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さらば河村市政・期待と失望と混迷の15年を振り返る<上> 関口威人の「フリー日和 (⌒∇⌒)□」

(※ 本記事は2024年10月13日のニュースレター配信記事のnote版です)


 今月27日の投開票が決まった衆院選に出馬するため、名古屋市の河村たかし市長が9日に辞職願を市議会議長に提出。市議会で「不同意」となったため、15日の衆院選公示日に自動失職する見込みとなりました。

 15年間の名古屋・河村劇場に幕です。

 僕が新聞社を辞めてフリーになったのは2008年9月。その翌年の2009年4月に河村さんが名古屋市長に初当選しました。以来、かなり変わった視点と立場から河村市政を取材し続けてきた記者として、この15年を2回にわけて振り返ってみます。

環境問題のテーマから注目し市政取材へ

 僕は名古屋社会部では基本、警察記者だったので河村さんのことはテレビで見る以外はあまりよく知らず、自分に縁があるとは思いませんでした。
 でも、フリーになって取り組んだ環境問題のテーマから、市長になった河村さんに注目せざるを得なくなりました。
 里山を切り開くマンション建設に待ったをかけ、緑地を通る道路計画をストップさせる。ちょうど生物多様性の国連の会議(COP10)の地元開催が迫っていたタイミングもあり、東京の環境団体なども名古屋に来て “環境派” と見立てた河村さんを後押ししようとしていました。

 だから僕も里山の現場を見に来た河村市長に声を掛け、やがて市長室にも「記者クラブの壁」にぶち当たりながら入り込み、定例会見にも出始めたのは以前に書いた通りです。


 里山の問題では当時、道路計画のあった相生山緑地のホタルを撮り続けていた動物写真家の故小原玲さんに誘われて、埼玉県所沢市の「淵の森」まで行ってスタジオジブリの宮崎駿監督と河村さんの対面に立ち会うなんてことにもなりました。

埼玉県所沢市の「淵の森」で草刈りに参加した宮崎駿監督に“里山保全の教えを請う”として対面した河村市長。間に入っていたのは河村市長の旭丘高校の同級生で市の経営アドバイザーにも就いた元環境官僚の小島敏郎氏=2009年8月30日、筆者撮影。別カットが『FRIDAY』に掲載されました

 ところが、河村さんが守ろうとしていた里山や緑はことごとく開発され、名古屋市の緑地の割合を示す緑被率も減少の一途をたどりました。

 相生山の道路は建設にストップがかかった後、住民と市との間で前向きな話し合いは進まず、今また実質的に道路計画が復活しそうという動きになりつつある中で、河村さんが辞めてしまうことになります。
 この話はまたどこかできちんと書くつもりですが、環境問題に関しては原発事故の後に自然エネルギーの「名古屋発電会社をつくる」などとぶち上げたまま、当然なにも実現しなかった(当時の市職員によれば一応バイオマス発電などの検討はしたそうです)など、期待をもたせては失望させることの繰り返しだったと言えます。


市民税減税で本当にやろうとしていたこと

 河村さんにとって、僕はたまに出てきて環境だ里山だと聞いてくる変なフリー記者という認識だったはずです。
 まだ定例会見で質問ができなかったとき、里山の問題なんて誰も聞かないので会見後に追い掛けて市長に聞くと、軽く答えてくれた上で「里山もええですけど、減税とかシビアなこともやっとるもんでね」などとめんどくさがられました。

 確かにそれは仕方がなかったですが、実は僕は環境以外にもNPOや市民活動など、当時の民主党政権が「新しい公共」として打ち出していた政策面でも河村市政に注目していました。

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