが、この炎属性がそれを下支えしてるのかもしれません。ジャンプ的な少年って、まぁ言ったら「(心底楽しそうに)バカやってる」って感じですよね。
答えはおそらく「WE R!」にある
日向坂46展「WE R!」の公式Xアカウントのプロフィールにはこんな事が書かれています。
おそらく歴史を振り返りつつ、止揚プロセスを経た最後に「(これら全てをひっくるめて)私たちは日向坂46だ」と堂々と宣言できるまでの道のりが描かれているのかなと思っていて、だとしたらこの記事で自分が「こういうことなんじゃないかな〜」と推測していたようなことがかなり鮮明に正しく描写されているんじゃないかと思うんですよね。だから本当にめちゃくちゃ行きたかった。自分の説が合ってようがめちゃくちゃに外れていようがとても勉強になる場ですし、何よりタイミングが絶妙すぎんですか?いつから企画走ってたんだろう。
自分の日向坂ファン歴の中で「非常に悔しかったポイント」というものがいくつかあって、これまでは、
武道館3Daysに参戦できなかったこと(チケット争奪戦にふつうに負けた)
初の東京ドーム現地参戦がノーチャンスだった(この時点で体がおかしくなってた)
の2つだったんですけど、ここに今年「WE R!に行けなかったこと」と「ひなたフェスに行けなかったこと」の2つが加わります。いやー、悔しいね。
まとめ
小坂菜緒さんの言葉をヒントに、日向坂の表現軸の変化を整理してみた
1stアルバムから「秩序」に寄りはじめ、
6th 以降は「ハッピー」からも離れていたように思う
結果「最も日向坂らしいこと」から逸れていった歴史といえるかも
しかしそれは「最も日向坂らしいこと」にたどり着くために必要な時間だったのでは
最後のピースが四期生だったのはエモいっすなぁ
そして全てをひっくるめて内包するよう止揚できたのが今なんやろな
というようなことを書きました。
小坂さんのインタビューのほんの一節だけからいろ〜〜んなことを推測して書いてみましたが、WE R! をご覧になった方から是非、回答や解釈を知りたいなと思っています。コメントでもリアクション記事でもなんでもお待ちしております。よろしくお願いします!
余談
最新の「ひなあい」、感動回だったっぽい雰囲気が伝わってきました。ちくしょう、見てぇ!
3月頭に体調を崩してもう2ヶ月が経って、ひなあいはもちろんブログやメッセージも見れてなくて、自分の中で3月頭で時が止まってる感覚があります。もちろん公式ニュースくらいの内容は目にしてるし、ラジオは聴けてるのでその後の動きもなんとなく把握はできてるんですけど、でもやっぱりぜんぜん違う。
こんな状態になって気付いたんですが、何かをアウトプットするより、何かをインプットする方がはるかに認知的負荷が高いみたいです。note を3分書くのと、ブログなどを3分読むのとでは後者の方が圧倒的に頭が疲れます。
もしかすると、インプットはいろんな前処理をするけど、アウトプットはそれを組み合わせて吐き出すだけだから楽なのかな。食材でいうとインプットは、買ってきたものを料理で使いやすいように事前に切ったり、下茹でしたりして小分けして保存するイメージで、その際に初めての食材はどう切ろうかなとか、これ硬くて切りにくいな、とか考えることが結構発生する感じ。アウトプットは「あれとあれであれ作ろ〜」っていう作業になるので、そんなに負荷が高くないのかも。
インプットもラジオとか音声ならまだマシなのは、たぶん単位時間あたりの情報量が一番少ないから前処理が楽なのかな。ラジオの内容ってテキストにしてしまえば同じ情報量をたぶん10分の1くらいの時間で得られるんですけど、そうすると多分疲れちゃうんだろうな。動画はさらに情報量が多くなるから余計疲れるという構図な気がする。普段2倍速で聞くポッドキャストとかもありますけど今はその気になれないのは、きっとそういう事なんだろうなぁ。