Cocktail: ベルベットハンマー
『今宵もあなたを想う』
その言葉を見て、私はSNSをスクロールする指を止めた。彼はいま何をしているだろうか。会いたいな、と言いそうになって声を飲み込む。
2ヶ月前、付き合って5年になる彼が仕事の都合でヨーロッパに行ってしまった。早ければ3ヶ月で帰ってくると言われたが、まだいつ帰国できるかは分からないらしい。毎日数回のメッセージと、週末は時差を計算してビデオ通話もしている。それでも、会いたい気持ちは波のようにやってくる。
その言葉は、カクテル言葉を紹介する投稿に載っていた。『今宵もあなたを想う』は、“ベルベットハンマー”というカクテルの言葉らしい。真っ白で美味しそうなカクテルの写真が添えてある。飲みに行こうかな、とふと思った。週の半ばで明日も仕事だが、さっき定時で帰ってきたばかりだ。一杯くらいなら。
『SNSで美味しそうなカクテルを見つけたから、久しぶりに近くのバーに行ってくるね』
とメッセージを送る。既読はつかない。向こうはまだ午前中だから、きっと仕事中だろう。
スマホと財布だけを持って外に出る。徒歩10分のバーは、たまに彼と二人で飲みに行っていた場所だ。彼がヨーロッパに行ってしまってから、一人で行くのは初めてだった。
平日夜の早い時間だからか、店内は空いていた。カウンター席に座り、メニューを見る。確か前に来た時に書いてあったはず…と思いながら一番下まで目を通すと、『メニュー以外のカクテルもお気軽にお尋ねください』とちゃんと書いてあった。
「いらっしゃいませ」
店員がおしぼりを渡してくれる。私はスマホでSNSを開き、
「このカクテル、作れますか?」
とベルベットハンマーの写真を見せて尋ねる。
「あ、作れますよ。少々お時間いただきますが宜しいでしょうか?」
「はい。お願いします」
店員が行ってしまってから、彼とのメッセージ画面を開く。既読はまだついていない。メッセージ画面を閉じて、SNSを適当に眺めながらカクテルができるのを待つ。
「お待たせしました、ベルベットハンマーでございます」
スタンド付きの丸っこいカクテルグラスに、とろりとした白いカクテルが注がれていた。見た目から、生クリームがたっぷりと入っていることが分かる。
「美味しそう、いただきます」
小さく呟いて、一口飲む。上品でしつこくない生クリームの甘さに、しっかりとしたリキュールの味とふんわりとしたコーヒーの味が、絶妙なバランスで混ざり合っている。ゆっくりと味わいながら、私はヨーロッパにいる彼に想いを馳せた。
ブブブッと突然スマホが振動する。画面を見ると、ビデオ通話の着信だった。彼からだ。
「もしもし?平日にどうしたの?何かあった?」
通話に出ると、ヨーロッパの強い日差しを受けて眩しそうに目を細めている彼が映った。
「いや、仕事が午前中で終わったから。そっちは一日仕事だったんだろ、お疲れ様」
「ありがとう。そっちもお疲れ様」
彼は帰宅中らしく、外を歩いている。画面越しでも分かるきめ細かな肌が、太陽の光を受けて白く輝いていた。
「眩しそうだね」
「ヨーロッパの昼は本気で日差しが強いからな。そっちの画面はほぼ真っ暗だけど、バーにいるんだっけ?」
眉間に軽く皺を寄せた彼の顔が、カメラに近づいてきた。
「そう、あの徒歩10分のところ」
「何飲んでるんだ?」
「ベルベットハンマーっていうカクテル。SNSで見かけたんだけど、生クリームたっぷりで美味しいよ」
「ベルベットハンマーか」
ふっ、と彼が笑った。カメラから顔が離れていき、目線が遠くを見つめる。数秒間の沈黙の後、彼が言った。
「ちょっと待ってろ、すぐに掛け直す」
「分かった、じゃあね」
切れたビデオ通話の画面を見ながら、私は頬が緩んでいることに気がついた。会いたいと思っていたら、通話できないはずの日に顔を見れてしまった。嬉しいなあ。ベルベットハンマーを一口飲むと、さっきよりもさらに美味しく感じる。今夜は幸せだな、と思いながら、最後の一口までしっかりと味わった。すぐに掛け直すと言っていたのでそのまま待っていると、10分ほどしてまたブブブッとスマホが振動した。
「お待たせ」
画面の向こうの彼は、どこかの店内にいるようだ。ざわざわとした人の声と音楽がうっすらと聞こえる。ふと、画面の端に映るカクテルグラスを見つけて、私は目を凝らした。さりげなく映り込んでいるように見えるそれは、さっきまで私が飲んでいたものと同じ色をしている。
「そのカクテル…」
「ベルベットハンマー。カクテル言葉は“今宵もあなたを想う”だっけ」
ああ。彼はこういう人なのだ。面と向かって「今夜もお前のことを想ってるよ」なんていうキザなことは絶対に言わない。でも私が飲んでいるカクテルの意図を理解して、すぐに行動に移して、さりげなく「俺もだよ」と伝えてくれる。彼のこの絶妙な塩梅が、私にはたまらなく愛おしかった。
「ねえ」
画面の向こうの彼を見つめる。
「ん?」
直接会うと目線を合わせるのが苦手な彼だけれど、ビデオ通話だと真っ直ぐこちらを見てくれる。
「ベルベットハンマー、次は二人で一緒に飲もうね」
ふにゃっと彼が笑った。
「そうだな」