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「書く福祉」のライターとして独立して、今こそ「遍路」へ・石黒好美の「3冊で読む名古屋」【番外編3】
ライター/社会福祉士の筆者による連載、番外編の3回目(2024年4月20日のニュースレター配信記事のnote版)です。
紋切り型ではない言葉を求めて
聖か賤(せん)しか、ないのである。
2016年、フリーライターとして独立したばかりの頃になごやメディア研究会(なメ研)でお話をさせてもらった時の資料に、私はこう書いていた。
福祉はどのように書かれているか?
【不安煽り型】
・老人ホームが足りなくなる!年金がもらえない!
保育園は入れない!など、とにかく人を不安にさせる。
週刊誌などに多い
【社会問題告発型】
・社会課題を見える化するとともに、その背景にある
制度設計の矛盾などを鋭く指摘する
『ブラック企業』『下流老人』など
【キラキラ美談型】
・障害があってもこんなにひたむきに生きています!
大変な仕事だけど、子どもの/お年寄りの/○○の…笑顔に癒されます!など
福祉系の求人広告などに多い
福祉を語る言葉は紋切り型ばかりで、評価の切り口があまりにも少ないのではないか。私がビッグイシューや草の根ささえあいプロジェクトで経験した豊かさや不思議さ、楽しさややるせなさを語る言葉が、もっとあるべきではないか。こんな志を持って私は開業したし、今でもそう思っている。
勇んでスタートしたものの、実際には8年目となった今もほとんど思うように書けていない。分かりやすくしたい気持ちと安易なステレオタイプに逃げたくない思い、それに追いつくスキルの足りなさを痛感して、書けない理由ばかりを積み重ねている。
書けなさのあまり、「福祉のこと」を書くことを避けていたわけではないが、駆け出しのフリーランスが仕事を選べる状況では無かったことも事実だ。出版社や新聞社や広告会社や編集プロダクションの出身でもない私が、なぜ急にライターになれたのか?と聞かれるが、自分でも正直よく分からない。
番外編1にも書いた通り、とにかく稼いで都会でサバイバルせねばと思っていた私は、ホームレス状態にある人たちや、ビッグイシューや草の根ささえあいプロジェクトの人たちと出会い、お金があろうとなかろうと、いかに働こうと働くまいと、実は生きていけるのだと知った。ならば小さい頃から憧れていて、でもどうせ自分には無理だろうと最初からあきらめていた「書く仕事」に挑戦しようと考えた。
何のアテもなく会社を辞め、「ライターになりたい」と呟いていたら、ボランティア活動で知り合った人たちが声をかけてくれるようになった。企業の広報誌を作る仕事もあれば、非営利団体の事務局を手伝ってほしいと言われたこともあった。Webサイトを更新する、議事録をとる、ヒアリング調査をする、報告書を作る……。世間で「ライター」と聞いてイメージされる仕事とは離れているが、「書くこと」を外注したいと考える人は少なくないのだと思った。
中でも、NPO法人起業支援ネットの会報誌『aile』を作る仕事や、「医師の訪問診療に同行して記録を取ってほしい」という、医療法人八事の森の仕事は今も続けさせていただいている。情報の収集と表現・発信の技術を鍛える機会を与えてくれたクライアントとして特に感謝にたえない。
知人がなメ研を紹介してくれたことも大きい。私は今まで死なずに済んでいるのは、なメ研の先輩ライター、ジャーナリストの皆さんが、海のものとも山のものともつかぬ私に仕事を振っていただいたおかげで、アポ取り、取材、執筆の作法、納品の方法などなどを身につけることができたおかげである。
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福祉を離れたから見えてきたこと
会議資料づくりから「美味しいラーメン屋さん」の取材まで、何でも書かせてもらえた経験が奏功したことはもう一つある。それまでどっぷり浸かっていた「福祉」について、少し離れた場所から見られるようになったことだ。
福祉業界の中でセオリーとなっている言説に違和感を覚えても「自分よりすごい人たちが言っていることなのだし、正しいのだろう」と思っていた。たとえば「地域の中に “居場所” が大事」とか。ホームレス状態に陥ってしまう人は、頼れる友人や家族がいないことが多い。支援者としては「普段から気軽に相談できる関係があれば」と思うから「誰でも気軽に立ち寄れて、一緒にお茶を飲みながらたわいもない話が出来る場を……」と考え、サロンとかカフェとか子ども食堂とかを作ろう、となる。必要な人がいるのは分かるけれど、私はむしろ地域社会の絡みつくような眼差しや、粘っこい人間関係から逃れたくてクラブに行き始めたので、自分としてはひとりぼっちの高齢者になっても「お茶くらい一人で飲みたいな」というのが正直なところだ。
「支える-支えられる の関係 “ではない” 」ことを殊更に強調されるのも気になっていた。支援されたくない、人に頼りたくないという気持ちが強く、誰にも助けを求められないまま生活状況を悪くしていく人も確かに多い。そうした人たちが支援につながるハードルを下げるため、また支援者側が「助けてやっている」という驕りを持たないために、お互いに対等である、ありたいという気持ちを持ち続けることは大切だ。それは分かる。
一方で、「支援されるばかり」「助けられてばかり」という人がいては、いけないのだろうか?という疑問も生まれた。
なぜ仕事も住まいも失い、所持金10円となってから相談に来る人がいるのか。何十年も家から出られず引きこもり続けてしまうのか。それは「誰かの役に立たなければならない」「給料に見合う仕事ができない人は要らない」という価値観に、私たちも彼ら彼女らも囚われ過ぎているからではないだろうか。
だからこそ社会参加の機会を、人の役に立てる機会を、というソリューションが必要でないとは思わないけれど、それだけでいいのだろうか。その人たちを排除してきた価値観と同じ方法で支援して、その人たちは救われるのだろうか。また役に立てなかった、必要とされなかったと、同じように失望する人を増やすばかりではないだろうか。
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遍路に出る理由
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